第四十七話:予言
封印の、限定解除?
釈然としない僕の脳内でその言葉が幾度となく反芻される。なぜなら先ほど館で行われたとおり猫又とは祓うべき対象であるというのが共通の認識だったからだ。けれど拝み屋のおばあさんがいわんとするところには理解が及んでいた。この窮地を打破しなければならない現状において、猫又の力が必須要素であるのだと。
しかし限定解除なる文言の聞こえはいいもののいつ何時暴走しかねない力の利用もとい制御とはそんなやすやすと可能な代物なのだろうか? くわえて操さんの態度が手のひらを返したかのごとく一変した事実もまた、懸念材料の一つとなりかけていた。
「拝み屋であろう者がいきなり封印を解く旨をぬかし困惑するそなたの気持ちはわかる。だが状況は一刻を争うのだ、一朔――決断を渋ってひるんでいる場合ではない」
おばあさんは化け物の鈍重な攻撃をかわしながら話を続ける。いつの間にかさっきまで交戦していた黒服の姿はどこにとて見受けられず、この一帯にいるのは今や僕と操さんだけらしかった。
「猫又は……自分に応じるでしょうか。とうていあの力を操れるとは思えません」
「安心せい、非常時こそ非常時の対処があるというものだ。そなたに巣くう猫又が暴走しないよう私が責任を持って陣を展開して封印と力の調整を行う。もはやこの事態を解決するには猫又に頼る他ないであろう。すべてはうかつに解呪を引き起こした私の責任だ……申し訳のないことをした」
そういい拝み屋のおばあさんはふたたび面持ちを苦渋に満ちたそれへ変えて、迫ってくる巨大な市松人形に立ち向かう。僕は今さら気がついた、本当に限定解除とはやむを得ない決断なのだと。
「お、おばあさ――ぐッ?!」
意を決し声をかけようとしたそのときだった。何度目の感覚だろうか。己に眠る封じられた記憶がしたたかな残響をもたらし、またしても忘れなければならない残渣が障壁となって今発せられんとした言葉が阻まれるのを、ズキズキ頭が痛むなか心の奥底で感じ取る。これは小五の冬に起きた――。
スッ
!! 誰だ。僕の肩に何者か、穏やかならざる存在が手を貸しているのを察知する。件の猫又か。はたまた極小の地獄か。しかし正体など今となっては構う必要はない。いずれにしろ無意識による枷はようやく解き放たれた。ためらいを振り払い――ただ一言、万全たる覚悟をもって口を開く。
「たわけ、性懲りなくまだ婆というか!!」
「すみません――心の準備ができました。限定解除を、お願いします」
操さんは待っていたとばかりに視線を合わせ無言でうなずいた。懐よりなにかの巻き物を取り出したかと思えばそれを化け物に投げつけ、またたく間に手で印を組み呪詞と推測される言辞を唱える。
「『縛ッ』」
儀式にも用いられた合図により呪詞が締めくくられるなり巻き物は巨大な市松人形に巻きつき紋様をにじませその動きを捕らえた。拝み屋のおばあさんはそのまま手を休めずチャンスを狙っていたのか僕へと向き直り、陣を広げ地面に腰を下ろし読経を開始する。
「あの――」
「しばし黙っておれ。今私は市松さんの捕縛と封印の限定解除を同時に行っている、いくらそなたとはいえど集中を削ぐことはけっして許さん」
いきなり鬼気迫った声が飛んできて僕はビクッと身を震わせるしかなかった。周囲には崩れた建築物のおびただしい山が広がり、弱々しい日射しさえ撒き散らされた粉塵によって遮られるなか、かすかに読経のみ聞こえてくるという異様でどこか静謐な空間にネコの影法師は一匹立ち尽くすばかりだ。
(これからいったいなにが始まるんだ……?)
バリッ
変容は兆しらしい兆しを予告せず唐突に僕を襲った。こんな状況にかかわらずふと足のむず痒さを覚えたとき、なにか嫌な音が鳴って思わず地面のほうへ目を落とす。見てみれば足になにか変化が起こり始めており、靴が突然つき破られもはや原型を留めていなかった。次第に襲いかかってきたゾクゾクするような疼痛と共に変形は脚の全体へ伝播してゆく。おもむろにかかとが宙に浮いて、足の白かった爪は手の爪と同様漆黒に染まりあがり、バキボキと音がしそうなすさまじい力を感じながら脚は地を這う獣のそれに近いものへ移り変わった。とてもじゃないけれど姿勢の維持がままならなくて前かがみになることを僕は余儀なくされる。
(な――なんで足が急に!!)
グググ
封を切られた変身はとうに留まるところを知らない。今度は両手に鋭い痛みが走り、バランスの取れないなかで僕はどうにか顔を上げた。視線を眼前へと移せば、爪が無意識のうちにおのずから飛び出し鮮血を噴き上がらせ、大きさを増し切っ先はその鋭さを研ぎ澄まさせる。黒曜石みたいな輝きはいよいよ煌めきを露わに、ボタボタと周囲に散って滴る血の艶に当てられ殺気と瘴気を孕む。
(か……体になにが起こっているんだ?)
すっかり人とも獣とも表現しがたい化け物のような四肢を得て放心するしかできない僕に変貌は情け容赦しない。変わり果てた右手を目の当たりに呆然としていた己の視界がまばたきの二つ三つを経てすぐさま切り替わった。世界より色彩が失われ――夕間際の薄暗闇を背景に白と黒ばかりが跋扈する空間にたたずむ自分をどこか俯瞰的に把握する。それでも瞳はひたすら静かに獲物である市松人形の動向を見据えていた。
(こ、これが猫又の力なのか)
――――。
「ッ?!」
ガクガク
身に起きた変態に戸惑いを覚えながらも平常心を保とうとする僕を見透かしてなのか、間髪を容れずに爆発したんじゃないかと思うほど心臓がドクンドクンと脈打ち始め、衝撃でその場にうずくまる。
この期に及んで気づいてしまった。自分の精神が何者かに侵食されている現状に。
心に空いた傷跡に流れ込んでくるのは純粋なる殺意と人間に対する憎悪、獲物を引き裂きたくて仕方がない本能、そして――かつて獣たらんと生きることを強く望んだ“存在”への憧憬。ドロドロした感情とも思考ともいえない膠みたいなものに自意識は包まれ、今までとは比較にならない勢いで肉薄する獣の性に自我が呑み込まれんとしている事態に、理性の檻は軋んで不快な音を立てる。
(ダメだ。このままだと僕は、僕は……!!)
ファサファサ バサッ
全身が総毛立ってかさを増し、長くなった尻尾は大きく暴れコントロールが利かない。心と体がはち切れそうな己を精一杯保とうとした矢先、どこか――耳なじみある呪いが投げかけられた。
「『そなたのうちなる獣と、流るる血の契において――“解き放て”!!』」
バツンッ
その言葉が響いたとたん僕のなかでなにか大切なものが弾け飛んだ。変化を遂げた身体でやおら立ちあがり、助走をつけ走り出す。すぐさま速度は最大に達し、風切り音が耳をつんざくまま、僕はおそるべきスピードで化け物の懐に跳びかかって風穴を開けようとした。
『キャッ!?』
市松人形は思わぬ強襲にたじろいだのか、すんでのところで身をかわしてみせたものの着物の一部をえぐり取られバランスを崩す。この機を狙っていた自分はガレキと化したコンクリートの壁面を一気に駆けあがって宙に身を躍らせ、勢いに任せて化け物の巨大な右腕をいともたやすく切断した。
ザシュッ
「カカカカカカカカ」
なんと表現すればいいのだろう。この高揚感。獲物を一方的にいたぶることに伴う快楽が脳内を支配して、血しぶきにまみれる黒い毛皮はなおも艶を帯び身体中に熱がほとばしる。そうだ、ああそうさ。僕はとうに人ではなかったんだ。獣人なる爪と牙を封じられた“くびき”より解き放たれ、今となっては本能と暴力のみがその存在を規定する。過去がなにをほざこうとこの力は己が物だ。
『ギ……ギッ』
切り落とされた腕が鈍い音と共に地面へ転がり落ちて、市松人形は苦悶と思しき声を漏らす。一方の僕は興奮が冷めやらず瞳孔を見開き不敵に牙を剥く自分を認識する。ふと、化け物はどんな味か確かめたくなってつい手の甲をペロッと舐めてみた。……アルコールだ。臭いと粘性は血なのに、どこかホワホワする不思議な感覚。けど、それだけ。もうこの獲物に興味はない。片づけようか。
血の海があたり一帯に広がるなか僕はふたたび駆け出し終止符を打とうと動く。市松人形も本気で殺しにかからんと立ちはだかるけれど一部欠損した巨大な体躯の持ち主が縦横無尽に疾走する黒猫の影を追うなど叶うはずはない。悪あがきの踏みつけや振り回した片腕はとっくに意味をなしておらず、体の節をたどって化け物の正面となる首元に跳躍した。視界がまるで今朝夢に見たとおりコマ送りとなって、黒くぽっかりと空いた眼窩を覗き込む。――市松人形は泣いていた。それは未練ゆえか。因果ゆえか。しかしすでに事態はあまりに明白だ。
(僕が……怖いか?)
ただ爪をスッと首筋にかざし、十数メートルほどの高さを何事もなかったかのごとく着地する。化け物がピタリと動きを止めたことを背中で感じ、振り向けば赤い線がうなじまで通っているのが皮の向こうに透けて見て取れた。
プシャー
市松人形は血潮をあたりに撒き散らしゆっくりと崩れ去ってゆく。皮一枚だけつながった頭部は徐々に削げ首が落ち、体は地面に倒れ込んで瓦解し出した。骸は青い炎をまといそこら中に散らばる。
「やってのけたな、一朔!」
化け物の屍が轟音を立てるなか操さんの一言によって変身がまたたく間に解除されたのか、手脚の感覚が通常に戻り視界は元どおりの色彩を取り戻す。瞬間、心肺を握り潰されたかのような感覚が僕を襲い全身にとんでもない激痛が走ってもんどりを打って倒れた。なるほど……変化とは体に猛烈な負担をしいるみたいだ。正直にいうと今しがた自分がなにをしたのか理解できないでいる。けれど確かにこの手この爪で化け物を屠ったという実感だけが残り、言い知れぬ達成感と虚脱感に僕はひたすら打ちひしがれていた。
徐々に激痛は収まったものの、力を使い果たしたのか全身が鉛になってしまったかのごとく動かず、拝み屋のおばあさんが封印に取りかかっている様子を地面に寝そべりながら横目に眺める。ふと、その背後でいまだ残骸の炎がくすぶっているのを捉えた。なんだろうと考えている間にやがてそれは集まり形を成し――鋭い簪のようなものに姿を変える。
(マズい)
直感が即座に危険信号を発するけど事態はとっくに明白だった。無理やり胴体を起こそうとしたところで時間は待ってくれやしない。さっきの戦闘で体を酷使しきったせいで満足に動くことさえままならず、操さんが簪に腹部を貫かれるさまを目の前でただ見ているだけしかできなかった。
ドスッ
「――!!」
僕がなんとか駆けつけたときにはすべてが手遅れで、拝み屋のおばあさんは血を吐いてその場に倒れ込む。しかも頃合いを見計らっていたかのごとく無事封印がなされたのか、簪は瓦解し死に身の炎は消え、あたりは一段と静まり返った。言う事を聞かない五体を引きずって操さんを抱きあげる。
「どうしようどうしよう……こ、ここに怪我人がいます!! 誰か救急車を!!」
「もうよい……もうよいのだ一朔」
「……ッ、い、いや。いやだってこのままじゃおばあさんが!!」
「たわけ、死に際とて私をばあさんと呼ぶか……されどそれも最後か」
いるのかさえわからない周りの人々に僕がうまく出せない声で助けを求めてしゃがれ叫ぶ一方、まるで拝み屋のおばあさんはみずから死期を悟っているかのように落ち着いた素振りで顔に触れてきた。己の無力さが悔しくてボロボロと涙が止まらない。
「ごめんなさい。僕が非力なあまりこんな、こんな……」
「むしろこちらこそ最期にとんだ迷惑をかけて申し訳ない。――そなたは、その力に魅入られたのだ。やがて訪れる“戦いの日”に、きっと役に立つであろう」
戦いの日?
とたんに今朝方夢に見たあの光景が呼び起こされる。夢の中で三八と自分は爪と刃を交え戦っていた。三八が不敵な笑みの裏側に後悔と懺悔に塗りつぶされた悲壮な覚悟を背負っていたであろうことは、しかと覚えていて記憶においても容易にうかがえる。
けど僕はどうだったか。僕はどんな姿をしていたか。あの夢がなにかの兆しであったならば、なぜ操さんはそれを知っていたのか。しかし次に語られた言葉に――この憶測はどうでもよくなった。
「お力及ばず、すみません。……人行潟先生」
息すら絶え絶えな拝み屋のおばあさんは、口から人名らしき単語を漏らす。聞き逃さなかった、いや聞き逃せなかった。驚きと当惑を隠せない自分は操さんが死の淵に瀕しているとわかりながらその人物について聞き出そうと覚悟を決め試みる。ただならぬ予感が胸中に渦巻いていた。
「人行潟先生って誰なのですか? 教えてください、操さん!!」
強引に等しい僕の質問に対し最期の機会だと理解したふうに薄く笑い、両腕に抱えられた小柄な老婆はこう答える。
「人行潟先生は――私の、霊能の師匠だ。仕事も財産も家族もなにもかもを失い自暴自棄になった私を絶望の淵より救い出し命を助けてくださった……恩人でもある」
毛皮を赤くしたサーバル獣人はゲホッゲホと血を吐き求めていないのに体を震わせ話を続ける。
「……すでに気がついていたのであろう? 私がどうしてあのとき待ったをかけたのか。なにゆえ紋様を餌にそなたを私の館につれてきて関係のない除霊へと誘導したのか。なぜ儀式が成功せんとしたさい私は“報い”であると述べたのか。なんの理由で連中を追いそなたを助けにきたのか――」
(まさか)
やめろ。やめてくれ。その先にある結論は誰だって望んじゃいない。身に覚えのない戦慄が走りひどくうろたえる。だけど謎の力によって今起こっている現実に目を離せず耳を塞げないでいた。
「すべては私の私怨が招いた因果だ――一朔。そなたに憑く猫又は、人行潟先生の命を奪った“禍”であり、野放しにすればじきに大いなる災厄を引き起こす存在となろう」
「…………」
僕は返す言葉が見当たらず黙り込む。つまり己のなかに巣くう猫又は人行潟家の仇敵であって、人行潟とはすなわち三八一家のことだ。実際、三八のお父さんは十三年ほど前に亡くなっていると聞く。
不都合な真実はあまりに受け入れがたく――身体は眩暈を覚える。周囲では雷鳴がこだまし始め、生ぬるい風が足元をかすめてゆく。現実はいまだ僕を追い詰めんとしていた。
ゴボッ ゴボッ
ひときわ大きな血のあぶくを操さんは何度か吹いて、焼いた魚みたいに瞳孔が収縮し、いよいよ死が差し迫った気配をうかがわせる。しかし突然グルリと首を回したかと思えば顔をこちらに向け――もう視えてすらいないだろうに――なんら感情が読み取れない両目をカッと見開く。
「――――」
拝み屋のおばあさんはひどくか細い――されどよく通る声で――呪詛とも予言ともとれる言辞を遺し、腕のなかで事切れた。真意はどこにあるのだと言の葉が幾度となく脳内で反響する。
黒と白 爪と刃 託された者たちは相まみえん
いくら血と涙が流れれど 歯止めは利かぬ
口を開いた地獄が いずれすべてを貪り尽くさん
だが忘るるな 本当におそるべきは人なのだと
僕の耳に最期の言葉は、どこか根の国の詩を唄っているかのごとく感じられた。しだいにあたりは騒がしくなり救急隊や警察と思しき人々が駆けつけてきたけれど、詩が繰り返される心中にその音が届くことはなくただ呆然と立ち尽くすのみだった。気がつけば大雨が降り出し、打ちつけるような雨粒が凝固した血を溶かし元在ったところへ還しているみたいに思われた。




