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第02話 救済処置

公園の奥にある水飲み場の前まで来て、俺たちはようやく足を止めた。

駅前からどれだけ走ったのか、どの道を通ってここまで来たのか、はっきりとは覚えていない。

商店街のシャッター、倒れた自転車、開きっぱなしの店の扉、誰かの名前を呼ぶ声だけが、途切れ途切れに頭の中へ残っていた。


夕方の公園には、子ども用の赤いボールが滑り台の下に転がっていて、ベンチには飲みかけの紙パックが置かれたままだった。

さっきまで誰かが普通にここにいて、普通に帰るつもりでいたのだと思うと、その忘れられたものがやけに生々しく見えた。


「誰もいないな?」

「はぁ……はぁ……たぶん?」


莉緒はブランコの柵に手をつき、肩で息をしていた。

澪はベンチの背に片手を置いて立っていたが、顔色は駅で見た時よりもずっと悪く、額にかかった髪が汗で張りついていた。


「お姉ちゃん、座って」


莉緒が言うと、澪は何か返そうとして、結局そのままベンチに腰を下ろした。

いつもの澪なら、大丈夫とか莉緒こそ休みなさいとか、少しは姉らしく言い返したはずだった。


遠くで、また悲鳴が上がった。

駅の方角なのか、商店街の奥なのか分からなかったが、人が大勢いる場所から日常が壊れていくのだけは分かった。

澪はバッグの口を開いたまま、中に入っている白い薬袋を見つめていた。


「澪、薬飲んだ方がいい」


俺が言うと、澪は薬袋から目を離さずに小さく首を振った。


「今飲んで、眠くなったりしたら困るでしょ」

「そういう問題じゃないよ」


莉緒がすぐに言い返したが、澪は妹の方を見ず、指先で薬袋の端を撫でていた。


「大丈夫。病院でも、痛くなったらでいいって言われたから」

「今、痛そうなんだけど?」


莉緒の声が少し強くなり、澪はようやく顔を上げて、困ったように笑った。

その笑い方はいつもの澪に近かったが、どう見ても無理をしている笑顔だった。


公園の入口から、子ども連れの女性が入ってきた。

こちらを見ると女性は駆け寄ってきた。


俺が反射的に莉緒と澪の前へ出ると、女性はそこで立ち止まり、声をかけてきた。


「大丈夫ですか?顔真っ青ですよ。これ、まだ開けてないのでよかったら」


そう言って、ペットボトルの水を差し出してきた。

普通の人に見えて、俺は少しだけ警戒を解き、ありがたく受け取った。


「ありがとうございます。あの、ここも安全ではなさそうなので、早く帰った方がいいですよ」


子ども連れでは、何かあっても逃げきれないだろう。

家に閉じこもっていた方がいい。


「いえ、大丈夫ですよ。私が楽にしてあげますから、楽園へ行きましょう」


女性は飛びかかるでもなく、ゆっくりと近づいてくる。

何が起こっているのか分からず、固まっていた。

女性の手が俺の腕に触れ、その顔が首元へ近づいた。


「悠真!」


澪が女性を突き飛ばす。


「おにいちゃん、ぼーっとしてないで!」


莉緒が俺の前に立つ。

そこで、ようやく何が起こったのかを理解する。

理解してさらに混乱する。


普通に会話ができる相手だった。

こっちを心配してくれる優しい人だった。

なのに噛みつこうとしてきた。


意味が分からない。


「お母さん!」


子どもの声に振り向くと、頭から血を流し倒れている女性がいた。

突き飛ばされた拍子に柵に頭をぶつけたのだろう、柵には血の跡が付いていた。


「悠真……私……」

「大丈夫!お姉ちゃんは悪くない!」


動揺する澪を莉緒が必死でなだめている。

その様子を俺は何もできずに見つめていた。


「救急車!あと警察呼ばないと!」


澪が端末を取り出し電話をかけ始める。


「はい、救急センターです。ご要件をお願いします」


端末のスピーカーから、機械的な音声が流れる。


「襲われて……突き飛ばして……怪我させてしまいました……。頭から血を流してて……救急車と警察への連絡をお願いします……」


「承知いたしました。対象を確認します。対象者はすでに救済済みのため、現在ナノマシンによる身体の修復が行われています。救急搬送の必要はありません」

「違います!頭を打って血が出てるんです!」


なにを言っているのか分からなかった。

ナノマシン?

救済処置?

言葉だけが頭の中に残り、意味が追いつかない。


嫌な予感がして女性を見ると、ちょうど女性が立ち上がるところだった。


出血は止まっている。

傷があった部分は肌ではなく黒ずんだ何かで覆われていた。


「おど……おどろかせ……て、ごめんね。きゅ……さいをう……けいれましょ……う」


言葉はたどたどしくなっているものの、顔は優しく微笑んでいる。


「逃げるぞ!」


二人の手を掴み公園から逃げ出す。

さっきまで至る所で響いていた悲鳴は嘘のように消えていて、時折思い出したかのようにどこかから悲鳴が聞こえる。

それなのに、街は平穏そのものだった。

子どもを連れて歩く人、買い物をする主婦たち。

こちらには見向きもせず、普通の日常を過ごしている。

その平穏が何より恐ろしい。


「悠真、どうなってるの?」

「分からない……ひとまず、澪の家に向かおう」


そう言った時、澪がふらりとよろめいた。

莉緒がすぐに支えたが、澪は顔をしかめて頭を抱えている。


「澪?」

「大丈夫、走ったら少し頭痛がしただけだから……」

「薬、今飲んだ方がいい、眠くなったら俺が背負うから」


俺が言うと、澪は一度だけ反論しようと唇を動かした。

けれど、莉緒の顔を見た途端、その言葉は消えた。

莉緒は貰ったペットボトルのフタを開けて、澪に手渡す。

それを受け取った澪は、少しだけ悩んだあと錠剤を口に入れ水で流し込んだ。


「楽になったよ。行こ」


そんなにすぐ効くはずがないことは分かっていながらも、澪の優しさに甘えて歩き出す。


「本当に大丈夫か?」

「大丈夫だから、悠真は心配しすぎだよ」



平然と動き続ける街を抜け、澪の家にたどり着く。

不安そうな顔の二人を置いていくわけにもいかず、俺も一緒に家へと入る。


「ただいまー」

「おかえり」


薬が効いてきたのか、元気そうに声を上げる澪に、莉緒が答える。


「私ちょっと、シャワー浴びてくるね」


そう言って、澪は風呂場へ向かう。


「おにいちゃん、結局なんだったと思う?」


ソファーに並んで座る莉緒が、不安そうな顔で問いかけてくる。

何だったのだろう。


突然倒れ、近寄った人に噛みついた老人。

普通に話していたと思ったら、噛みつこうとしてきた母親。


そして、楽園という言葉。


何もかもが分からなかった。


そのとき風呂場から何かが倒れるような音がした。

続いて、短く息を詰めるような声が聞こえた。

水音だけがしばらく続く。


「澪!」

「お姉ちゃん!」


澪からの返事がないことに戸惑いながら、風呂場へ向かいかけて足が止まる。


「私が見てくるから、おにいちゃんは動けるようにしてて」

「大丈夫ー、滑って転んじゃっただけー」


風呂場からは呑気な声が聞こえてきた。

何もなかったことに安心してリビングへ戻ると、少しして着替えも済ませた澪が戻ってくる。


「悠真、莉緒。話があるんだ」


正面に立った澪に見つめられる。

その首筋には、どす黒い血管のような筋が浮かび上がっている。


「あのね、二人とも一緒に楽園に行こう」


伸ばした澪の手にも、黒い線が入っている。


――なぜ?


「大丈夫、怖くないから一緒に行こう?」


声も……

表情も……

その仕草も……


すべていつもの澪だった。

ただ、言葉だけがおかしかった。

さっきまであんなに怯えていたのに、いまは救済を受け入れようと話しかけてくる。


莉緒は逃げなかった。

澪の顔を見たまま、泣きそうに眉を寄せていた。


「お姉ちゃん、大丈夫だよ。救済なんてなくても、私もおにいちゃんもそばにいるから。だから、そんなこと言わないで」

「でもね、残ってると苦しいままなんだって。頭の中で、ずっと言ってるの。大切な人も、一緒に連れていってあげてって」


莉緒は抱きしめてくる澪を拒否できず、動けないままでいた。

澪は大きく口を開き、莉緒の首筋に近づけていく。


「やめろ!」


力ずくで澪を引き剥がそうとするが、華奢な澪のどこにこんな力があったのか、引き剥がすことができない。


「悠真、なんで邪魔するの?莉緒を抱きしめたからヤキモチ妬いてるんだね。もう、悠真ってばかわいいんだから!じゃあ、悠真から救済してあげるね」


そう言って今度は俺に抱きついてくる。

澪は昔から、何かあるとすぐに抱きついてきた。

そんなクセまでそのままに、今度は俺の首筋に噛みつこうとしてくる。


「お姉ちゃんやめて!」


今度は、莉緒が引き剥がそうとしがみついてくる。


「今日は二人ともどうしたの?大丈夫、順番に救済してあげるから。すぐに楽園で会えるから寂しくないよ」

「逃げるぞ!」


抱きついてくる澪を振りほどき、莉緒の手を握る。


「莉緒、走れ」


莉緒はすぐに首を振った。


「嫌!お姉ちゃん、まだ分かってるじゃん。まだ話せるじゃん」

「だから今は離れるんだ」

「なんで!置いていくの?」


答えられなかった。

置いていくのかと聞かれれば、俺は今まさにそうしようとしていた。


「悠真、嘘つく時の顔してる」


澪のその一言で、胸の奥を掴まれたような気がした。

本当に澪なんじゃないだろうか。


「そんなに嫌?」

「あぁ、嫌だ」


澪は少しだけ困ったように笑った。

本当に、俺がわがままを言っているだけだと思っているような顔だった。


「そっか、じゃあちゃんと澪のことも守ってね。苦しくなったり、泣きそうになったら言ってね、いつでも救済してあげるから」


今の澪は正気なんじゃないだろうか。

それなら、一緒にいられるのでは。

そんなことが頭をよぎる。


「それなら、離れる必要なんてない」

「莉緒……今もね、頭の中で"救済しましょう"って、ずっと響いてるの。だから、多分一緒にはいられない」


そう言いながら、澪の手はこちらに伸ばされている。

この手は救いを求める手なのか、救済を差し伸べる手なのか、俺には判断することができなかった。


「行って!」


澪の叫びに決断し、莉緒の手を取る。


「行こう」

「やだ」


莉緒はその場を離れようとしない。

そのとき、莉緒の端末から通知音が鳴った。


《牧村隼人さんは救済されました。あなたも救済を受け入れ、楽園へ移行しましょう》


それは澪たちの父親の名前だった。


「ほら、お父さん帰ってくる前に早く行きな」

「お父さん……」

「悠真、お願い」


何を、とは言わなかった。

泣き崩れる莉緒の手を取って外へ向かう。


「莉緒のことお願いね」


澪はどんな気持ちでこの言葉を言ったのだろう。

俺には振り返る勇気はなかった。

家を出ると、中から澪の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。


「お姉ちゃん……」


戻りたい気持ちを押し殺し、俺は莉緒の手を引いたまま、澪の声から逃げ出した。




あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。


読後に何か残るものがありましたら、リアクションやコメントで反応をいただけると励みになります。

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