第19話 決別
莉緒の体はまだ温かかった。俺はそれを理解したくなくて、何度も抱え直した。
莉緒は戻らない。
そんなことは分かっているのに、手を離した瞬間にすべてが終わってしまう気がして、離せなかった。
駐車場のアスファルトに、莉緒の血が黒く広がっていた。
コンビニの明かりはまだ点いていて、店内には飲み物も弁当も、何もなかったみたいに並んでいる。世界が壊れたなんて嘘みたいだった。
壊れているのは、俺たちだけだった。
澪は少し離れた場所に立っていた。
服には、澪のものなのか莉緒のものなのか分からない血の跡がついている。
その血を見て、何度も首を傾げていた。
何が起きたのか分からない顔だった。
泣きそうで、怯えていて、でもどこか満たされたようにも見える顔だった。
「りお……」
澪が小さく呼んだ。
妹を呼ぶ声だった。
けれど、澪は動かなかった。
ただ、倒れた莉緒を見て、困ったように瞬きをしているだけだった。
俺はその顔を見て、何かがずれていくのを感じた。
澪は莉緒を迎えに来たはずだった。
何度も救済すると言っていたし、怖くないと、楽園に行こうと、莉緒の名前を呼び続けていた。
それなのに、莉緒の体には何も起きていない。
首筋に黒い痕が浮かぶこともない。
傷が塞がることもない。
指先が動くこともない。
莉緒はただ、死んでいた。
救済なんて、どこにも始まっていなかった。
「澪」
俺が呼ぶと、澪は莉緒ではなく俺を見た。
血のついた口元のまま、少しだけ笑った。
その笑い方を、俺は知っていた。
自分だけを見てほしい時の顔。
不安なのに、甘えるように笑う時の顔。
こんな場所で、こんな血の中で、それでも澪は俺にその顔を向けた。
「ゆ……ま……わた……しの……。わる……い、りお……いらな……い……」
いつの間にか修復が進んだのだろう。
途切れ途切れでも、意味の分かる言葉に戻っていた。
戻っていたからこそ、その言葉ですべてが終わった。
聞き間違いだと思いたかった。
壊れた声の中から、都合の悪い部分だけを拾ってしまったのだと思いたかった。
でも、澪は莉緒を見ていなかった。
莉緒の血で濡れた指を握りしめながら、俺だけを見ていた。
澪は、莉緒を救えなかったんじゃない。
救わなかったのだと、その時の俺には見えた。
俺の隣に立った莉緒を、妹ではなく邪魔なものとして見た。
そして、殺した。
喉の奥が焼けるように痛んだ。
叫びたかった。
殴りたかった。
泣きたかった。
でも、どれもできなかった。
目の前にいるものは、澪の顔をしている。
澪の声をしている。澪の記憶を持っている。
それでも、俺の知っている澪なら、莉緒をいらないなんて絶対に言わなかった。
「お前が殺した」
言ってしまった。
言った瞬間、自分でもそれが刃物みたいな言葉だと分かった。
澪の顔が壊れたように歪む。
俺の目にはもう、澪の皮を被った化け物にしか見えなかった。
「わたし……?」
「お前が莉緒を殺した」
澪は自分の手を見た。
血のついた指先を見た。
それから莉緒を見た。
口が小さく動く。
りお、と言っているように見えた。
でも、その先の言葉は出なかった。
俺は莉緒を抱えたままコンビニの入口へ向かった。自動ドアは半分だけ開いたまま止まっていて、体を横にすれば入れた。
澪が後ろからついてくる。
ゆっくりと。
俺を見て、莉緒を見て、また俺を見る。
逃がさないというより、置いていかれたくない子どもみたいだった。
俺は奥のバックヤードへ向かった。
莉緒を抱えた腕は痺れていて、足もふらついている。
それでも下ろせなかった。
下ろしたら、もう二度と抱え上げられない気がした。
澪は入口の方で立ち止まり、俺の後ろ姿を見ている。
ついてくるのか、来ないのか。
それすら決められないみたいだった。
バックヤードには、潰した段ボールと掃除道具が積まれていた。
隅には、冬の名残みたいに石油ストーブが置かれている。
五月に入ってからは使っていなかったのだろう。
その横の赤いポリタンクを動かすと、底の方で液体が揺れる音がした。
燃えたものは起き上がらない。
その言葉が頭の奥で冷たく響いた。
最初に思ったのは、澪を止める方法だった。
次に思ったのは、莉緒のことだった。
莉緒は噛まれていない。
黒い痕も出ていない。
だから、このまま眠ったままなのかもしれない。
でも、本当にそうだと誰が言える。
もし莉緒が目を開けたら。
俺の名前を呼んだら。
それが莉緒じゃなかったら。
それでも莉緒の声だったら。
その想像だけで、膝から力が抜けそうになった。
莉緒はゾンビになることなんて望まない。
そう思った。思いたかった。
本当にそうなのかは分からない。
もう聞けない。
だから俺は、自分に都合のいい答えを、莉緒の望みとして抱え込むしかなかった。
俺は莉緒をバックヤードの奥に寝かせた。
古いタオルを丸めて、莉緒の頭の下に置いた。
守っているつもりだった。
置いていっているだけなのに、守っているつもりになろうとしていた。
「ごめん」
声になったのかどうか、自分でも分からなかった。
莉緒の手は動かない。
そんな当たり前のことにほっとする。
動かないからここに置いていく。
動くかもしれないと思ったから、ここに置いていく。
どちらにしても、俺は莉緒を置いていく。
そのことだけは変わらなかった。
澪がバックヤードの入口に立っていた。
血のついた顔で、俺と莉緒を見比べている。
泣きそうな顔だった。
怒っているようにも見えた。
寂しそうにも見えた。
全部が混ざっていて、もう何を見ているのか分からなかった。
「りお……だめ……わたし……の……」
俺はポリタンクの蓋を開けた。
手が震えて、何度も滑った。
底に残っていた灯油を、段ボールと床に撒く。
量は多くない。
それでも、段ボールはすぐに黒く湿った。
灯油の匂いが狭い部屋に広がり、喉の奥がひりついた。
澪は一歩近づいた。
俺は後ずさった。
逃げたいのか、止めたいのか、自分でも分からなかった。
ライターを探す手が棚に当たり、掃除用の布と一緒に小さなライターが落ちてきた。
いつ誰が置いたものなのか分からない。
都合よくそんなものが落ちてきたことが、ひどく気持ち悪かった。
「ゆま……。それ……だめ……」
澪の声は震えていた。火が怖いのだろう。
火で止まることを、体のどこかが知っているのかもしれない。
それでも澪は逃げなかった。
俺を見ていた。
助けてほしい顔で、俺を見ていた。
「分かってる」
何が分かっているのか、自分でも分からなかった。
澪だと分かっている。
もう澪ではないと分かっている。
莉緒を置いていくことが間違っていると分かっている。
それでも、もう戻れないことだけは分かっていた。
「澪」
名前を呼ぶと、澪は少しだけ表情を緩めた。
呼ばれただけで安心したような顔だった。
その顔が、どうしようもなく澪だった。
だから、余計に壊れた。
「もう、やめてくれよ」
俺はライターを点けた。
一度目は火がつかなかった。
二度目もつかなかった。
三度目で小さな火が揺れた。
それを見た瞬間、澪の顔がはっきり怯えた。
「や……。ゆま……。こわ……い……」
俺も怖かった。
怖くてたまらなかった。
澪を燃やすことも。
莉緒を置いていくことも。
自分がこれを選ぼうとしていることも。全部怖かった。
それでも、火を落とした。
最初の炎は小さかった。
けれど、床に染みた灯油と段ボールの端に触れた瞬間、思ったより早く広がった。
赤い線が床を走り、積まれた箱の角を舐める。
澪が小さく叫んだ。
俺はその声を聞きながら、裏口へ向かった。
澪が俺に向かって手を伸ばした。
火を避けようとしているのか、俺を追っているのか分からなかった。
ただ、俺の名前を呼んでいた。
熱が広がり、バックヤードの空気が一気に重くなる。
火災を知らせる音が鳴った。
避難してください。
火災を検知しました。落ち着いて避難してください。
落ち着けるわけがなかった。
俺は裏口から外へ出た。
扉を閉める時、澪の声がすぐ向こうで聞こえた。
「ゆま!」
その一声だけは、はっきり聞こえた。
扉を叩く振動が伝わってくる。
澪が扉を開けようとしているんだろう。
足元に転がっていたロープを掴み、近くの鉄パイプに何度も巻きつけた。
ちゃんと固定できているのかなんて分からない。
ただ、扉が開かなければいいと思った。
開ければ、まだ間に合うかもしれない。
莉緒を抱えて出られるかもしれない。
澪を引きずり出せるかもしれない。
そんなことを考えた。
莉緒のためだと思おうとした。
本当は、もう扉を開けるのが怖かっただけかもしれない。
中で何かが崩れる音がした。
澪の声が形を失っていく。
俺の名前が、熱と煙の向こうで何度も途切れる。
莉緒の声は聞こえなかった。
それだけが救いだと思った。
そう思わなければ、立っていられなかった。
俺は駐車場の端まで下がった。
コンビニの窓が赤く光っている。
店内の棚に火が移り、黒い煙が天井の方へ集まっていく。
誰かが遠くで叫んでいた。
誰かが消火器を探しているのかもしれない。
でも、俺は動けなかった。
動かなかった。
火は思っていたより早く建物全体を包み込んだ。
ガラスが割れ、警報音が鳴り続ける。
遠くでサイレンのような音がした気もした。
けれど、それがこちらへ近づいてくることはなかった。
澪と初めてまともに喧嘩した日のことを思い出した。
莉緒がうちに飛び込んできて、二人まとめて正座させられた。
三人で歩いた帰り道。
莉緒が少し後ろを歩いていて、澪が俺の隣にいた。
それが当たり前だと思っていた。
澪に告白した日。
今さら、と笑いながら返事を貰えた。
その日の夜、莉緒は呆れたような顔で、おめでとうと言ってくれた。
三人で遊びに行った日。
並んで写真を撮ろうとした俺と澪の間に、まだ中学生だった莉緒が無理やり入ってきた。
俺は澪しか見てなかったけど、その中にはいつも莉緒がいた。
莉緒の笑顔を思い出そうとしても、それはいつも澪とセットで、莉緒だけの笑顔は救済が始まった後にしか思い出せない。
おにいちゃんと呼ぶ声。
悠真と呼んだ声。
好きだと言った声。
全部終わったら答えを聞かせてと言った顔。
俺は守ると言った。
それまでは絶対に守ると言った。
まだ何も終わっていない。
それなのに、俺は莉緒を火の中に置いてきた。
「違う」
小さく呟いた。
誰に向けた言葉なのか分からなかった。
莉緒を置いてきたんじゃない。
莉緒があんなふうに起き上がらないためだった。莉緒なら望まないと思ったからだった。
だから、これは間違っていない。
間違っていないはずだった。
火は長く燃え続けた。俺はその間、ずっと同じことを考えていた。
何度も繰り返し、繰り返すたびに言葉の中身が薄くなっていく。
それでも繰り返した。
やめたら、扉の向こうに置いてきたもの全部が、俺の方へ振り返る気がした。
やがて火は少しずつ弱まった。
店の中は黒く焼け、棚も天井も崩れていた。
俺はふらつきながら、焼けた入口へ近づいた。
熱はまだ残っていて、息を吸うだけで喉が痛んだ。
それでも、中を見ないわけにはいかなかった。
バックヤードの奥に、2つの影があった。
小さな体が横たわっている。
その上に、もう1つの影が覆い被さるように崩れていた。
澪だった。
莉緒を庇おうとしたのか。
抱きしめようとしたのか。
責めようとしたのか。
奪い返そうとしたのか。
もう分からなかった。
分からないまま、俺はそこから目を逸らせなかった。
莉緒も澪も動かない。
燃えたものは起き上がらない。そのはずだった。
俺が澪を燃やした。
莉緒を置いていった。
救えなかったのではない。終わらせたのだ。
そう思おうとした。
そう思わなければ、立っていられなかった。
遠くで、誰かが俺の名前を呼んだ気がした。
――悠真。
そう聞こえた。
澪の声だったのか、莉緒の声だったのか、自分の頭の中だけの声だったのか分からない。
俺は返事をしなかった。
返事をする相手は、もうどこにもいなかった。
*
あとがき
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