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第06話 まだ動いている街

目を開けた時、教室の中は薄い朝の色に変わっていて、机の上に散らばった消しゴムのかすまで妙にはっきり見えた。

どこかで鳥が鳴いている。

その声だけを聞いていれば、昨日の夜に何も起きなかったように思えたが、入口に積んだ机と、床に置いた鉄パイプと、莉緒の膝の上にある木の棒が、それを許してくれなかった。


莉緒は眠っていなかった。

壁際に座り、膝を抱えたまま、塞いだ窓の方を見ていた。

顔色は悪く、目の下には薄い影ができている。

それでも、俺が起きたことに気づくと、すぐにこちらを見た。


「おにいちゃん、眠れた?」

「ああ、よく眠れたよ」


外の声は、夜より少し減っていた。

代わりに、遠くから自動車の警告音や、どこかの店のシャッターが中途半端に開閉を繰り返す音が聞こえてくる。

街は静かになったわけではない。

ただ、人の叫びが減ったぶん、機械がまだ動いている音だけが妙に目立つようになっていた。


「水と食べ物を探そう」


俺が言うと、莉緒は小さく頷いた。


「ここにずっといるわけにはいかないよね」

「そうだな、もっと逃げやすい所を探した方がいいかもしれない」

「お姉ちゃんも、また来るかな」


その言葉に返事をしようとして、俺は喉の奥で止まった。

来るとも来ないとも言えなかった。

澪がどこまで俺たちを追えるのか、何を頼りに探しているのか、もう分からない。


俺たちは机を少しずつ動かし、階段の方に耳を澄ませてから塾を出た。

外は朝だった。


雨は止み、濡れたアスファルトに白い光が薄く広がっている。

通りには倒れた自転車や散らばった傘が残っていたが、店の看板はまだ点いていて、信号も赤から青へ規則正しく変わっていた。

その正しさが、逆に気持ち悪かった。


角を曲がると、コンビニの明かりが見えた。

自動ドアの前には泥の跡が残っていたが、ガラスは割れていない。

店内の蛍光灯は少しちらついていて、入口横の端末には"通常営業中"と表示されていた。


――通常営業中。


その文字を見た瞬間、莉緒が少しだけ笑いそうな顔をした。

けれど、笑う前に表情が崩れ、唇を噛んだ。


「入ろう、中に誰かいたら……逃げよう」

「うん」


俺たちが近づくと、自動ドアは当たり前みたいに開き、軽い電子音が流れた。

店内に入ると、いつもの明るい店内の匂いが流れてくる。

パンの匂い、冷蔵棚の冷気、床に撒かれた洗剤の匂い。

レジの奥に店員はいなかった。

ただ、制服の帽子だけがレジ横に落ちていて、カウンターには半分だけ開いた段ボールが置かれていた。


棚にはいつも通り商品が並べられていた。

弁当の棚は空に近かったが、水や栄養ゼリー、菓子パンはまだいくつか並んでいる。

俺は水を二本取り、少し迷ってからさらに二本カゴへ入れた。

莉緒はパンの棚の前で立ち止まり、手を伸ばしては戻している。


「持ってっていいのかな」

「ちゃんと払っておこう」

「店員さん、いないよ」

「端末で払えるだろ」


そう言ってレジへ向かったが、自分でもその答えに頼りなさを感じていた。


セルフレジの画面は生きていた。

商品を読み取ると、金額も表示される。

俺は端末をかざした。

けれど、しばらく読み込み中の表示が続いたあと、画面に赤い文字が出た。


《通信状態が不安定です》

《決済処理を完了できません》

《店員をお呼びください》


店員を呼べと言われても、その店員がいない。

もう一度試したが、結果は同じだった。

莉緒は水の入ったカゴを見て、それから入口を見た。


「やめる?」

「食わないと、たぶん動けなくなるよな」

「でも、これって盗むことになるよね」

「そうだな」


言ってから、自分の声がひどく平坦だったことに気づいた。

昨日までなら、コンビニで水を持ち出すなんて考えもしなかった。

今でも、棚から勝手に取った商品を持って出ることに、胃のあたりが重くなる。

それでも、喉は乾いていて、莉緒の唇も乾いていた。

正しさを守って倒れたところで、誰も助けには来ない。


俺はカウンターの下にあったメモ帳を一枚取り、ペンを探した。

持ち出した商品名と金額と、自分の名前を書いた。

意味があるとは思えなかった。

でも、何もしないまま持ち出すことだけはしたくなかった。


「あとで払おう」

「あとでって、来られるの?」

「来るさ、きっと」


莉緒は小さく頷き、カゴの中に自分で取った菓子パンを1つ入れた。

それだけで、少し悪いことをした子どもみたいな顔になった。


冷蔵棚の前を通った時、店の奥から小さな音がした。

床を何かが擦るような音だった。

俺はすぐに莉緒の前へ出て、鉄パイプを握り直した。

バックヤードへ続く扉が少しだけ開いている。

その隙間から、黒い液体のような跡が床へ伸びていた。


「出よう」


莉緒が小さく言った。

俺もそうしたかった。

けれど、扉の奥から聞こえた声が、その足を止めた。


「きゅ……きゅ……さ……」


それは人の声だった。

いや、人だったものの声と言うべきかもしれない。

言葉になりきらない音が、喉の奥で引っかかりながら漏れている。


見ない方がいい。


そう思ったのに、確認しないまま背を向けることも、怖くてできなかった。

俺は莉緒を下がらせて、扉の隙間から中を覗いた。


バックヤードの床に、コンビニの制服を着た男が倒れていた。

年齢は分からない。

頭の上半分がひどく潰れていて、普通なら生きているはずがなかった。

けれど、その潰れた場所は黒い補修痕で覆われ、金属の筋のようなものが皮膚の下に走っていた。

顔は元の形を保てていない。

それでも口だけが動き、何かを繰り返している。


「きゅ……さ……い……しま……」


男の指が床を掻いた。

爪の剥がれた指先が、黒い跡の中をゆっくり動く。

こちらへ来ようとしているのか、ただ体がそう動いているだけなのか分からなかった。

眼球の片方は黒い膜のようなものに覆われ、もう片方は焦点の合わないまま天井を見ている。


莉緒が俺の袖を掴んだ。


「お姉ちゃんも……」


その先は言わなかった。

言わなくても分かった。

澪の言葉が崩れたのは、莉緒がレンチを突き刺したからなのか。

それとも、俺たち以外の誰かが壊したのか。


男の喉が、もう一度震えた。


「いた……く……な……い……きゅ……」


その声には、こちらを脅かそうとする力はなかった。

ただ壊れた機械が同じ案内を繰り返すように、途切れた言葉を吐き続けている。

昨日の駅前で、救済しないとと言いながら噛みついていた男とは違う。

公園で水をくれた女性とも違う。

これは、誰かに頭を潰されたあと、無理やり残されたものだった。


「行こう」


俺は扉を閉めた。

完全には閉まらず、隙間からまだ声が漏れてくる。


「きゅ……さ……」


莉緒はカゴを抱えたまま、動けずにいた。


「莉緒早く」

「お姉ちゃんのこと、私が壊したのかな」

「違う」

「でも、お姉ちゃんの言葉、あの人みたいに……」

「違う!」


二度目の否定は、自分でも強すぎると思った。

莉緒は肩を震わせたが、目を逸らさなかった。

俺は鉄パイプを握る手に力を入れたまま、何も続けられなかった。

違うと言いたかった。でも、澪の頭に刺さったレンチの音も、腕を折った感触も、俺の中に残っている。


店を出る時、自動ドアはまた軽い電子音を鳴らした。

濡れた道路は少し乾き始め、向かいのドラッグストアのシャッターが半分だけ上がっている。

配送ロボットが一台、歩道の端で停止していた。

荷台には誰かの注文品が積まれたままで、画面には"配達先確認中"と表示されている。

配達先の人間がもう扉を開けられないのか、ロボットが道を失っているだけなのか、確かめる気にはなれなかった。


少し離れた路地から、男たちの声が聞こえた。


「頭だって言っただろ!」

「動いてるぞ、まだ動いてる!」

「もう一回やれ!」


乾いた打撃音がした。

莉緒の体が跳ねる。

俺は反射的に莉緒の耳を塞ぎかけて、途中で手を止めた。

聞かせたくない。

でも、聞こえなかったことにして進めるような音でもなかった。

莉緒は自分で耳を塞がず、ただ木の棒を握りしめていた。


「頭を潰せば止まるって、昨日の人が言ってた」


莉緒が言った。


「でも、止まってなかった」

「ああ」

「止めるために壊して、壊れたまま動いて、それを見てまた化け物だって言うのかな」


俺は答えられなかった。

路地の奥では、誰かが荒く息を吐いている。

人を守るためにやっているのだろう。

自分や家族を守るために、そうするしかないと思ったのだろう。

俺だって、澪が莉緒に飛びかかった瞬間、鉄パイプを振った。


それでも、バックヤードに倒れていた男の声が耳から離れなかった。

あれはもう襲う力もなさそうだった。

言葉もほとんど残っていなかった。

それでも、ナノマシンは補修し、声にならない救済を吐かせ続けていた。

壊したのは誰なのか。

AIが悪いのか、人間が悪いのか。

考えようとすると、胸の奥が詰まっていく。


俺たちはコンビニから持ち出した水を、路地裏の小さな駐車場で分けた。

莉緒はペットボトルの蓋を開け、少しだけ飲んでから、口元を手の甲で拭った。


「お姉ちゃんも水持ってきてくれてた」


莉緒はペットボトルを見つめたまま言った。


「寒いって言ってたし、お腹すいてないかなって言ってた。あれ、本当に心配してたんだよね」

「そうだな」

「救済したいって声と、お姉ちゃんの気持ちって、もう分けられないのかな」


俺は水を飲もうとして、蓋を開けたまま手を止めた。

分けられない。

その言葉は、昨日からずっと俺が思い込みたかった結論だった。

澪は化け物だと言い切れれば楽だったから。

でも、食べ物を持ってきた声も、莉緒を許そうとした声も、俺の顔を見たいと言った声も、全部澪だった。


駐車場の端にある精算機が、誰もいないのに音声案内を始めた。


《駐車料金は、事前精算機をご利用ください》


その声はいつも通りだった。

少し先の道路では信号が変わり、止まっていた車の一台が無人のままハザードを点滅させている。

街はまだ動いている。

機械だけが、正しい手順を守ろうとしていた。

その手順を使う人間だけが、もう昨日と同じではなかった。


「行こう」


俺は水をバッグに入れ、鉄パイプを持ち直した。

莉緒も木の棒を握った。

その握り方はまだ頼りなく、指先も震えている。

それでも、さっきより少しだけ、手放さない意思が見えた。


手に入れた水の重さが、盗んだものの重さなのか、生きるための重さなのか、今の俺には分からなかった。

ただ、鉄パイプを握る手だけが、少しずつ重くなっていった。




あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。


読後に何か残るものがありましたら、リアクションやコメントで反応をいただけると励みになります。

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