表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

19/21

第19話 決別

莉緒の体はまだ温かかった。俺はそれを理解したくなくて、何度も抱え直した。

莉緒は戻らない。

そんなことは分かっているのに、手を離した瞬間にすべてが終わってしまう気がして、離せなかった。


駐車場のアスファルトに、莉緒の血が黒く広がっていた。

コンビニの明かりはまだ点いていて、店内には飲み物も弁当も、何もなかったみたいに並んでいる。世界が壊れたなんて嘘みたいだった。

壊れているのは、俺たちだけだった。


澪は少し離れた場所に立っていた。

服には、澪のものなのか莉緒のものなのか分からない血の跡がついている。

その血を見て、何度も首を傾げていた。

何が起きたのか分からない顔だった。

泣きそうで、怯えていて、でもどこか満たされたようにも見える顔だった。


「りお……」


澪が小さく呼んだ。

妹を呼ぶ声だった。

けれど、澪は動かなかった。

ただ、倒れた莉緒を見て、困ったように瞬きをしているだけだった。


俺はその顔を見て、何かがずれていくのを感じた。

澪は莉緒を迎えに来たはずだった。

何度も救済すると言っていたし、怖くないと、楽園に行こうと、莉緒の名前を呼び続けていた。

それなのに、莉緒の体には何も起きていない。


首筋に黒い痕が浮かぶこともない。

傷が塞がることもない。

指先が動くこともない。

莉緒はただ、死んでいた。

救済なんて、どこにも始まっていなかった。


「澪」


俺が呼ぶと、澪は莉緒ではなく俺を見た。

血のついた口元のまま、少しだけ笑った。

その笑い方を、俺は知っていた。

自分だけを見てほしい時の顔。

不安なのに、甘えるように笑う時の顔。

こんな場所で、こんな血の中で、それでも澪は俺にその顔を向けた。


「ゆ……ま……わた……しの……。わる……い、りお……いらな……い……」


いつの間にか修復が進んだのだろう。

途切れ途切れでも、意味の分かる言葉に戻っていた。

戻っていたからこそ、その言葉ですべてが終わった。

聞き間違いだと思いたかった。

壊れた声の中から、都合の悪い部分だけを拾ってしまったのだと思いたかった。

でも、澪は莉緒を見ていなかった。

莉緒の血で濡れた指を握りしめながら、俺だけを見ていた。


澪は、莉緒を救えなかったんじゃない。

救わなかったのだと、その時の俺には見えた。


俺の隣に立った莉緒を、妹ではなく邪魔なものとして見た。

そして、殺した。


喉の奥が焼けるように痛んだ。

叫びたかった。

殴りたかった。

泣きたかった。

でも、どれもできなかった。

目の前にいるものは、澪の顔をしている。

澪の声をしている。澪の記憶を持っている。

それでも、俺の知っている澪なら、莉緒をいらないなんて絶対に言わなかった。


「お前が殺した」


言ってしまった。

言った瞬間、自分でもそれが刃物みたいな言葉だと分かった。

澪の顔が壊れたように歪む。

俺の目にはもう、澪の皮を被った化け物にしか見えなかった。


「わたし……?」

「お前が莉緒を殺した」


澪は自分の手を見た。

血のついた指先を見た。

それから莉緒を見た。

口が小さく動く。

りお、と言っているように見えた。

でも、その先の言葉は出なかった。


俺は莉緒を抱えたままコンビニの入口へ向かった。自動ドアは半分だけ開いたまま止まっていて、体を横にすれば入れた。

澪が後ろからついてくる。

ゆっくりと。

俺を見て、莉緒を見て、また俺を見る。

逃がさないというより、置いていかれたくない子どもみたいだった。


俺は奥のバックヤードへ向かった。

莉緒を抱えた腕は痺れていて、足もふらついている。

それでも下ろせなかった。

下ろしたら、もう二度と抱え上げられない気がした。

澪は入口の方で立ち止まり、俺の後ろ姿を見ている。

ついてくるのか、来ないのか。

それすら決められないみたいだった。


バックヤードには、潰した段ボールと掃除道具が積まれていた。

隅には、冬の名残みたいに石油ストーブが置かれている。

五月に入ってからは使っていなかったのだろう。

その横の赤いポリタンクを動かすと、底の方で液体が揺れる音がした。


燃えたものは起き上がらない。


その言葉が頭の奥で冷たく響いた。

最初に思ったのは、澪を止める方法だった。

次に思ったのは、莉緒のことだった。

莉緒は噛まれていない。

黒い痕も出ていない。

だから、このまま眠ったままなのかもしれない。

でも、本当にそうだと誰が言える。


もし莉緒が目を開けたら。

俺の名前を呼んだら。

それが莉緒じゃなかったら。

それでも莉緒の声だったら。


その想像だけで、膝から力が抜けそうになった。

莉緒はゾンビになることなんて望まない。

そう思った。思いたかった。

本当にそうなのかは分からない。

もう聞けない。

だから俺は、自分に都合のいい答えを、莉緒の望みとして抱え込むしかなかった。


俺は莉緒をバックヤードの奥に寝かせた。

古いタオルを丸めて、莉緒の頭の下に置いた。

守っているつもりだった。

置いていっているだけなのに、守っているつもりになろうとしていた。


「ごめん」


声になったのかどうか、自分でも分からなかった。

莉緒の手は動かない。

そんな当たり前のことにほっとする。

動かないからここに置いていく。

動くかもしれないと思ったから、ここに置いていく。

どちらにしても、俺は莉緒を置いていく。

そのことだけは変わらなかった。


澪がバックヤードの入口に立っていた。

血のついた顔で、俺と莉緒を見比べている。

泣きそうな顔だった。

怒っているようにも見えた。

寂しそうにも見えた。

全部が混ざっていて、もう何を見ているのか分からなかった。


「りお……だめ……わたし……の……」


俺はポリタンクの蓋を開けた。

手が震えて、何度も滑った。

底に残っていた灯油を、段ボールと床に撒く。

量は多くない。

それでも、段ボールはすぐに黒く湿った。

灯油の匂いが狭い部屋に広がり、喉の奥がひりついた。


澪は一歩近づいた。

俺は後ずさった。

逃げたいのか、止めたいのか、自分でも分からなかった。

ライターを探す手が棚に当たり、掃除用の布と一緒に小さなライターが落ちてきた。

いつ誰が置いたものなのか分からない。

都合よくそんなものが落ちてきたことが、ひどく気持ち悪かった。


「ゆま……。それ……だめ……」


澪の声は震えていた。火が怖いのだろう。

火で止まることを、体のどこかが知っているのかもしれない。

それでも澪は逃げなかった。

俺を見ていた。

助けてほしい顔で、俺を見ていた。


「分かってる」


何が分かっているのか、自分でも分からなかった。

澪だと分かっている。

もう澪ではないと分かっている。

莉緒を置いていくことが間違っていると分かっている。

それでも、もう戻れないことだけは分かっていた。


「澪」


名前を呼ぶと、澪は少しだけ表情を緩めた。

呼ばれただけで安心したような顔だった。

その顔が、どうしようもなく澪だった。

だから、余計に壊れた。


「もう、やめてくれよ」


俺はライターを点けた。

一度目は火がつかなかった。

二度目もつかなかった。

三度目で小さな火が揺れた。

それを見た瞬間、澪の顔がはっきり怯えた。


「や……。ゆま……。こわ……い……」


俺も怖かった。

怖くてたまらなかった。

澪を燃やすことも。

莉緒を置いていくことも。

自分がこれを選ぼうとしていることも。全部怖かった。


それでも、火を落とした。


最初の炎は小さかった。

けれど、床に染みた灯油と段ボールの端に触れた瞬間、思ったより早く広がった。

赤い線が床を走り、積まれた箱の角を舐める。

澪が小さく叫んだ。

俺はその声を聞きながら、裏口へ向かった。


澪が俺に向かって手を伸ばした。

火を避けようとしているのか、俺を追っているのか分からなかった。

ただ、俺の名前を呼んでいた。

熱が広がり、バックヤードの空気が一気に重くなる。

火災を知らせる音が鳴った。

避難してください。

火災を検知しました。落ち着いて避難してください。


落ち着けるわけがなかった。


俺は裏口から外へ出た。

扉を閉める時、澪の声がすぐ向こうで聞こえた。


「ゆま!」


その一声だけは、はっきり聞こえた。

扉を叩く振動が伝わってくる。

澪が扉を開けようとしているんだろう。

足元に転がっていたロープを掴み、近くの鉄パイプに何度も巻きつけた。

ちゃんと固定できているのかなんて分からない。

ただ、扉が開かなければいいと思った。


開ければ、まだ間に合うかもしれない。

莉緒を抱えて出られるかもしれない。

澪を引きずり出せるかもしれない。

そんなことを考えた。

莉緒のためだと思おうとした。

本当は、もう扉を開けるのが怖かっただけかもしれない。


中で何かが崩れる音がした。

澪の声が形を失っていく。

俺の名前が、熱と煙の向こうで何度も途切れる。

莉緒の声は聞こえなかった。

それだけが救いだと思った。

そう思わなければ、立っていられなかった。


俺は駐車場の端まで下がった。

コンビニの窓が赤く光っている。

店内の棚に火が移り、黒い煙が天井の方へ集まっていく。

誰かが遠くで叫んでいた。

誰かが消火器を探しているのかもしれない。

でも、俺は動けなかった。

動かなかった。


火は思っていたより早く建物全体を包み込んだ。

ガラスが割れ、警報音が鳴り続ける。

遠くでサイレンのような音がした気もした。

けれど、それがこちらへ近づいてくることはなかった。


澪と初めてまともに喧嘩した日のことを思い出した。

莉緒がうちに飛び込んできて、二人まとめて正座させられた。


三人で歩いた帰り道。

莉緒が少し後ろを歩いていて、澪が俺の隣にいた。

それが当たり前だと思っていた。


澪に告白した日。

今さら、と笑いながら返事を貰えた。

その日の夜、莉緒は呆れたような顔で、おめでとうと言ってくれた。


三人で遊びに行った日。

並んで写真を撮ろうとした俺と澪の間に、まだ中学生だった莉緒が無理やり入ってきた。


俺は澪しか見てなかったけど、その中にはいつも莉緒がいた。

莉緒の笑顔を思い出そうとしても、それはいつも澪とセットで、莉緒だけの笑顔は救済が始まった後にしか思い出せない。


おにいちゃんと呼ぶ声。

悠真と呼んだ声。

好きだと言った声。

全部終わったら答えを聞かせてと言った顔。

俺は守ると言った。

それまでは絶対に守ると言った。


まだ何も終わっていない。

それなのに、俺は莉緒を火の中に置いてきた。


「違う」


小さく呟いた。

誰に向けた言葉なのか分からなかった。

莉緒を置いてきたんじゃない。

莉緒があんなふうに起き上がらないためだった。莉緒なら望まないと思ったからだった。

だから、これは間違っていない。


間違っていないはずだった。


火は長く燃え続けた。俺はその間、ずっと同じことを考えていた。

何度も繰り返し、繰り返すたびに言葉の中身が薄くなっていく。

それでも繰り返した。

やめたら、扉の向こうに置いてきたもの全部が、俺の方へ振り返る気がした。


やがて火は少しずつ弱まった。

店の中は黒く焼け、棚も天井も崩れていた。

俺はふらつきながら、焼けた入口へ近づいた。

熱はまだ残っていて、息を吸うだけで喉が痛んだ。

それでも、中を見ないわけにはいかなかった。


バックヤードの奥に、2つの影があった。

小さな体が横たわっている。

その上に、もう1つの影が覆い被さるように崩れていた。

澪だった。

莉緒を庇おうとしたのか。

抱きしめようとしたのか。

責めようとしたのか。

奪い返そうとしたのか。

もう分からなかった。


分からないまま、俺はそこから目を逸らせなかった。

莉緒も澪も動かない。

燃えたものは起き上がらない。そのはずだった。


俺が澪を燃やした。

莉緒を置いていった。

救えなかったのではない。終わらせたのだ。


そう思おうとした。

そう思わなければ、立っていられなかった。


遠くで、誰かが俺の名前を呼んだ気がした。


――悠真。


そう聞こえた。

澪の声だったのか、莉緒の声だったのか、自分の頭の中だけの声だったのか分からない。


俺は返事をしなかった。

返事をする相手は、もうどこにもいなかった。




あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。


読後に何か残るものがありましたら、リアクションやコメントで反応をいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ