第21話 楽園で君を待ってる
朝、目を覚ますと、カーテンの隙間から柔らかい光が入っていた。
部屋の中は静かで、遠くから台所の音が聞こえる。
包丁がまな板に当たる音。
食器が重なる音。
それだけで、今日もいつも通りの一日が始まったのだと分かった。
私は少しだけ布団の中で伸びをしてから起き上がった。
窓の外はよく晴れている。
庭の木は風に揺れていて、葉の影が白い壁の上で小さく動いていた。
ここでは、空がいつも綺麗だった。
雨の日もあるし、曇る日もある。
でも、目を覚ました時に胸が苦しくなるような朝は、もう来ない。
廊下に出ると、莉緒の部屋の扉が少しだけ開いていた。
中を覗くと、莉緒はまだ布団に丸まっている。
寝相が悪いのは相変わらずで、掛け布団は半分床に落ちていた。
「莉緒、朝だよ」
声をかけると、布団の中から小さなうめき声が返ってきた。
「あと五分……」
「それ、五分で起きたことないじゃん」
「今日は起きる……」
そう言いながら、莉緒はさらに布団の中へ潜った。
私はため息をついて、床に落ちていた掛け布団を拾い上げる。
昔から、莉緒は朝が弱かった。
学校がある日は母に怒られて、休みの日は昼近くまで寝ようとして、私が何度も起こしに行った。
ここでも、それは変わらない。
変わらないことが、嬉しかった。
「お母さん、莉緒まだ寝てる」
リビングに入ると、母は台所で味噌汁をよそっていた。
こちらを振り向き、呆れたように笑う。
「いつものことね。澪、先に食べちゃいなさい」
「もう一回起こしてくる」
「優しいお姉ちゃんね」
からかうように言われて、私は少しだけ頬を膨らませた。
優しいわけじゃない。一緒に食べたいだけだ。そう言い返そうとして、やめた。
言わなくても、母には分かっているような気がした。
結局、莉緒は十分後に髪をぼさぼさにしたままリビングへ来た。
まだ眠そうな顔で椅子に座り、箸を持ったまま目をこすっている。
「眠い」
「早く寝ないからでしょ」
「お姉ちゃんだって昨日、写真ずっと見てたじゃん」
「それとこれとは違う」
「違わないと思う」
莉緒はそう言って、味噌汁を一口飲んだ。
その顔が少しだけ緩む。
母はそれを見て、また小さく笑った。
何でもない朝だった。
何でもない会話だった。
でも、私はその何でもなさを、ずっと待っていた気がした。
食事のあとは二人で散歩に出かけた。
記憶の中と変わらない街並みを歩きながら、コンビニへ向かう。
コンビニでアイスを買って食べながら家に帰る。
私はソフトクリーム、莉緒はソーダ味のアイス。
いつも通りの選び方、悠真がいたら、チョコでコーティングされたアイスが増える。
「それ、おにいちゃんの?」
「うん、なんか買っちゃった。帰ったら一緒に食べよ」
「おにいちゃん、早く来ないかなぁ」
そう呟いた声は寂しげで、私はアイスの袋を握り直した。
早く説得しなきゃ。
夕方になると、空は薄い橙色に染まった。
窓の外の庭が少し暗くなり、リビングの明かりが柔らかく床に落ちる。
母は夕食の準備を始め、莉緒はソファでクッションを抱えたまま眠そうにしていた。
私は写真立ての前に座って、何度目か分からないくらい、三人の写真を見ていた。
「お姉ちゃん」
莉緒が眠そうな声で呼んだ。
「なに?」
「今日こそ、おにいちゃん来てくれるかな?」
不安そうな声で莉緒が言う。
私は写真から目を離さずに頷いた。
「うん。今日こそ、悠真を説得しよう」
「怖がってるだけだもんね」
「そう、悠真は優しいから、ちゃんと話せば分かってくれる」
そう言うと、莉緒は少しだけ黙った。
私はその沈黙を不思議に思って、顔を上げる。
莉緒はクッションに顎を乗せたまま、写真を見ていた。
「どうしたの?」
「ううん。三人に戻れたらいいねって思っただけ」
「戻れるよ」
私はすぐに答えた。
迷う必要なんてなかった。
莉緒はここにいる。
私はここにいる。
悠真だって、きっと来られる。
怖がっているだけだ。怒っているのかもしれない。でも、悠真は私のことを忘れたりしない。
莉緒のことだって、ちゃんと大事に思っている。
だから、話せば分かる。
「今日こそ、悠真を説得しようね」
私が言うと、莉緒は少しだけ笑って頷いた。
「うん。今度こそおにいちゃんを説得しようね」
その言葉を聞いて、胸の奥が温かくなった。
三人で、という響きが好きだった。
写真の中の形に、また戻れる気がした。
夜になると、家の中は少しずつ静かになった。
母は先に部屋へ戻り、リビングには私と莉緒だけが残った。
テレビは消してある。
窓の外には星が見えた。
私は写真立てを手に取り、ソファに座る莉緒の隣へ行った。
「明日、公園行こうか」
「公園?」
「うん。悠真が来たら、三人で」
莉緒は写真を見て、それから私を見た。
「写真撮る?」
「撮る」
「今度は私が真ん中でもいい?」
「また真ん中に入る気?」
「だって、三人の写真でしょ」
莉緒は当たり前みたいに言った。
私は少しだけ笑った。
その言い方が好きだった。
三人でいることを、何の疑いもなく当然みたいに言ってくれるところが、好きだった。
「いいよ。今度も莉緒が真ん中で」
「やった」
莉緒は小さく笑った。
私は写真立てをテーブルに戻す。
その中の三人は、ずっと同じ顔で笑っている。
何度見ても、そこには欠けたものがなかった。
眠る前、私は莉緒の部屋の前で立ち止まった。
扉は少しだけ開いていて、中から布団を整える音が聞こえる。
「莉緒、おやすみ」
「うん、おやすみお姉ちゃん」
その声は優しかった。
布団に入ると、部屋の明かりを消した。
暗くなった天井を見上げる。
眠る前の時間は、いつも少しだけ胸が高鳴った。
目を閉じれば、また悠真に会いに行ける。
今日こそ、ちゃんと話せるかもしれない。
今日こそ、怖がらなくていいと分かってもらえるかもしれない。
莉緒がいる。
お母さんも、お父さんもいる。
悠真のお父さんとお母さんも、もうこちらにいる。
足りないものは、悠真だけだった。
「悠真」
小さく名前を呼んだ。
もちろん返事はない。でも、寂しくはなかった。
明日には会えるかもしれない。
そう思えるだけで、私は安心して目を閉じられた。
ここは楽園だ。怖いものは何もない。
痛いものも、失ったものもない。
足りないものは、待っていればきっと戻ってくる。
楽園で、君を待ってる。
*
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。
読後に何か残るものがありましたら、リアクションやコメントで反応をいただけると励みになります。




