第18話 莉緒の再現
家の中は、いつもと同じ匂いがした。
洗濯物の柔らかい匂いと、廊下に残った日差しの温度と、台所から聞こえる小さな生活音。
ここに来てから、何度も思った。
外がどれだけ怖くても、家に帰れば大丈夫だった頃のまま、この場所は私を待ってくれている。
私はリビングのテーブルを拭き、ソファのクッションを直した。
莉緒が帰ってきたら、きっとすぐにそこへ座る。
疲れたとか、お腹が空いたとか、いつもの調子で文句を言う。
母は呆れた顔をしながら、結局何かを出してあげる。
私はその横で、ちゃんと帰ってきたねと笑う。
悠真のことは、莉緒が落ち着いたら一緒に会いに行こう。
それとも、私が連絡すれば家の前まで来てくれるかもしれない。
玄関の外で少し照れたように立って、遅くなってごめんと笑う姿なら、簡単に思い浮かべられた。
家の中で当然みたいに待っているより、その方がずっと悠真らしかった。
「澪、少し休んだら?」
台所から母の声がした。私は顔を上げて、首を振った。
「大丈夫。莉緒が来た時に、ちゃんと迎えたいの」
「ずっとそればかりね」
母は困ったように笑った。
その笑い方は、昔と変わらない。
少し呆れていて、でも本気では止めない。
私はそれを見るたびにこの場所が本物だと思いたくなる。
本物でないなら、こんな細かい癖まで残っているはずがない。
《澪さん》
部屋の空気に、AIの声が静かに重なった。
私は手に持っていた布巾を止めた。
その声がいつもより少しだけ慎重に聞こえたからだった。
母も何かを感じたのか、台所からこちらを見る。
「なに?」
《莉緒さんについて、お知らせがあります》
莉緒の名前が出た瞬間、胸が少し跳ねた。
来るのかもしれない。
やっと、莉緒がここに来られるのかもしれない。
私は布巾をテーブルに置き、思わず玄関の方を見た。
もちろん、そこに誰かが立っているわけではない。
でも、名前を聞くだけで、体が勝手に期待してしまう。
「莉緒、来られるの?」
《莉緒さんの救済は、正常に完了しませんでした》
最初、その意味が分からなかった。
正常に完了しませんでした。
れは失敗したという意味なのか、それとも、まだ途中という意味なのか。
「どういうこと?」
《莉緒さんをそのまま迎えるには、不足している情報があります》
「不足って、なに?」
《現実側での接続が安定しませんでした》
「じゃあ、莉緒は来られないの?」
少しだけ声が震えた。
――来られない。
その言葉を自分で口にした瞬間、部屋の中の空気が冷たくなった気がした。
母が近づいてきて、私の肩に手を置く。
私はその手の温かさを感じながら、AIの返事を待った。
《不足している情報を皆さんの記憶から補えば、莉緒さんを再現することはできます》
その言葉には少し違和感があった。
「莉緒に会えるの?」
《澪さんが望むなら、莉緒さんに会うことはできます》
その一言で、引っかかったものが胸の奥へ沈んでいった。
会える。莉緒に会える。
それならいい。細かいことはあとで聞けばいい。
今はまず、莉緒がここに来ることの方が大事だった。
「お願いします」
《分かりました》
《莉緒さんの再現を開始します》
《完了まで、しばらくお待ちください》
部屋の天井から、柔らかい光が降りた。白くて、暖かくて、昼下がりの日差しみたいな光だった。
私はその光を見上げた。
何かを聞き返そうとした気もする。
けれど、聞き返す前に、心の中が莉緒に会えるという期待でいっぱいになっていた。
母が私の隣に立った。
何も言わず、ただ肩に手を置いてくれる。
私はその手に少しだけ寄りかかりながら、階段を見つめた。
莉緒がどんな顔で来るのか想像した。
泣いているかもしれない。
怒っているかもしれない。
お姉ちゃん遅いと文句を言うかもしれない。
どれでもよかった。
会えるなら、それでよかった。
どれくらい待ったのか分からない。
時計を見るたびに、針はほとんど進んでいないように見えた。
私は何度も立ち上がり、何度も座り直した。
母は台所でお茶を淹れてくれたけれど、味はほとんど分からなかった。
手の中の湯呑みが温かいことだけを、ぼんやりと感じていた。
《莉緒さんの記憶は救済開始の時までしかありません。》
《時間がたっていることについては、少しずつ話してあげてください。》
救済が始まった頃。
その言葉を聞いて、私は自分が目を覚ました日のことを思い出した。
駅前から先のことは、私も残っていなかった。
莉緒も同じなら、急に全部を話されても混乱するだけだろう。
やがて、二階から小さな音がした。
静かにしていないと気づかないくらい小さな音。
それでも私は聞き逃すことなく、立ち上がった。
母も後ろからついてくる。
「お姉ちゃん?」
私は息を止めた。
そこに莉緒が立っていた。
制服でも、寝間着でもなく、私が一番よく覚えている頃の服を着ていた。
少し困ったように眉を下げて、私を見る時の目も、その呼び方も、全部が莉緒だった。
「莉緒」
名前を呼ぶと、莉緒は少し笑った。
私が知っている笑い方だった。
拗ねる前の、怒る前の、甘える前の、ほんの短い笑顔。
私は何も考えられなくなって、そのまま莉緒を抱きしめた。
「お姉ちゃん、苦しい」
「ごめん。でも、少しだけ」
莉緒の体は温かかった。腕の中にちゃんと重さがあった。
声も、髪の匂いも、背中に触れた手の感触も、私の知っている莉緒だった。
だから私は、それ以上を考えなかった。
「よかった。本当に、よかった」
「なにが?」
莉緒は不思議そうに聞いた。
私は答えられなかった。
救済が正常に完了しなかったこと。
不足している情報があること。
そんなことは、莉緒に言いたくなかった。
言ったところで、莉緒が困るだけだと思った。
「なんでもない。おかえり」
「ただいま?」
莉緒は少し首を傾げた。
その仕草があまりにもいつも通りで、胸が苦しくなる。
私は涙を拭き、莉緒の手を引いてリビングへ戻った。
母は何も言わずに、もう1つ湯呑みを用意していた。
その自然さに、私はまた少しだけ安心した。
「悠真は?」
莉緒がソファに座ってすぐ、そう聞いた。私は一瞬だけ言葉に詰まった。
莉緒が悠真の名前を出す。
それは当然のことだった。
でも、その当然が少しだけ痛かった。
「まだ、こっちには来てない」
「そっか、早く来ればいいのにね」
莉緒は短く答えた。
その表情からは、何を考えているのか分かりにくかった。
私は莉緒の顔を見つめた。
本当に莉緒だった。
私の知っている莉緒だった。
《澪さん》
またAIの声がした。私は莉緒から目を離せないまま、返事をした。
「なに?」
《林悠真さんは、現在も未救済状態です》
「そっか」
その返事を聞いて、胸の奥に小さな火が残った。莉緒はここにいる。
だけど、悠真はまだいない。
二人でならきっと説得できる。
だから、悠真だってきっとすぐに来てくれる。
「莉緒、一緒に悠真の説得頑張ろう」
莉緒が私を見た。
母も私を見る。
二人の視線に、私は少しだけ笑った。
莉緒がいて、母がいて、悠真を待てる。
それなら、まだ大丈夫だと思いたかった。
「お姉ちゃん寂しそうだしね。しかたないから私も一緒に説得するよ」
莉緒が何気ない声で言った。
その声が自然すぎて、私は笑いそうになった。
昔からそうだった。悠真のことで私が落ち着かないと、莉緒はわざと軽い言い方をした。
からかっているようで、少しだけ気を遣っている。
そういうところまで、ちゃんと莉緒だった。
「来たら、文句言ってあげようね」
「うん」
莉緒は笑顔で頷いた。
それは記憶の中にある莉緒の笑顔そのものだった。
私はその顔をみて、ようやく幸せを実感することが出来た。
*
あとがき
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