第05話 失われた声
雨が弱まった頃、俺たちは川沿いの道から住宅街へ入り、閉まりかけのシャッターが並ぶ通りを避けながら歩いていた。
夜の街は、昼間とは違う壊れ方をしていた。
誰かの名前を呼ぶ声があちこちから聞こえた。
母親を呼ぶ声、恋人に謝る声、寒いから開けてほしいと頼む声、帰りたいと泣く声。
それらは怪物の唸り声ではなく、人間の言葉として耳に届くから、聞こえるたびに足が鈍った。
莉緒は何度も振り返った。
雨に濡れた髪が頬に張りつき、手には途中で拾った木の棒を握ったままだった。
けれど、それは武器というより、手を空にしておくのが怖いから持っているものに見えた。
俺も鉄パイプを持っていたが、さっき澪に向けた時の感触が腕に残っていて、力を入れるたびに嫌な痛みが走った。
澪は追ってきていない。
少なくとも、今は声も足音も聞こえない。
そのことに安心するべきなのか、澪を心配するべきなのか、俺には分からなかった。
通りの奥に、学習塾の看板が見えた。
一階は小さな不動産屋で、二階が塾になっている古い建物だった。
階段の入口は半開きで、電気は落ちている。
人の気配はなかったが、ガラス扉の内側に貼られた「無料体験受付中」のポスターが、懐中電灯の弱い光に照らされて浮かび上がった。
俺は莉緒を先に階段へ押し込み、自分も後ろから入って、音を立てないように扉を閉め鍵をかけた。
二階の教室には、低い机が何列も並んでいた。
壁には九九表とアルファベットのポスターが貼られ、ホワイトボードには誰かが書いたままの宿題範囲が残っている。
椅子の上には小学生用のリュックが1つ置き忘れられていて、机の端には消しゴムのかすが散っていた。
ここにも、昨日まで普通の時間があった。
莉緒は教室の奥まで行くと、机に手をついて立ち止まった。
俺が扉の鍵を確認し、机を1つ動かして入口の前に置いている間も、莉緒は同じ場所から動かなかった。
「お姉ちゃん、生きてた」
それは独り言のように聞こえた。
けれど、俺が聞こえないふりをするには、あまりにもはっきりしていた。
「あんなことになったのに、生きてた。あんなことした私を心配してた。あれ、お姉ちゃんだったよね」
俺は机を押す手を止めた。答えたら、何かが決まってしまう気がした。答えなくても、もう決まっていることは分かっていた。
「生きてたよね」
莉緒はもう一度言った。今度は俺を見る。
「助けられたかもしれない。さっきだって、私が叩かなかったら。ちゃんと話せたかもしれない」
「話しても、近づいたら危なかった」
「危ないのは分かってる。でも、だからってあんな……まだ感触が残ってる……」
莉緒の声は荒くなりかけて、途中で折れた。
ただ、自分の手を見つめている。
俺もレンチの突き刺さった澪を思い出し目を伏せる。
「おにいちゃん」
莉緒が真っ直ぐこちらを見つめている。
自分を責めてほしい。
莉緒の目がそう語っている。
「澪は死んだんだ。あれは澪じゃない。澪の記憶を持った別のなにかだ、そうじゃないと辛すぎる」
自分の口から出た言葉は、想像していたよりも冷たく響いた。
莉緒の表情が変わった。
怒りでも悲しみでもなく、何かを踏みにじられたような顔だった。
俺はすぐに言葉を足そうとしたが、喉の奥で詰まった。
――澪は死んだ
そんな言い方でしか、今の俺は線を引けなかった。
本当に死んだと思っているわけではない。
むしろ、澪が生きていることを、声も痛がる顔も雨に濡れた手も、嫌というほど思い知らされている。
「死んでない」
莉緒は低く言った。
「お姉ちゃん、死んでないよ」
「分かってる」
「分かってるなら、そんなこと言わないでよ!」
「分かってるから言ってるんだよ……」
俺は机の背に手を置いたまま、莉緒を見た。
「生きてると思ってたら俺たちは近づく。名前を呼ばれたら返事をしちまう。寒いって言われたら入れてしまう。それをしたら、たぶん次は逃げられない……」
自分に言い聞かせるようにそう言った。
「莉緒を守ってって、澪から言われてるんだよ……」
「お姉ちゃんのせいにしないで」
「そんなこと分かってるさ!でも、そう思わないともう無理なんだよ……」
莉緒は唇を噛み、棒を握る手に力を込めた。
「じゃあ、お姉ちゃんはもう助けないってこと?」
「今は、莉緒を助けたい」
そう答えると、莉緒は一瞬だけ息を止めた。
それから、視線を落とした。
「宿題も見てくれた。分からないって言うと、すぐ答えを教えようとするから、お母さんに怒られてた」
「澪らしいな」
「塾のお迎えも、何回か来てくれた。私が友達とおしゃべりしてると、遅いって文句言いながら、帰りにコンビニで肉まん買ってくれた」
莉緒は棚から一冊だけ低学年用の問題集を抜き出し、開かずに胸に抱えた。
「そんな人が、急に死んだことになるの?」
俺は答えられなかった。
澪が莉緒を大事にしていたことを、俺は知っている。
知っているから、"死んだ"という言葉が、自分の口の中でずっと血の味みたいに残っていた。
夜が深くなるにつれて、外の声は増えた。
建物の前を誰かが通るたび、莉緒は体を強張らせた。
「お父さん、開けて」
「痛くないよ」
「帰ろう」
そんな声が、通りの向こうから、近くの建物の中から、時々は塾のすぐ下からも聞こえた。
どれも誰かを探す声だった。
ただ人を襲うために歩いているのではなく、名前を知っている相手へ向かっているように聞こえた。
だからこそ、余計に扉の外でその声を聞いている人間がいたら、開けてしまうのだろうと思った。
「返事はしないようにしよう」
俺は小さく言った。
莉緒が顔を上げる。
「誰の声でも返事はしないし扉も開けない。たとえ知ってる声でもそうしよう」
そこまで言った時、莉緒の目が揺れた。
言い過ぎたと思ったが、飲み込むことはできなかった。
ここで曖昧にしたら、次に澪の声が聞こえた時に止められない。
止められなければ、莉緒を守れない。
守れなければ、澪を置いて逃げたことまで意味がなくなる。
莉緒はしばらく黙っていた。
それから、抱えていた問題集を机の上に置いた。
「お姉ちゃんの声でも?」
「そうだ」
「泣いてても?」
「そうだ」
「寒いって言っても?」
俺は息を吸った。
その問いが、さっきの管理小屋の扉の向こうに立つ澪を連れてくる。
濡れた髪、青白い唇、見ないでと言った声、痛いと震えた声。
「開けない」
そう言うと、莉緒は顔を歪めた。
「ひどい」
「分かってる」
「おにいちゃんひどいよ」
「それでも、今は莉緒を守るって決めたんだ」
莉緒はそれ以上言わなかった。
「なにかあったら起こすから。いまは少しだけ寝とけ」
「おにいちゃんは?」
「莉緒が起きたら少し寝るよ」
色々あって限界だったんだろう。
莉緒はすぐに寝息を立て始めた。
空が白み始めてきた頃、塾の外の通りに水を踏む音が聞こえた。
雨はほとんど止んでいたから、その足音ははっきりしていた。
階段の下で一度止まり、ゆっくりと上がってくる。
俺は床に置いていた鉄パイプを握った。
足音は二階の踊り場で止まった。
「莉緒」
短く言って、体を揺する。
「……ん、もう少し」
「起きろ、誰か来た」
莉緒は飛び起きる。
「お姉ちゃん?」
「分からない」
1度踊り場で止まった音は、改めて動き出しこちらへ向かっていた。
「ゆ……ま……」
微かに聞こえた声に、相手が澪であることを悟り莉緒の顔には戸惑いが浮かぶ。
「なんで、場所が分かるんだ?」
「多分、端末の位置情報かな。AI経由で場所が知らされてるんじゃないかな」
それはあり得ることだった。
かといって、スマホを手放すことはできない……
「位置情報オフにするか?」
「それでも、AIなら把握してくるんじゃない?」
「じゃあ、考えるだけ無駄だな」
「ゆ……ま、……りお、……あ…けて……」
扉の向こうから、澪の声がした。
莉緒の肩が跳ねた。
俺も、握っていた鉄パイプに力を入れ直した。
声は不気味なままだった。
ナノマシンによる再生でも脳までは完璧に直せないのかもしれない。
澪は苦しんでるんじゃないか?
そんなことを考えた瞬間、机をどかしたくなる自分がいて、俺は奥歯を噛んだ。
莉緒が立ち上がりかけた。
俺は振り返り、首を振る。
莉緒は泣きそうな顔で俺を睨んだが、声は出さなかった。
澪は扉の向こうで少し息を整えるように沈黙した。
「ごめ……ん……ね……、こわ……か……たよね……、でも……ちゃん……とはなそ……」
その言葉は、俺たちが一番聞きたかったものだった。
そして、一番聞いてはいけないものだった。
「あ……けて……ゆ……ま、かお……みた……い」
澪はそう言って、扉に手を触れた。
古い扉が小さく鳴る。
莉緒の口がわずかに開いた。
俺はすぐにそばへ行き、莉緒の手を掴んだ。
声を出すな。
目だけでそう伝える。
莉緒は何度も首を横に振った。
返事をしたい。
ここにいると伝えたい。
姉を無視する自分になりたくない。
そんな言葉が、声にならないまま莉緒の喉で震えていた。
「り……お…だい……じょう…ぶ、も……いたく……ないから……だい……じょ……ぶ、おこ……てない……よ」
莉緒の目から涙が落ちた。
棒を握る手がほどける。
それでも、声は出さなかった。
俺はその横顔を見て、胸の奥を掻きむしられるような気がした。
澪は妹を許そうとしている。
莉緒は姉に許されたい。
そのどちらも本物なのに、扉を開ければ終わるかもしれない。
「ゆ……ま…………わた……し……いきて……るよ」
その言葉に息が止まった。莉緒が俺を見た。
澪に聞こえたはずはない。
この教室に来てから俺が言った言葉だった。
でも、扉の向こうの澪は、俺たちの会話を知っているみたいにそう言った。
いや、知っているのではないのかもしれない。
俺がそう考えそうなことを、澪なら分かる。
そう思うと、さらに逃げ場がなくなった。
澪は笑うように、泣くように言った。
「ここ……に……いる……よ」
莉緒が机に手をついた。
今にも扉へ走りそうだった。
俺はその前に立つ。
「澪」
声を出すべきではなかったのかもしれない。
けれど、黙っていれば莉緒が壊れてしまいそうだった。
「俺たちは開けない」
扉の向こうが静かになった。
「どう……し……て?」
「近づかないでくれ」
「ちか……づかな……いと……すく……え……ない……よ?」
途切れ途切れの声なのに、なぜか、その声に優しさが溢れているのが分かった。
けれど、莉緒の体が小さく震えた。俺も、背中に汗がにじむのを感じた。
澪に悪意がないことは、声を聞けば分かってしまう。分かってしまうから、俺は扉越しの声に向かって鉄パイプを握り直すしかなかった。
「りお……いっしょ……に……いこ……う」
莉緒は泣きながら首を振った。
声を出していないのに、扉の向こうの澪はそれを見ているみたいに続けた。
「どう……して?」
莉緒の膝が崩れ座り込みそうになったところを俺は片手で支えた。
澪の声はまだ優しかった。
妹の弱さをよく知っている姉の声だった。
その時、階段の方から別の足音が聞こえた。
澪だけではない。
通りを歩いていた誰かが、声に引かれるように近づいているのかもしれない。
扉の向こうで澪もそれに気づいたのか、短く息を吐いた。
「ひと……くるよ……、あけ……て、たすけ……て」
「開けない!」
そう宣言すると、澪の気配は遠ざかっていった。
「あっちだ!逃がすな、追え!」
そんな怒声が聞こえてくる。
「おい、ここの扉開かないぞ!ここに逃げ込んだのかもしれない!」
「ぶっ壊せ!」
そんな声とともに教室の窓が割られ、何人かの男が中に入ってくる。
「よし、動くな。まずは袖をまくって腕を見せろ。そのあとは首だ」
男に命じられるがまま、腕と首筋を見せる。
「よし、ゾンビじゃないな。ここにゾンビがこなかったか?」
澪のことを言ってるんだろう。
ゾンビ……
澪をそう呼ぶことに嫌悪感を覚えながらも、その呼び方がやけに腑に落ちる。
「いえ、通り過ぎて行った足音があったのでそれかもしれません。あなた達は?」
「俺たちはゾンビを駆除して回ってる」
「駆除って……」
莉緒が震えながら腕を掴んでくる。
きっと、澪が倒れた時のこと、その時の感触を思い出しているんだろう。
俺も澪の骨を折った感触が蘇ってきた。
「さっきの手と首っていうのは?」
「あいつらは人に擬態するのが上手すぎるんだ。生前と全く変わらない顔で態度で近づいてきて襲ってきやがる。愛してると言ったその口で噛みつこうとしてくる」
そこで、苦々しい顔で言葉を止める。
この人も俺たちと同じような経験をしたんだろう。
そして、きっと大事な人を手にかけた……
「確実じゃないが、腕とか首筋に、どす黒い血管みたいな痕が浮いてんだよ。だから、その痕がないなら人間と信じるしかない」
疑いが消えるわけではないが、その判断しかできないってことなんだろう。
確かに澪の首にもそんな痕があった。
「いいか、1つだけ忠告しておく。あいつらは化け物だ。同情するな。同情して近づいて、ゾンビになったやつを今日だけで何人も見てきた」
そこで、一旦言葉を区切り俯く。
男の顔にははっきりと後悔と書かれていた。
「腕を折っても止まらない。足を潰しても這ってくる。しかも、しばらくしたら治ってやがる」
それは澪や昼間の女性を見ていたので、それがよく分かった。
「だから頭をやれ。頭を潰せば、治ったあともなぜか襲ってこなくなることがある。きっと脳が壊れるとかそんなとこだろ。じゃあ、気をつけろよ」
親切そうな態度を取ってはいるものの、ゾンビではない可能性は捨てきれないんだろう。
1度も視線を逸らすことなく、男は去っていった。
「おにいちゃん、ゾンビって……」
「澪を見たあとだと否定できないのが辛いな……」
「そう……だね……」
割れたガラスを本棚で塞ぎ、俺は鉄パイプを抱えたまま壁にもたれた。
眠るつもりはなかった。
けれど、目を閉じた瞬間、澪の壊れた声だけが耳の奥に残った。
*
あとがき
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