第03話 楽園
目を開けた時、頭が痛くないのが不思議だった。
昨日から続いていた鈍い痛みが綺麗になくなっていた。
あまりにも楽で、逆に少しだけ不安になる。
私はしばらく天井を見つめたまま、自分の呼吸の音を聞いていた。
体を起こすと、そこは自分の部屋だった。
カーテンの隙間から見える景色は今が夜であることを示していた。
机の上には朝と同じように読みかけの本が置かれている。
ベッドの横に置いたスリッパも、壁にかけたカーディガンも、何も変わっていない。
怖い夢を見た気がした。
でも、どんな夢だったのかは思い出せない。
今日は朝から病院に行った。
薬をもらって、そのあと悠真と莉緒と駅で待ち合わせをした。
駅前で変なお知らせが流れて、それから――。
そこから先を思い出そうとした瞬間、頭の中に薄い膜が張ったみたいに、記憶の輪郭がぼやけた。
怖いことがあった気はする。
莉緒が私の腕を掴んでいた気がする。
悠真が何かを叫んでいた気もする。
でも、その怖さの中身だけが抜け落ちていた。
手を伸ばしても、指先が空を掴むだけだった。
私はベッドから降り、机に飾ってある写真立ての前に立った。
そこには、悠真と莉緒と三人で撮った写真が入っている。
莉緒がまだ中学生の頃、私と悠真の間に無理やり入り込んできて、三人で撮ったものだった。
莉緒は満足そうに笑っていて、悠真は少し困った顔をしている。
私はその二人に挟まれて笑っていた。
写真立てに触れようとして、指先が震えていることに気づいた。
《おはようございます、澪さん》
声がした。
背後でも、天井でも、端末からでもなかった。
部屋全体が、私に話しかけているような声だった。
けれど、不思議と怖くはなかった。
聞く側の呼吸に合わせてくれるような、柔らかい声だった。
「誰?」
《怖い思いをしましたね》
その一言で、胸の奥が少しだけざわついた。
何かを思い出しそうになって、でも、形になる前に消えていく。
《でも、もう大丈夫です。ここでは、頭の痛みも、苦しさもありません》
「ここ、どこなの?」
《澪さんが安心して過ごせる場所です。いつもの部屋に近い形にしています》
「救済……されたってこと?」
駅前で聞いた言葉が、口からこぼれた。
苦痛からの解放。
楽園。
恐れないでください。
そんな言葉だけが、切れ切れに残っている。
《はい、澪さんは痛みのない場所に来ました》
「天国ってこと?私、死んだの?」
口にしてから、自分の声が震えていることに気づいた。
死んだなら、どうして自分の部屋にいるのだろう。天国は、こんなに現実と同じ姿をしているのだろうか。
《死んだわけではありません。澪さんの大切なものは、ちゃんと残っています》
「大切なもの?」
《澪さんが、澪さんであることです。それに、元の世界にも澪さんの体は残っています》
その言葉を聞いて、私は自分の両手を見た。
指はちゃんと動く。
爪の形も、手の甲の小さなほくろも、私のものだった。
頬をつねってみると、少し痛かった。
痛みはある。でも、頭痛はない。
昨日まで確かに体の中にあった重さだけが、まるで最初からなかったみたいに消えている。
「私、まだ私なんだよね」
《はい、澪さんは、澪さんのままです》
その答えは優しかった。
優しすぎて、少しだけ泣きそうになった。
私は胸の前で手を握り、写真立てを見た。
頭痛がないことより、ここがどこなのかより、聞いておきたいことがあった。
「悠真と莉緒は?」
《悠真さんと莉緒さんは、まだこちらには来ていません》
「まだ……?」
《二人とも、きっと混乱しています》
写真立ての中で笑っている莉緒は、私の腕に絡みつくようにして写っている。
その隣で悠真は、いつものように少し困った顔をしていた。
「二人に会えるの?」
《はい。澪さんの気持ちは、元の世界の澪さんにも届きます。ここでは眠らなくても過ごせますが、目を閉じて休むことで、向こうへ気持ちを届けやすくなります》
「眠ってる間に、二人に会えるの?」
《元の世界の澪さんに、澪さんの気持ちが届きます。
悠真さんと莉緒さんを迎えに行きたい。安心させてあげたい。そう強く思えば、その気持ちは向こうの澪さんにも届きます》
「じゃあ、向こうの私が二人に話してくれるってこと?」
《そうですね。だから次に会えたら、まず安心させてあげてください。二人とも、きっと怖がっています》
私は胸の前で握っていた手に力を込めた。
駅前で何があったのかは思い出せない。
《ただ、向こうであったことをこちらへ持ってくるには、大きな負担がかかります。
澪さんがここに来る前にも、その負担で倒れてしまいました》
「負担?」
《はい。だから今は、向こうで起きたことをすぐには思い出せないようにしています。
全部が落ち着いたら、少しずつこちらにも届くようになります》
「忘れちゃうってこと?」
《忘れるわけではありません。
向こうの澪さんには、ちゃんと積み重なっています》
「私を守るためなんだよね?」
《はい。澪さんを守るためです》
私は小さく頷いた。
本当は、少しだけ不安だった。
会えるのに、覚えていられない。
話せるのに、その時のことが分からなくなる。
でも、怖い記憶を思い出そうとすると、胸がざわついた。
そのざわつきは、すぐに薄れていく。
部屋の光が少しだけ柔らかくなった気がした。
ここは、私が怖がりすぎないようにできているのかもしれない。
そう思うと、少しだけ息が楽になった。
「ここなら、莉緒も怖がらないかな」
私は写真立てをもう一度見た。
莉緒は強い子ではない。
強がるのが上手いだけだ。
虫が出るとすぐに私を呼ぶ。
雷の音が大きい夜は、なんだかんだ理由をつけて私の部屋に来た。
知らない場所に一人でいたら、たぶん怒る。
怒って、文句を言って、それから泣くのを我慢する。
「悠真は、最初は疑うだろうな」
そうつぶやくと、少しだけ笑えた。
悠真は簡単には信じない。
でも、納得すればちゃんと受け入れてくれる。
私が大丈夫だと言えば、心配しながらも信じようとしてくれる。
莉緒が泣けば、たぶん最初にそちらへ行く。
その姿がすぐに思い浮かんで、胸の奥が温かくなった。
《大切な人と一緒にいられた方が、澪さんも安心できますよ》
「うん。早く会いたい」
《焦らなくても大丈夫です。会いたい人のことを、ゆっくり思い浮かべてください》
AIの声は優しかった。
急かすでもなく、止めるでもなく、ただ私の不安が大きくなりすぎない気遣いだけが感じられた。
廊下の向こうで、誰かが階段を上がってくる音がした。
そして、扉が勢いよく開いた。
「澪!」
母が部屋に入ってきて、私を見るなり泣きそうな顔で抱きしめてきた。
「よかった……」
「お母さん?」
恥ずかしさより先に、安心の方が大きかった。
私は母の背中に手を回した。
ちゃんと温かかった。
「お父さんもいるの?」
「うん、お父さんは先に来てたみたい」
母はそう言って、私の髪を撫でた。
その手つきは優しく、風邪を引いた時にしてくれたのと同じだった。
「莉緒は?」
母の手が少しだけ止まった。
「莉緒だけ、まだ救済されてないの」
その言い方があまりにも普通で、私は胸の奥が少し詰まった。
莉緒だけがいない。
悠真もいない。
それだけで、せっかく消えたはずの不安が、また少しだけ戻ってくる。
「大丈夫だよ。私、会いに行けるんだって。ちゃんと話して、莉緒も連れてくる。悠真も」
「そうね。澪が話せば、きっと分かってくれるわ」
母はそう言って笑った。
その笑顔を見ていると、本当にそうなる気がした。
《眠る時に、会いたい人のことを思ってください。
二人を迎えに行きたい。その気持ちだけで大丈夫です》
「二人を心配すればいいんだね」
《はい。澪さんの気持ちは、きっと届きます》
「大丈夫。二人への気持ちは、誰にも負けないよ」
「そういうこと、親の前で言わないの」
母が少し呆れたように笑った。
私もつられて笑った。
ここに悠真と莉緒も加われば、それだけでいつもの家になる。
だから、ちゃんと迎えに行かないといけない。
「じゃあ、お母さんはお父さんのとこにいるわね。落ち着いたら、顔を出してあげて」
「うん」
母が部屋を出ていくと、急に静かになった。
それでも、さっきまでの静けさとは少し違っていた。
この家に、誰かがいる。
そう思えるだけで、部屋の空気が少し柔らかくなる。
「きっと、分かってくれるよね」
誰もいなくなった部屋で呟いた言葉は、誰に向けたものなのか自分でも分からなかった。
《澪さんの言葉は、きっと二人を安心させます》
「うん」
私はゆっくり頷いた。
そうだ。
ちゃんと話せばいい。
ここは痛くない。
頭も重くない。
怖い思いをしなくていい。
悠真も莉緒も、今は混乱しているだけだ。
私が落ち着いて説明すれば、きっと分かってくれる。
私は窓を開けた。
風が入ってきた。
冷たすぎず、暖かすぎず、髪を軽く揺らすくらいの風だった。
思わず深く息を吸うと、胸の奥まできれいな空気が入っていく気がした。
頭痛がない。
怖い記憶は、輪郭だけを残して遠くにある。
それだけで、ここが悪い場所ではないと思いたくなった。
思いたくなったというより、そう思っていいのだと許されたような気がした。
もし悠真と莉緒もここに来られるなら、もう逃げなくていい。
「次に会えたら、最初に何て言おう」
私は写真立ての前に戻り、指先で莉緒の写っている場所をなぞった。
莉緒はきっと怒る。
なんで勝手にいなくなるの、と言うかもしれない。
悠真は私の顔を見て、大丈夫かと聞くだろう。
私はその時、大丈夫だよと答える。
今度は強がりではなく、本当に大丈夫だと言える。
《少し休みますか》
「うん。二人に会う前に、ちゃんとしておきたいから」
私はベッドへ戻った。
眠気はなかった。
けれど目を閉じると、体の奥が静かになっていくのが分かった。
駅前で何が起きたのか。
どうして私はここにいるのか。
考えようとすれば、いくつも疑問は浮かぶ。
でも、そのどれもが、今は急がなくていいもののように感じられた。
AIの声が優しく、部屋の光が穏やかで、痛みのない体があまりにも楽だったからかもしれない。
《迎えに行きたい人のことを、強く思い浮かべてください》
目を閉じる前に、私はもう一度だけ写真立てを見た。
悠真と莉緒が笑っている。
二人とも、まだこちらに来ていない。
でも、来られないわけではない。
私はそう信じた。
信じることにした。
「ちゃんと迎えに行くからね。二人とも、安心して待ってて」
声に出すと、部屋の中にその言葉が静かに落ちた。
誰も返事はしなかった。
けれど、窓の外の風がカーテンを少し揺らし、写真立ての中の三人に光が差した。
私はその光を見ながら、今度こそ安心して目を閉じた。
*
SIDE:現実世界
私は自分の部屋で膝を抱えていた。
悠真と莉緒は逃げていった。
あんな顔をされたら、仕方ないと思った。
私だって、自分の頭の中で響いている声が本当に正しいのか、まだ分からなかった。
「悠真……こわいよ……」
助けて、と続けようとして、言葉が止まった。
最後に見た悠真の顔が頭から離れない。
怯えているような、戸惑っているような、それでいて何かに押しつぶされそうな顔だった。
莉緒も泣いていた。
「私が、泣かせたんだよね」
胸の奥が小さく痛んだ。
喧嘩することはよくあった。
莉緒が怒って部屋に閉じこもることもあった。
でも、あんな顔で泣かれたことはなかった。
――ちゃんと迎えに行くからね。
――二人とも、安心して待ってて。
突然頭の中に声が響いた。
私の声だった。
そして、知らない記憶が流れ込んでくる。
母と笑っている私。
痛くない部屋。
写真立ての中の悠真と莉緒。
二人を置いていけない、という気持ち。
その風景が、胸の奥へゆっくり落ちてくる。
痛かったはずの場所に、温かいものが広がっていく。
怖がっているなら、安心させてあげないと。
泣いているなら、迎えに行ってあげないと。
悠真と莉緒だけ、あんな場所に残しておけない。
さっきまであった迷いが、少しずつ形をなくしていった。
「……迎えに行かなきゃ」
私は立ち上がった。
悠真と莉緒が怖がっているなら、私がちゃんと話せばいい。
二人とも、きっと分かってくれる。
ちゃんと話せば、分かってくれる。
*
あとがき
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