第07話 図書館の思い出
コンビニを離れてから、俺たちは住宅街の細い道を選んで歩いた。
大きな通りにはまだ車が残っていて、時々クラクションや警告音が思い出したように鳴っていたからだ。
水と食料を入れた袋は思ったより重く、肩にかけるたびに中のペットボトルが鈍い音を立てる。
莉緒は木の棒を片手に持ち、もう片方の手で袋の端を支えていた。
手伝うと言っても首を振るだけで、さっきからほとんど口を開かなかった。
通りの向こうには、まだ普通の家が並んでいた。
洗濯物が干されたままのベランダ。
玄関先に置かれた子ども用の自転車。
開けっぱなしの窓から流れる朝のニュース音声。
それらは昨日までの生活と同じ形をしているのに、どの家にも、人の気配だけが薄かった。
時々、閉じた玄関の内側から誰かの名前を呼ぶ声が聞こえ、そのたびに莉緒の歩く速度がわずかに遅くなった。
どちらを選んでも、何かを見ないふりしなければ進めなかった。
「図書館、近いよね」
莉緒が言った。
少し迷ってからの声だった。
「行ったことあるのか?」
「小さい頃に、お姉ちゃんに連れて行ってもらった」
莉緒はそう言って、少しだけ口元を動かした。
笑おうとしたのかもしれない。けれど、すぐに目を伏せた。その記憶を口にした瞬間、今の澪まで一緒に浮かんできたのだろう。
雨の中で食べ物を持ってきた澪。
扉の向こうから、崩れた声で顔を見たいと言った澪。
どれも同じ澪で、だから逃げ場がなかった。
図書館へ向かう途中、小さな交差点で足を止めた。
角の向こうから、誰かが同じ言葉を繰り返していた。
「開けて。開けてよ。中にいるんでしょ」
声は若い女の人のものだった。
怒っているわけではない。
泣いているわけでもない。
ただ、家の中にいる誰かを心配しているような声だった。
莉緒が俺の袖を掴んだ。
俺は首を振り、声を出さないように唇へ指を当てる。
角の向こうでは、玄関の扉を叩く音が何度も続いた。
その家の中から、子どもらしい小さな泣き声が聞こえた気がした。
行くべきなのか。
離れるべきなのか。
考えるより先に、莉緒の手が震えた。
「……行こう」
俺が小さく言うと、莉緒は何も言わずに頷いた。
助けなかった。
見捨てた。
その言葉をどちらも口にしないまま、俺たちは角を曲がらずに細い路地へ入った。
図書館は住宅街の奥にあった。
小さな市立図書館で、隣には児童館と公園が並んでいる。
入口の自動ドアは片側だけ動いていて、もう片方は途中で止まっていた。
館内の照明は半分ほど落ちているが、完全な停電ではない。
受付には誰もいない。
返却用の棚には本が積まれたままで、カウンターの上には飲みかけの紙コップが置かれていた。
中に入ると、独特の紙の匂いがした。
昨日までなら、静かな場所だと思ったはずだ。
でも今は、棚の影に誰かがいるのではないかと、背中が勝手に固くなる。
俺は入口近くの床に落ちていたパンフレットを踏まないように避け、莉緒を児童書コーナーの方へ進ませた。
そこなら窓が広く、外も見える。
これなら、逃げる時に奥へ追い詰められにくいだろう。
児童書コーナーには、低い本棚と丸い机が並んでいた。
動物の絵が描かれた小さな椅子がいくつもあり、そのうち1つだけ倒れている。
壁には読み聞かせ会のお知らせが貼られていて、開催日は昨日のままだった。
莉緒は棚の前で立ち止まり、絵本の背表紙を指でなぞった。
その手つきは、武器を握っている時とは違っていた。
「この本、読んでもらったことある」
莉緒は一冊の絵本を少しだけ引き出した。
「途中で私が寝たと思って、お姉ちゃんが勝手に最後まで飛ばしたの。でも私、起きてたから、次の日に怒ったんだ」
「澪は謝ったのか?」
「謝ったけど、たぶん面倒だったんだと思う。じゃあ今日は二冊読むから許してって言って、結局二冊目の途中でお姉ちゃんが寝ちゃった」
莉緒の声には、わずかに温度が戻っていた。
俺は本棚の横に立ち、窓の外と入口を交互に見ながら聞いていた。
こんな時に昔話なんて、と思う気持ちはなかった。
むしろ、莉緒が今そこに手を伸ばさなければ、何かが切れてしまうように見えた。
「塾のお迎えも、図書館で待ってたことあったな」
莉緒は絵本を戻したあとも、しばらく棚の前から動かなかった。
本を読んでいるわけではない。
背表紙の色を1つずつ確かめるように、指先だけをゆっくり動かしていた。
「お姉ちゃん、こういう場所だと静かにしてって言うのに、自分が一番声大きいんだよね」
「想像できる」
「でしょ。私が笑うと、ほらまた怒られたって顔するの。でも、お姉ちゃんも笑ってるから、結局二人で怒られてた」
莉緒はそこで少しだけ笑った。
本当に少しだけだった。
その笑いがすぐ消えてしまうのが惜しくて、俺は何も言わなかった。
莉緒は棚の隅にあった小さな丸椅子に触れた。
動物の顔が描かれた椅子だった。
そこに座るには、今の莉緒はもう大きすぎる。
それでも莉緒は、昔の自分がそこに座っていたみたいに、椅子の背を軽く撫でた。
「お母さんが遅い日、お姉ちゃんが迎えに来てくれて。私、塾のテストで悪い点取って泣きそうだったのに、お姉ちゃんは、肉まん買えば元気出るって言ってさ」
「澪らしいな」
「全然慰めになってないのに、なんか本当に少し元気出た。お姉ちゃんって、そういうところあるんだよ。ちゃんと慰めるの下手なのに、横にいるとなんか勝手に楽になるんだよね」
莉緒はそこで言葉を切った。
絵本の棚を見つめたまま、唇を噛む。
「お姉ちゃん、普通に私のこと分かってたよね」
莉緒は棚を見たまま言った。
「普通って言い方も変だけど。私のことちゃんと覚えてた。なのに、みんなゾンビって言うんだよね」
莉緒は絵本の棚から手を離した。
指先が少し震えていた。
「ゾンビって、殺さないといけないのかな」
「話して分かってくれるなら、それが一番いいんだと思う。でも……向こうは救済を助けることだと思ってるからな……」
思い出すのは、学習塾に入ってきた男たちだった。
あの人たちも、きっとこういう記憶をいくつも抱えていて。
だからこそ、"ゾンビ"なんて言葉で自分たちを正当化しないと、前に進めなかったんだろう。
「お姉ちゃん、私のこと覚えてるよね」
莉緒が聞いた。
問いというより、確認に近かった。
「覚えてる……んだろうな……」
俺は答えた。
「小屋でも、塾でも莉緒のことを呼んでたしな」
「じゃあ、私まだ妹のままなんだよね」
莉緒は、返事を待っているように俺を見ていた。
まだ妹のままなんだよね。
そう聞かれて、俺は頷くことも、違うと言うこともできなかった。
莉緒はしばらく俺の顔を見ていたが、やがて目を伏せた。
怒るでも、泣くでもなかった。
ただ、答えをもらえなかったことだけを抱えて、絵本の棚にもたれるように座り込んだ。
「少しだけ、眠っていい?」
そう言った声は、年相応よりずっと幼く聞こえた。
「ああ、ゆっくり寝な。何かあったら起こすから」
「置いていかないでね」
莉緒は冗談みたいに言った。
でも、笑ってはいなかった。
「置いていくわけないだろ」
俺が答えると、莉緒はようやく膝を抱えた。
そのまま少しずつ体が傾き、気づけば俺の肩にもたれていた。
呼吸がゆっくりになるまで、俺は動けなかった。
莉緒を床に寝かせる時、彼女の手が一度だけ俺の袖を掴んだ。
眠っていても、離れるのが怖いのかもしれない。
俺はその指をそっと外し、近くにあった子ども用のクッションを頭の下へ入れた。
児童書コーナーの中だけを見ると、世界はまだ壊れていないように見えた。
動物の椅子。
読み聞かせ会のポスター。
小さな机。
その真ん中で眠る莉緒だけが、昨日から急に取り残されたみたいだった。
澪に頼まれた。
莉緒のことをお願いね、と。
でも今の俺がしていることは、澪から莉緒を遠ざけることでもあった。
守っているのか。
奪っているのか。
考え始めると動けなくなりそうで、俺は立ち上がった。
逃げ道を確認する。
今できることは、それしかなかった。
児童書コーナーを抜けて、館内マップを眺める。
受付の奥に、裏口へ続く通路があるようだった。
確認のために、受付を回り込んで関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉を開ける。
中は散らかっていて、机の上には途中まで入力されたままの端末が光っていた。
画面には利用者カードの更新案内が表示されている。
そのまま奥へ進むと、外へ出られる扉があった。
他にも非常口を確認し、児童書コーナーへ戻ったが、莉緒はまだ寝息を立てたままだった。
*
あとがき
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