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第04話 雨の中の澪

雨は、夜になってから本格的に強くなった。

俺と莉緒は川沿いの管理小屋に逃げ込み、錆びた工具棚と折りたたみ椅子の間で息を殺していた。

小屋の窓は曇っていて、外の様子はほとんど見えない。

それでも、雨がトタン屋根を叩く音と、川の水が増えていく低い音だけは、壁越しでも体の奥へ響いてきた。

濡れた服は肌に張りつき、靴の中まで水が入っていたが、寒いと口に出す余裕はなかった。


莉緒は床に座り、膝を抱えていた。

さっきから一言も話していない。

ただ、時々唇を噛み、何かを言いかけては飲み込んでいる。

俺は小屋の隅から見つけた古いタオルを差し出したが、莉緒は受け取ったまま動かなかった。

その視線は、自分の手首に残った赤い跡へ落ちていた。

澪に掴まれた跡だった。


「莉緒、体冷えちゃうからちゃんと拭いとこう」


俺が言うと、莉緒はようやくタオルを髪に当てた。

けれど、拭くというより、ただ頭に乗せただけだった。


「お姉ちゃん、泣いてた」


莉緒の声は雨の音に紛れそうなほど小さかった。


「私のこと、分かってた。悠真のことも分かってた。なのに、なんで置いてきたの」


責められることは分かっていた。

それでも、実際に言われると返す言葉がなかった。


俺は工具棚の前に立ったまま、濡れた袖を握った。

あの時、澪は正気だった。

けれど、「多分一緒にはいられない」という言葉は澪自身が発した言葉だった。

その言葉の意味は今でもはっきり分からない。


「俺にも分からない」

「分からないのに置いてきたの?」

「分からないから、置いてきたんだ」


莉緒が顔を上げた。

目は赤かったが、涙は落ちていなかった。


「それって、お姉ちゃんは死んだことにしたってこと?」

「違う!」


すぐに否定したが、自分の声が弱いことは分かった。

違うと言い切れるだけのものを、俺は持っていなかった。

莉緒はタオルを握りしめ、また俯いた。


「お姉ちゃん、私に来ないでって言った。でも、助けようとしてた。怖がってたのは、お姉ちゃんの方だったよね」

「分かってる」

「分かってるなら!」


莉緒はそこで言葉を切った。

続きを言えば、自分でも何を求めているのか分からなくなると気づいたのかもしれない。


澪を助けに戻りたい。

でも、近づくのは怖い。

置いてきたくない。


でも、自分を噛もうとした姉の顔が頭から離れない。

その全部が、莉緒の肩を小さく震わせていた。


莉緒は少し迷ったあと、濡れた上着に手をかけた。


「おい!いきなり何してるんだ!」

「体拭くだけ。脱がないと拭けないし、濡れた服気持ち悪いじゃん」

「脱ぐなら一言言え!」

「おにいちゃんも脱いだ方がいい。そのままじゃ風邪ひくよ」


莉緒ももう高校生なんだから、少しくらい恥じらいを持って欲しい……

視線を向けないように注意しながら窓のそばへ行き、曇ったガラスを袖で拭った。

外は雨で白く滲んでいる。

川沿いの道には街灯がいくつか残っていたが、奥の方は暗く、どこまで道が続いているのか分からない。

時々、遠くから人の声が聞こえた。

そのたびに莉緒の肩が跳ね、俺も息を止めた。

助けを求める声なのか、誰かを呼ぶ声なのか、雨に遮られて判別できない。

でも、普通じゃない何かが起きてるのは間違いなかった。


管理小屋の中には、古い工具と掃除用具が残っていた。

俺は使えそうなものを探し、短い鉄パイプと懐中電灯を拾った。

懐中電灯は何度か叩くと弱く光ったが、電池が切れかけているらしく、白い光はすぐに黄色く震えた。

莉緒はその光を見て、少しだけ顔をしかめた。


「殴るの?」

「襲ってきたらどうにかしないとだろ……」

「お姉ちゃんだったら?」

「……分からない」


そこまで言って、自分で言葉を止めた。

守るためなら、澪を殴る。

そう言えば、たぶん莉緒は傷つく。

でも、言わなくてももう伝わっていた。


莉緒は立ち上がり、工具棚の横にあった小さなレンチを手に取った。

持ち慣れていない手つきで、重さを確かめる。


「私も持つ」

「無理しなくてもいいんだぞ」

「守られてるだけで、おにいちゃんが傷つくのはいや」


その言葉は強く聞こえたが、指先は震えていた。

俺は止めようとして、やめた。

莉緒が武器を持つことを許したわけではない。

ただ、単純に俺に何かあった時に自分の身を守る手段は必要だと思った。


その時、小屋の外で、水を踏む音がした。

雨音とは違う。誰かがぬかるんだ地面を歩いている音だった。

俺はすぐに懐中電灯を消し、莉緒の腕を引いて工具棚の陰へ下がった。

莉緒も息を止める。

足音はゆっくり近づいてきた。急いでいる様子はない。迷っているようでもない。

まっすぐ、この小屋へ向かってくる音だった。


「悠真」


雨の向こうから、その声が聞こえた。

莉緒の体が固まった。

俺も、握っていた鉄パイプを落としそうになった。

その声は澪だった。


「悠真、莉緒もいるよね?傘さしてたんだけど、濡れちゃったから入れてくれないかな?」


雨に濡れて少し震えているだけで、いつものように俺の名前を呼ぶ声だった。

行けと言った澪がなんでこんな所にいるのだろう。

それが分からなかった。


「ねぇ、早く中に入れて、風もすごくて傘も壊れちゃったの」


薄い扉一枚を隔てた向こうに、澪がいる。

それだけで、胸が痛いほど締めつけられた。

莉緒の目から、今度こそ涙が落ちた。


「……お姉ちゃん」


俺はすぐに莉緒の口を手で塞ぎそうになり、ぎりぎりで止めた。

声を出すなと目で伝えると、莉緒は何度も首を振った。

扉の向こうの澪は、俺たちの小さな動きなど知らないはずなのに、少しだけ笑ったように息を吐いた。


「莉緒、そこにいるんだ。よかった、ちゃんと一緒にいたんだね」


その言い方は、妹を心配する姉のものだった。

莉緒の足が一歩、扉へ向きかける。俺はその肩を掴んだ。莉緒は振り向き、泣きながら睨んできた。

開けたいのだ。

姉が雨に濡れて外に立っている。

寒いと言っている。

その事実だけなら、開けない方がおかしい。


「澪、こんな雨の中、何しに来た?」


俺は扉越しに声を出した。

自分の声が震えていないか、そればかりが気になった。


「こんな雨だから、心配してきたんだよ。寒くないかな?お腹すいてないかな?って。そうだ、ご飯も持ってきたよ。冷めちゃったけど、濡れてはないと思うから一緒に食べよ」


心の底から心配するような声だった。

いつも通りの澪の声だった。


莉緒が扉へ近づいた。

俺は肩を掴んだが、今度は強く引けなかった。


「お姉ちゃん」


莉緒が呼ぶと、扉の向こうの澪はすぐに反応した。


「莉緒」

「本当に、お姉ちゃんなの?」


その質問を聞いて、俺は喉の奥が詰まった。

莉緒は、偽物かどうかを確かめたかったわけではないのだと思う。

ただ、そう聞かなければ、今にも扉を開けてしまいそうだったのだ。

澪はしばらく黙り、それから少し傷ついたような声で笑った。


「そうだよ。莉緒の大好きな甘い甘い卵焼きを作るお姉ちゃん。雷が鳴ると、寝たふりして莉緒が部屋に来るのを待ってたお姉ちゃん。悠真が初めてうちに来た時、莉緒が玄関で転んで泣いたの、覚えてる?」


莉緒は口元を押さえた。きっと覚えているのだろう。俺はその話を知らなかった。

知らない記憶を澪が口にしたことが、扉の向こうにいるのが澪だという証拠のように思えた。

莉緒の足がまた一歩進む。俺は今度こそ掴んだ。


「だめだ!」

「でも!」


莉緒は俺を睨んだが、その目には怒りよりもお願いがあった。

少しだけでいいから信じさせてほしい。

そう言われている気がした。

俺が迷ったその一瞬で、莉緒の手が扉にかかった。

止めようとした時には、もう鍵が外れていた。


外灯の白い光の中に、澪が立っていた。

髪もコートもびしょ濡れで、唇は青白く顔色は悪い。

けれど、その顔は間違いなく澪だった。

俺が何度も見てきた顔で、泣くのを我慢する時の目元の力の入れ方まで、見間違えようがなかった。


「ご飯を食べて落ち着いたらちゃんと説明するから。一緒に「楽園」に行こう?お父さんもお母さんも待ってるよ」


――楽園


その言葉が出た瞬間に、莉緒を引き寄せる。

莉緒を守るように腕に抱え、鉄パイプで澪を牽制する。


「莉緒、そんな格好してたらダメだよ」

「濡れたままじゃ風邪ひくだろ?」

「でも、ちょっと近いよ。ねぇ、悠真何持ってるの?」


少しだけ拗ねるような顔をしてはいるけど責めるような言葉は出てこない。

場違いだと思いつつ、そんなことを考えながらも澪から視線は外さない。

莉緒はまだ濡れた上着を脱いだまま、タオルを肩にかけただけの格好だった。


「莉緒、奥で服着てきてくれ」

「分かった」


服を着に奥へ走る莉緒を守るように澪の前に立ち塞がる。


「どうしたんだ?ただ服を乾かしてただけだろ」

「うん、知ってる。悠真が莉緒と浮気なんてするわけないよね。ねぇ、莉緒にしてたみたいに、私のことも温めてよ、濡れてて寒いんだよ」


澪が一歩近づく、俺は1歩下がる。


「なんで逃げるの?大丈夫だよ、救済は怖くないから。向こうは幸せだし、こっちでも一緒にいられるよ」


澪が一歩近づくたびに、俺は一歩下がった。

鉄パイプを構えているのに、振れなかった。

澪の顔をしている。

澪の声で、寒いと言っている。

それだけで、腕に力が入らなかった。


背中が壁に当たった。

逃げ場がなくなった俺に、澪がゆっくり近づいてくる。

そして、いつもみたいに俺の背中へ腕を回した。


「捕まえた。大丈夫、噛まないから安心して。まずはご飯食べてゆっくり話そう」


澪は俺の手を取って、撫でろと言わんばかりに頭の上に載せる。それはいつもの澪のクセで涙が溢れてくる。


「おにいちゃんから離れて!」


震える手で莉緒がレンチを振り回す。

殴りつける衝撃が、澪の体を通して俺にまで伝わってくる。


「莉緒痛いよ。やめて」


さほど痛そうにも聞こえない声で莉緒をなだめ始める。


「おにいちゃんから離れてってば!」


タイミングが悪かった。

そうとしか言いようがなかった。


莉緒が振り下ろしたレンチに、澪が振り向いた。

硬いものが潰れるような、気持ちの悪い音がした。

レンチの先が、澪の目元に深く突き刺さっていた。

澪の体は1度大きく震え、その後動かなくなった。


「お姉……ちゃん。え?私……なんで?私が殺した……?」


俺も莉緒も何も言えず、横たわる澪を見下ろす。

横たわる澪の顔からは金属製の何かが生えている。

あれはなんだ?

人の体にあんなものが生えてるわけがない?


――致命傷


そんな言葉が脳裏を過ぎる。

当たり前だあれだけ深く突き刺さっていたら脳まで届いてる。

生きてるわけがない。


「いや……いやぁぁぁぁっ!!」


莉緒の絶叫で、正気に戻る。


「お姉ちゃん!お姉ちゃん!やだ!やだよ!ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


莉緒は澪の体にしがみついて泣き続ける。

俺は何も言えなかった。

慰めることも、責めることもできず、涙で歪む視界の中で、ただただ叫び続ける莉緒を見つめることしかできなかった。


どれくらいの時間そうしていただろう、莉緒の叫び声は止み、小さなすすり泣きだけが聞こえていた。

俺はというと口を開けばどんな言葉が出てくるか分からず、莉緒に何も声をかけられないまま、澪の亡骸を眺めている。


「だ……だい…じょ……う……ぶ…、り……お…なかな……いで」


突然、澪が口を開いた。

大丈夫なわけがない。

あれで人間が生きているわけがない。


それでも澪は、壊れた言葉で、はっきり俺たちに話しかけていた。


「お姉ちゃん!」

「きゅ……さ……い、だい…じょ……ぶ、こ……わく…な…い」

「莉緒!」


澪にしがみついたままの莉緒を引き寄せ、警戒する。


「ゆ……ま……こわく……な…いよ……」


ゆっくりと立ち上がる澪の顔は、傷だった部分が黒い何かで覆われ塞がっている。

そこに突き刺されたレンチは、ないものかのように、澪はこちらを見つめている。


「ゆ……ま……り…お、いっしょ……に……」


言葉のぎこちなさとは裏腹に、普段の澪にはない俊敏さで莉緒に抱きつくと、大きく口を開く。

一瞬だけ躊躇したあと、手に持った鉄パイプを澪に向かって振り下ろす。

嫌な音がして、澪の腕が変な方向に曲がる。


「莉緒逃げよう!」

「でも!」


戸惑う莉緒を抱えて、俺は小屋から駆け出した。

俺の手には抱えた莉緒の感触ではなく、振り抜いた鉄パイプの感触だけが残っていた。



SIDE:澪


頭が重くて、何があったかよくわからない。

殴られた?

悠真が莉緒を抱きしめてた?

お姫様抱っこで走っていった。


ずるい、私もしてほしい。


……そうだ、救済しないと。

悠真。

莉緒。

私が助けてあげるからね。



あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。


読後に何か残るものがありましたら、リアクションやコメントで反応をいただけると励みになります。

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