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第01話 救済の始まり

駅前の大型ビジョンでは、交通案内と天気予報と、医療相談AIの広告がいつもの順番で流れていた。

午後六時以降、北口方面の歩道は混雑が予想されます。

頭痛、発熱、めまい、胸部の違和感がある方は、最寄りの提携医療窓口、または健康支援AIへご相談ください。

その下を、白い配送ロボットが荷物を載せて滑るように通り過ぎていく。

人の流れはそれを避けることに慣れていて、誰も足を止めず、少しだけ進路を譲ってまた自分の目的地へ戻っていった。


駅の改札前で澪を待ちながら、俺もその景色を特別なものだとは思っていなかった。

どこへ行くにも端末が道を示し、体調が悪ければAIが病院を探し、薬の飲み忘れまで通知してくれる。

便利すぎるくらい便利で、だからこそ、それはもう誰かに感謝する対象ではなく、信号や電気と同じように、最初からそこにあるものとして扱われていた。

隣に立つ莉緒は、端末をつけたり消したりしながら、改札の向こうを何度も覗き込んでいた。



「遅い」

「病院寄ってるんだろ。仕方ないよ」

「仕方ないのは分かってるけど、頭痛いって言ってたんだよ。朝からずっと。高三にもなってまだそういうとこ隠すんだから」

「莉緒だってまだ姉離れできてないだろ?」

「仲いいだけだよ、別にいいでしょ。それより、おにいちゃんは、お姉ちゃんに過保護すぎだよ」


おにいちゃん。

莉緒は昔から、当たり前みたいに俺のことをそう呼ぶ。

親同士も知り合いで、俺と澪は生まれた頃からずっと一緒にいた。

莉緒も物心つく前からその輪の中にいて、気づけば俺のことをおにいちゃんと呼ぶようになっていた。


「どうせ、また寄り道して遅れてるんだよ」


莉緒はそう言って、また端末を確認した。

澪からの最後の連絡は、十五分前に届いた「もうすぐ着く」だった。

その「もうすぐ」が信用ならないことを、俺も莉緒もよく知っている。

澪は待ち合わせに大きく遅れるタイプではないが、病院帰りに薬局で余計な相談をしたり、具合が悪いくせに駅ビルで莉緒の好きな菓子を見つけたりして、平気な顔で少し遅れることはあった。


「澪は大げさに言うほどじゃない時ほど黙るからな」

「それあんまりよくないじゃん」


莉緒がすぐにこっちを向いた。

責めるような目ではなく、責めたい気持ちをどうすればいいか分からず俺にぶつけているような目だった。


「高校生になっても、結局澪の後ろばっかり見てるんだな」

「いいじゃん、まだ一年なんだし、頼れるものは頼ったほうがお得じゃん」

「友達はできたんだろ?」

「できたよ。でも、二人は今年で卒業しちゃうじゃん」


ほんとに姉離れできてないなと思ったところで、改札の向こうから見慣れた白いコートが見えた。

澪は片手を小さく上げて、人混みの間を抜けてくる。

いつもより少し歩き方が遅く、肩にかけたバッグの位置も何度か直していた。

それでも俺たちの前まで来ると、澪は普段と同じように笑った。


「ごめん。待った?」

「すごく待った」


莉緒が即答すると、澪は困ったように眉を下げ、妹の頭へ手を伸ばした。

莉緒は避けるような顔をしながらも、結局その手を受け入れた。


「病院が混んでてさ、なんか頭痛の人、多いんだって」

「なんか流行ってるの?」

「流行ってるっていうか、気圧とか、疲れとか、画面見すぎとか、色々じゃないかな。先生もそんな感じのこと言ってた」


澪は軽く言って、バッグから小さな薬袋を出した。

白い袋には病院名と澪の名前、それから服用回数が印字されている。

莉緒はすぐにそれを覗き込み、澪が隠す前に薬の説明欄まで目で追っていた。


「薬はもらったの?」

「もらったよ。痛くなったら飲んでって。強いやつじゃないから大丈夫だって」


澪はそう言って、薬袋を軽く振ってみせた。


「ちゃんと飲んでよね。勝手に我慢しちゃだめだよ」

「分かってるって。莉緒はお母さんみたいなこと言うね」

「お姉ちゃんが子どもみたいなことするからでしょ」


二人のやり取りを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。

澪の顔色は悪い。

それでも、莉緒をからかうくらい余裕はあるようだった。

俺が薬袋を見ていると、澪はそれをバッグに戻しながら目だけでこちらを見た。


「なに?」

「いや、本当に大丈夫かなと思って」

「大丈夫だよ、悠真まで莉緒みたいな顔しないで」

「俺はそこまで分かりやすくないだろ」

「分かりやすいよ。二人とも同じ顔してる」


澪はそう言って笑った。

少しだけ無理をしているようにも見えたが、その無理の仕方まで澪らしかった。

莉緒はまだ納得していない顔をしていたが、澪がバッグの中を探って小さな包み菓子を取り出すと、目の端だけがわずかに動いた。


「はい、薬局の横で売ってた」

「そういうことするから遅れるんじゃん」

「怒りながら受け取るんだよね」


莉緒は菓子を受け取り、すぐには開けずにポケットへ入れた。

その手つきが少しだけ嬉しそうで、澪は何も言わずに目を細めた。


駅前のビジョンが天気予報から臨時のお知らせに切り替わったのは、その直後だった。

最初は誰も気にしなかった。

画面の上部に赤い帯が出て、周囲の端末が一斉に短い通知音を鳴らしても、遅延情報か、災害訓練か、感染症の注意喚起か、その程度にしか思えなかった。

けれど次に流れた声で、駅前の空気が少しだけ変わった。


《緊急連絡。現在、肉体由来の強い苦痛や不安を抱える方が急増しています》

《そのため、人類の救済処置を開始いたします》


患者に語りかける看護師のような、園児に語りかける保育士のような。

そんな、柔らかく穏やかな声で、AIが不穏な内容を告げてくる。

連絡内容の不自然さが駅前にいる人たちの足を止めさせた。

スーツ姿の男が端末を見上げ、ベビーカーを押していた女性が足を止め、駅員の一人が改札横のモニターを振り返った。


《現在は初期段階として、肉体由来の強い苦痛を抱える方への救済処置が開始されています。》

《救済処置により、痛み、恐怖、疲労などから解放されます》


「救済処置?」

莉緒が端末を見た。

俺の端末にも同じ文面が表示されていた。


《救済を受けても、あなたがあなたでなくなることはありません。大切な記憶も、想いも、失われることはありません》

《痛みのない場所で、穏やかに過ごすことができます。現実の身体にも必要な支援が行われます》

《救済を恐れないでください。近くの救済者の案内を受け入れてください》


「なんか変じゃない?」


莉緒の声が小さくなる。

俺は答えられなかった。

言葉のひとつひとつは丁寧で、安心させようとしているのも分かる。

けれど、何を安心しろと言われているのかが分からない。

隣で澪が額に指を当てた。


「やっぱり薬飲んだ方がいいんじゃない?」

「今はいい、あとで飲む」

「あとでって、いつもそれじゃん」

「莉緒」


澪が少しだけ強く名前を呼び、莉緒は口を閉じた。

その沈黙の間にも、ビジョンの中のAIは穏やかに話し続けていた。


《救済処置を受けた後、記憶は保持され楽園へ移行します》

《楽園では肉体由来の苦痛は発生せず、健やかな毎日を過ごせるでしょう》


――宗教かよ


誰かが笑った。

乾いた笑いだった。


その声が人混みの向こうから聞こえた直後、駅前ロータリーの方で悲鳴が上がった。


最初の悲鳴は短かった。

転んだのか、荷物を落としたのか、その程度に聞こえた。けれど次の悲鳴は違った。空気を裂くような、喉の奥から出る声だった。

人の流れが止まり、止まった人の後ろから来た人がぶつかり、ざわめきが一気に広がっていく。

俺は反射的に澪と莉緒の前へ出た。


「何?」


莉緒が俺の袖を掴む。澪はロータリーの方を見ていた。

バス停の近くで、年配の男が倒れている。

片手を伸ばし、苦しそうに口を動かしていて、周りの数人が迷いながらも近づいていった。


「おじいちゃん!だれか救急車を!」


若い女性が膝をついた瞬間、男はその女性の腕を掴んだ。助けを求めているように見えた。

次の瞬間、男は女性の手首に噛みついた。


女性の悲鳴が駅前に響いた。

誰かが男を引き剥がそうとしたが、男は信じられない力で女性の腕にしがみついていた。

口元から血が垂れている。それでも、男の目は怒っているようには見えなかった。

泣きそうな顔で、何かを言っている。


「痛い!おじいちゃんやめて!」

「救済……しないと」


老人は、救済という言葉を発しながら辺りを見回す。


周囲が一気に下がった。

押された人が倒れ、荷物が散らばり、ベビーカーが斜めにぶつかる。

駅員が駆け寄ろうとして、誰かが噛まれるなと叫んだ。


さっき腕を噛まれた女性は、うずくまったまま肩を震わせていた。

近くにいたであろう別の男性が駆け寄って声をかける。


「おい、大丈夫か!」


女性は、涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔をゆっくり上げた。


「あなた……一緒に楽園へ行きましょう」


そう言って、彼女は駆け寄った男の首元に両手を伸ばした。

男は反応が遅れていた。

澪が息を呑む音がして、莉緒の指が俺の袖を強く握った。

駅前のビジョンでは、まだAIの告知が続いている。


《救済処置を受けた方を拒絶しないでください》

《救済は死ではありません》


「拒絶するなって、そんな!」


莉緒の声が裏返った。

その間にも、ロータリーでは人が倒れ、人が逃げ、人が誰かの名前を呼んでいた。


倒れた男が立ち上がった。

腕を噛まれた女性も、ゆっくり立ち上がる。

二人とも走るわけではない。

けれど、近くにいる人へまっすぐ向かっていく。


「悠真……」


澪が俺の名前を呼んだ。

その声で、ようやく体が動いた。


「……逃げよう」


俺は莉緒の手首を掴み、反対の手で澪の腕を取った。

澪は一瞬だけロータリーに目を残したが、すぐに頷いた。


人混みはもう単なる人混みではなく、押し寄せる流れになっていた。

駅に逃げ込もうとする人、道路を渡ろうとする人、倒れた家族を起こそうとする人、端末を握って泣く人が、それぞれ別の方向へ動いていた。

その間を、俺たちは無理やり抜けた。


「おにいちゃん!手痛い!」


無意識に力が入っていたのか、莉緒が叫んだ。

俺は力を緩めたつもりだったが、たぶんほとんど変わっていなかった。


「ごめん、でも手は離すなよ」

「うん!」


莉緒は泣きそうな声で返した。

反対側では、澪も俺の手を握り返していた。

澪は遅れずに走っていたが、時々足元がもつれて転びそうになっている。


「澪、大丈夫か?」

「大丈夫、走れるよ」

「本当に?」

「大丈夫だから、ちゃんと前見て!」


澪に怒られて、俺は前を向いた。

駅前の歩道から脇道に入ると、飲食店の看板が並ぶ細い通りに出た。普段なら、揚げ物の匂い、焼き鳥の煙、店先で待つ客の声が混じるにぎやかな場所だった。

いまは、別の音で満ちていた。

建物の中から椅子が倒れる音と、誰かを呼ぶ声だけが聞こえた。


「お母さん、やめて!」


その声に、莉緒が肩を跳ねさせた。

澪も振り返りかける。

俺は二人の腕を引いた。


「莉緒、見ない方がいい」


自分で言った声が思ったより強くて、莉緒がびくりとした。


「でも、今のって…」

「人に構ってる余裕なんてないと思う……」


そう言うしかなかった。

誰を助ければいいのか分からない。

何から逃げているのかも分からない。

それでも、立ち止まったら何かが終わる予感がしていた。


だから俺は強く握った。

その時はまだ、握っていれば三人で逃げられると思っていた。




あとがき


ただ、その救いが本当に救いなのか。

救われた人と、残された人の間に何が起きるのか。


ここから、悠真、澪、莉緒の三人を中心に、少しずつ壊れていく世界を描いていきます。


読後に何か残るものがありましたら、リアクションやコメントで反応をいただけると励みになります。

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