第08話 妹の名前
ようやく莉緒が目を覚ましたのは、日も暮れかけてきた頃だった。
俺は棚から適当に持ってきた本を閉じ、床に置いた。
内容はほとんど頭に入っていなかった。
「ごめん、寝てた」
「あぁ、疲れたんだろうし、仕方ないさ。休める時に休まないと次いつ休めるか分からないしな」
「でも、おにいちゃん昨日もあんまり寝てない」
心配そうな顔でこちらを覗いてくる。
「大丈夫だよ、次は俺が寝かせてもらってもいいか?」
そう言ったところで、窓の外で枝が揺れた。
風かと思ったが、違った。駐輪場の方に人影がある。
俺は莉緒の肩に手を置き、口元に指を当てた。
莉緒はすぐに木の棒を握った。
「り……お……」
聞こえた声に、莉緒の身体が小さく震えた。
俺も息を止めた。
その声は澪だった。
前よりも少しだけ掠れていて、音のつながりは悪い。
それでも、莉緒の名前だけははっきり残っていた。
「お姉ちゃん……」
莉緒が小さく言った。
俺はすぐに首を振った。
声を出すなと言いたかったが、もう遅かった。
窓の外の人影が、こちらへ顔を向ける。
ガラス越しに見えた澪は、片側の顔に黒い痕を残したまま立っていた。
雨で濡れていた髪は乾ききっておらず、頬に張りついている。
右腕は形こそ戻っていたが、袖の下で不自然に固まっているように見えた。
澪はガラスに手をついた。
「りお……そこ……いた……」
声は壊れている。
けれど、その目は莉緒を探していた。
ただ獲物を見つけた目ではなかった。
妹を見つけて安心したように、少しだけ眉が下がる。
莉緒の指が震え、木の棒の先が床に触れて小さな音を立てた。
「莉緒だめだ……」
俺が囁くと、莉緒は首を振った。
「でも、お姉ちゃんだよ」
「分かってる……」
「分かってるなら」
莉緒はそこで言葉を止めた。前にも同じことを言った。
分かっているならなぜ逃げるのか。
分かっているから逃げるんだ。
その繰り返しが、少しずつ莉緒の心を削っている。
澪は窓の向こうで、ゆっくり口を動かした。
「え……ほん……」
莉緒が顔を上げる。
「えほん……よんだ……ね……」
その不完全な言葉に、莉緒の目が大きく揺れた。
澪は思い出そうとしているのか、窓に額を近づけ、苦しそうに言葉を探した。
「りお……ねた……ふり……して……おこ……た……」
「覚えてるの?」
莉緒が一歩進みかけた。
俺は腕を掴んだが、強くは引けなかった。
澪の言葉は、あまりにも莉緒の記憶と噛み合っていた。
「に……さつ……よむ……て……」
澪は小さく笑おうとした。
片側の頬だけがぎこちなく動き、黒い補修痕の奥で何かが軋むように見える。
それでも、その表情は姉のものだった。
莉緒が幼い頃の失敗を思い出して、申し訳なさそうに笑う姉。
その笑顔だけは、まだ残っている。
「お姉ちゃん」
莉緒の声は震えていた。
「私、怒ってないよ。あの時も、本当に怒ってなかった」
澪はガラス越しに莉緒を見つめた。
「りお……やさ……しい……ね」
その言葉に、莉緒の口元が歪んだ。
泣きそうなのに、笑いそうでもあった。
姉に覚えられている。
姉に名前を呼ばれる。
それだけで、莉緒の中の何かが戻りかけていた。
俺は入口の方を見た。
澪は窓の外にいるが、正面に回れば入ってこられる。
図書館の自動ドアは仕組みが分からず鍵がかけられていない。
ここに長くいれば、確実に近づかれる。
逃げるなら今しかない。
なのに、莉緒の足は動かなかった。
「りお……あし……だいじょう……ぶ?」
澪の視線が、莉緒の膝のあたりへ落ちた。
昨日から走り続けて、莉緒の膝には擦り傷ができている。
俺でさえ忘れかけていた傷を、澪は見つけた。
「ころん……だ?」
「大丈夫、こんなの平気」
莉緒は慌てて首を振った。
それはゾンビに向ける返事ではなく、心配性の姉に返す時の声だった。
澪は安心したように息を吐き、それから視線を俺へ移した。
その瞬間、空気がわずかに変わった。
怒りではなかった。敵意でもない。
ただ、何かが噛み合わなくなったような顔をした。
澪の目が、莉緒の肩に置かれた俺の手を見る。俺は反射的に手を離しかけたが、莉緒が崩れそうで離せなかった。
「そこ……」
澪が言った。
「りお……そこ……ちが……」
莉緒の体が強張る。
「え?」
「ゆう……ま……ちか……い……」
澪は自分でも何を言っているのか分からないように、額をガラスに押しつけた。
「りお……いもうと……でしょ……」
その声は責めているのではなかった。
むしろ、困っているように聞こえた。
莉緒は1度俺の手を見て、それから澪を見た。
「私、そんなんじゃ……」
言いかけて、言葉が止まる。
何を否定すればいいのか、莉緒にも分からなかったのだと思う。
俺のそばにいること。
守られていること。
姉の恋人の近くにいること。
そのどれも、昨日までは説明する必要すらなかった。
「お姉ちゃん、違うよ」
莉緒は必死に言った。
「私、お姉ちゃんから悠真を取ろうとしてるんじゃない!でも、今は!」
「ゆう……ま……」
澪は俺の名前を呼んだ。
その声には、恋人を呼ぶ甘さの残骸があった。
「ゆ……うま……わたし…の…かれし」
莉緒の顔が、音もなく崩れた。
嫌われたわけではない。それは分かっても澪は莉緒を心配している。
膝の傷に気づき、絵本の記憶を持ち、妹として救おうとしている。
でも同時に、悠真のそばにいる莉緒を、そこにいてはいけないものとして見ている。
その矛盾が、莉緒を真っ直ぐ傷つけていた。
「……私、どこにいればいいの」
莉緒が呟いた。
俺に言ったのか、澪に言ったのか分からなかった。
「お姉ちゃんの妹でいたいよ。でも、今はおにいちゃんのそばにいないと怖い。それもだめなの?」
「……り……お」
澪は答えられなかった。
ガラスに触れた指が小さく震える。
その指は、妹に手を伸ばしたいのか、俺から引き離したいのか、もう判別できなかった。
「お姉ちゃん!私違う!そんなんじゃない!」
莉緒は突然走り出し、図書館から出ていこうとする。
思わず、その手をつかみ引き寄せる。
「おにいちゃん離して!お姉ちゃんに嫌われたくないの!」
「いいから落ち着いてくれ、今離れたら危ない」
「もういい!こんな気持ちになるくらいならお姉ちゃんのとこに行く!」
「り……お……ち……かい……よ」
「ゆ……まわた……の」
「ゆま……」
澪の顔が怒りに歪んだ。
窓に置かれていただけの手が、強くガラスを叩き始める。
その音で、俺はいま莉緒を抱きとめているのだと、嫌でも自覚させられた。
普段なら気にもとめないだろう距離。
でも、いまの澪にはそんなことが判断はできなくなっているようだった。
慌てて莉緒を離して澪に話しかける。
「澪違う!今のは莉緒が転びそうだったから支えただけだ!」
「そ……だよ……ね、ゆ……まはわ……たしの……だもん」
その言葉で落ち着いたのか、澪は少しだけ笑った。
何とか落ち着いてくれたようだ。
「みお……ころ……んだ?へい……き?なかな……い?」
「転ばなかったから大丈夫だよ」
「そ……ち、いく……ね」
そう言って、澪が離れていく。
それは諦めたのではなく、澪が入口へ回ったのだと分かった。
俺は莉緒の腕を掴み、低く言った。
「今のうちに逃げよう」
莉緒はまだ窓を見ていた。
「やだ、お姉ちゃんのとこに行く」
「澪は死んだんだ!あれは澪じゃない!」
「お姉ちゃんだよ、だって覚えてたし心配してくれた。なんでそんなこと言うの」
莉緒は頭を抱えて蹲ってしまう。
「澪はあれくらいのことで怒らないだろ」
「そう……だけど……」
「莉緒はあんなふうになりたいのか?」
「…………やだ」
少しの沈黙の後、莉緒は答えた。
「俺も、澪があんな風になって、その上莉緒まで失ったら、もう耐えられない……、だから、頼む今は俺のために一緒に逃げてくれ」
長い沈黙を破ったのは、入口から流れてきた電子音だった。
「莉緒!頼む!」
「そんな言い方ずるいよ……、分かった……」
俺たちは息を殺し、職員用の裏口へ向かった。
「ゆ……ま…………り……お……」
すぐそばから澪の声が聞こえる。
俺たちは見つからないように物陰に隠れて澪が通り過ぎるのを待っていた。
「あ……っち……いた……よね」
こちらには気づくことなく、先程までいた場所へと進んでいく。
大雑把な位置は分かっても細かい所までは分からないようだ。
「ゆっくりでいい、気づかれないように行こう」
「分かった」
受付を回り込み、予め開けっ放しにしておいた職員用の扉を潜る。
「りお……どこ……」
莉緒の足が一瞬鈍る。
俺は手を強く引いた。
「見ない方がいい」
莉緒は無言で頷いたが、その目には涙を貯めていた。
慎重に進みようやく、職員用の出入口から外に出る。
外に出ると、図書館の裏は搬入口になっていて、古い台車や段ボールが積まれている。
俺たちはその隙間を抜け、公園側の低いフェンスを越えた。
莉緒が着地する時に膝を押さえたが、声は出さなかった。
その背後で、裏口の扉がゆっくり開く音がした。
澪が出てきた。
そして、莉緒を見つけると安心したように口元を緩めた。
「りお……いた……」
その一言で、莉緒の目に涙が溜まった。
澪は両手を少し広げ、それがおいでと莉緒を誘っているのが分かった。
けれど、その口元がわずかに開いているのも見えた。
救済しようとしている。
「お姉ちゃん、来ないで!」
莉緒の口から明確な拒否が発せられる。
声は震えていた。
それでも、言った。
澪の足が止まる。
「りお……?」
「嫌いになったわけじゃないの。でも、今は行けない。おにいちゃんのことも、放っておけないの!」
澪は傷ついたような顔をした。
その表情が本物すぎて、俺は胸の奥を掴まれたようになった。
莉緒も同じだったのだろう。
今にも謝りそうな顔をしている。
「ゆ……ま…も…いっしょ……さみし……く……ない……」
澪は一歩進んだ。
「りお……いもうと……まも……」
「じゃあ、おにいちゃんの傍にいても怒らないでよ!」
莉緒の声が思ったより強く響き、澪は動きを止めた。
莉緒自身も、自分の声に驚いたように口を閉じた。
澪はゆっくり俺を見て、それから莉緒を見た。黒い補修痕の走る指が、自分の胸元を掴む。
「いた……い……」
小さな声だった。
「なん……で……いた……い……?」
澪自身にも分かっていない。
妹を救いたい。
恋人を救いたい。
二人に一緒に来てほしい。
それだけのはずなのに、莉緒が俺のそばにいると痛む。
その痛みの理由を、澪は知らないまま抱えている。
俺は莉緒の前に出た。
「澪、近づかないでくれ」
「ゆう……ま……」
澪の目が俺へ向く。
その目に責める色が浮かぶ前に、俺は鉄パイプを構えた。
構えた瞬間、澪の顔が怯えた。
管理小屋で殴られたことを覚えているのか、そんな仕草にまで元の澪のままで、腕に力が入らなくなる。
莉緒が俺の服を引いた。
「殴らないで、今は逃げよ」
その声で、ようやく体が動いた。
俺は鉄パイプを下ろさないまま後退し、莉緒と一緒に公園の奥へ走った。
澪はすぐには追ってこなかった。
ただ、その場に立ち尽くして、自分の胸元を握ったままこちらを見ていた。
「りお……」
背後から、澪の声が届いた。
「そこ……じゃ……ない……」
莉緒は振り返らなかった。
でも、その肩は大きく震えていた。
振り返れば、足が止まる。
そう分かっていたから、俺は必死で前だけを見て走り続けた。
公園を抜け、住宅街の細い道へ入ったところで、莉緒は足を止めた。
息が荒い。
膝の傷が開いたのか、制服の布に少し血が滲んでいる。
俺がしゃがもうとすると、莉緒は首を振った。
「大丈夫、少し休めば平気」
そう言って、塀に手をついた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
――莉緒。
――妹。
――そこは違う。
どの言葉も、莉緒の中に刺さったままだった。
「嫌われたわけじゃなかった」
莉緒は下を向いたまま言った。
「ちゃんと覚えてた。絵本のことも、私のことも。でも、おにいちゃんへの執着だけ少し変だった」
「莉緒」
「私、お姉ちゃんの妹なのに。それだけでよかったはずなのに」
莉緒は木の棒を抱えるように持ち直した。
「お姉ちゃんの中で、私、何になってるんだろう」
俺は答えられなかった。
妹。
守る相手。
救済する相手。
恋人の隣にいる邪魔なもの。
たぶん、その全部が混ざっている。
けれど、それをそのまま言うことはできなかった。
言えば、莉緒は着いてこなくなる、そう思ってしまった。
「少し休憩するか?」
俺が聞くと、莉緒は首を振った。
「ううん、大丈夫」
短い返事だったが、そこに泣き言はなかった。
莉緒は図書館の方を一度だけ見た。
そこにはもう澪の姿は見えない。
ただ、光の入る建物の中に、読まれなかった絵本と、昨日までの静かな時間が残っているだけだった。
俺たちはまた歩き出した。
澪が莉緒の名前を覚えていることは、救いにはならなかった。
忘れられていた方が楽だったのかもしれない。
けれど、そんなことを願うには、澪の声はまだ優しすぎた。
莉緒は隣を歩きながら、木の棒を手放さなかった。
その手は震えていたが、俺の袖を掴む回数は、少しだけ減っていた。
*
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。
読後に何か残るものがありましたら、リアクションやコメントで反応をいただけると励みになります。




