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第15話 一人きりの逃走

おにいちゃんの背中が路地の向こうへ消えた。

追いかけようとして、一歩だけ足が前に出たけど、すぐ横から伸びてきた手が、私の髪の先をかすめた。

私は息を呑み、棒を両手で握り直した。

振らなければ捕まる。

そう分かっているのに、目の前にいる人の顔を見てしまうと、腕が途中で止まりそうになった。


その人は、いつも公園で犬の散歩をしている女の人だった。

顔の片側に黒い筋が走っていて、口元はうまく動いていない。

でも、手を伸ばす動きは乱暴ではなかった。

捕まえて殴ろうとしているのではなく、迷子の子どもを止めようとしているみたいだった。

その優しさが、今は何より怖かった。


「ま……て……。あぶ……ない……」


声は崩れていた。

言葉の形も曖昧で、聞き取れたのはそれくらいだった。

けれど、言いたいことは分かる。

危ないから待って。

救済するから。

怖がらなくていいから。

何度も聞いてきた言葉が、壊れた声の奥から滲んでくる。


「来ないで!」


私は目をつぶらないようにして、棒を横に振った。

手応えは軽かった。

布団を叩いた時とはまるで違う。

人の腕に当たった感触が、手のひらから肘まで嫌な震えになって上がってくる。

女の人は倒れなかった。

ただ少しよろけて、痛そうでも怒ったようでもない顔で私を見た。


後ろから誰かが私の名前を呼んだ気がした。

でも、おにいちゃんの声ではなかった。

振り返ったら終わると思って、私は前だけを見た。

路地へ出ると、夜の空気が冷たく肺に入ってきた。

どこを走っているのか分からない。

さっきまでいた倉庫へ戻る道も、おにいちゃんと決めた合流場所も、頭の中では分かっているはずなのに、似たような塀と電柱と暗い窓ばかりで、何度も方向感覚がずれそうになる。


遠くではまだ、未救済者は落ち着いてくださいという端末音声が流れている。

落ち着けるわけがない。

声に出して怒りたかったけれど、声を出せば見つかる。

私は角を曲がり、空き家らしい家の庭へ入った。

門扉は半分外れていて、植木鉢が倒れたままになっている。

玄関の横にある雨戸の影へしゃがみ込むと、ようやく息を吐けた。


喉が痛い。

足も震えている。

手のひらは練習で赤くなっていて、そこに人を殴った感触が重なっていた。

私は棒を抱え込んだ。

守るために振った。

おにいちゃんを追うために、逃げるために、仕方なかった。

そう言い聞かせても、腕に残った感触は消えない。

あの人は私を殺そうとしていたわけじゃない。

たぶん、救おうとしていた。

それなのに私は、怖くて殴った。


「おにいちゃん……」


小さく呼んでしまい、慌てて口を押さえた。

返事はない。

あるはずがない。

おにいちゃんは別の方向へ走った。

私を逃がすために、わざと追われる方を選んだ。

絶対だと約束したのに、あの言葉が嘘かもしれないことくらい分かっていた。

それでも頷いたのは、私が頷かないと、おにいちゃんが動けなくなると思ったからだった。


庭の外を、足音が通り過ぎた。

1つではない。

何人かがゆっくり歩いている。

私は雨戸の影で息を止めた。

足音の中に、杖をつくような音が混じる。

近所の誰かかもしれない。

さっきの自治会長かもしれない。

もう見分けたくなかった。


しばらくして、足音が遠ざかった。

私は息を吐き、物置の横を抜けて裏手の低い塀へ向かった。

乗り越えるには少し高い。

でも戻れば捕まる。

私はモップの柄を先に向こうへ投げ、両手で塀の上を掴んだ。

足が滑る。

膝をぶつける。

痛みに声が出そうになったが、口を噛んでこらえた。


塀を越えると、隣の家の細い通路に落ちた。

肩を地面に打ち、しばらく息ができなかった。

それでも起き上がり、投げた棒を拾う。

遠くでまた誰かが私の名前を呼んでいる気がする。

別の誰かのことかもしれない。でもその声は怒ってはいない。

だからこそ、早く逃げなければならなかった。


私は通路を抜けて、商店街の裏へ出た。

昼間なら店のシャッターが並ぶだけの通りが、夜にはまるで知らない場所に見える。

看板の一部だけが月明かりを受けて白く浮かび、ガラスの割れた自転車屋の前には、倒れた自転車が何台も重なっていた。


道路の端に、黒く焼けたものが倒れていた。

人だったものか、ゾンビだったものか、私は近づかなかった。

ただ、それが動いていないことだけは分かった。

周りには黒い筋も、補修されていくような動きも見えない。

火で焼けたものは起き上がらないらしい。

そんな噂を、スーパーにいた人たちが言っていたのを思い出す。

その時は聞き流した。

今は、それを思い出したこと自体が怖かった。


私はその焼け跡から目を逸らし、倉庫の方角を探した。

はぐれたら最初の倉庫。

おにいちゃんが言った言葉は覚えている。

でも、そこへまっすぐ戻る道は危ない。

救済誘導の声が住宅街の方へ集まっているから、遠回りしないといけない。

一人で判断する。

一人で逃げ道を見る。

横を見てもおにいちゃんがいない。

そのことに胸が苦しくなる。


角を曲がると、いきなり目の前に人影があった。

私は反射的に棒を構えた。

相手もこちらを見た。

月明かりに照らされた顔は、知っている顔だった。

私のお父さんだった。


首筋に黒い痕があり、右の頬に少しだけ黒い線が伸びている。

でも、私が知っている父の顔そのもので、こちらを見る笑顔もそのままだった。

そして、なによりも近すぎた。


「莉緒」


その声は、他のゾンビたちよりもずっと聞き取りやすかった。

私の足が止まる。

逃げなければいけない。

分かっているのに、動けなかった。

お父さんは、私を見つけてほっとしたような顔をしている。

昔、門限を過ぎても帰らなかった私を迎えに来た時と同じ顔だった。


「よかった、探したんだぞ。お姉ちゃんも心配してる。さぁ、一緒に行こう」


「来ないで!」


私はそう言った。

自分でもひどい言葉だと思った。

お父さんの顔が少し歪む。

傷ついたように見えた。

その顔を見た瞬間、胸の奥が潰れそうになる。


「莉緒、怖がらなくていい。

お父さんだよ。

分かるだろう?」


分かる。

分かるからこそ怖い。

知らないゾンビなら、まだ逃げられた。

お父さんの声で、お父さんの顔で、お父さんの手で私を連れていこうとするから、足が動かなくなる。

私は棒を握った。

でも、腕が上がらなかった。

さっきおにいちゃんのお父さんを殴ったことが頭をよぎる。

今度は自分の父を殴るのか。

そう思った瞬間、喉が詰まった。


「救済されれば楽になれるんだ、痛くないし、怖くもない。お母さんもお姉ちゃんもいるから。」

「やだ」

「莉緒」

「やだって言ってるでしょ!」


叫んだ声が、商店街の裏通りに響いた。

しまったと思った。でも止まらなかった。私は泣いていた。

いつから泣いていたのか分からない。

お父さんは困ったように眉を寄せ、私へ一歩近づく。

その動きが、昔とほとんど同じだった。

泣いている私を抱きしめようとする時の歩き方だった。


「お父さんのこと、嫌いになったのか」

「違う!大好きだよ、でも行けないの!」

「どうして」


どうして。

その問いに、答えられなかった。

生きたいから。まだ私のままでいたいから。

お姉ちゃんの妹でいたいけれど、救済されたくはないから。おにいちゃんのところへ戻りたいから。

全部が正しくて、全部がひどい理由に思えた。


「おにいちゃんを探さなきゃ」


口にした瞬間、お父さんの目が少し変わった。

怒ったのではない。

でも、何かを理解できないまま拒むような顔だった。


「悠真くんは危ないんだ。あの子はお姉ちゃんを傷つけた。一緒にいたらきっと莉緒も傷つく。だから離れなさい」

「私だって傷つけた」

「莉緒」

「嫌!」


お父さんの手が伸びた。

一歩下がると、背中がシャッターに当たりもう下がることはできなかった。

震える手でなんとか棒を上げる。

顔は見ないで近づいてくる手だけを見る。

おにいちゃんに言われたことを、頭の中で何度も繰り返す。


それでも、振れなかった。

お父さんの手が私の肩に触れる。温かいのか冷たいのか分からない。黒い痕のある指が、服を掴む。

力は強くなかった。

本気で引きずるつもりなら、私はもう動けなかったはずだ。

お父さんは私が自分から頷くのを待っているのかもしれない。その優しさに、息が詰まった。


「ごめんなさい」


私はそう言って、棒ではなく足でお父さんを突き飛ばした。

蹴ったというより、突き飛ばしただけだった。

お父さんの体が少し傾く。

私はその隙に肩を抜き、横へ逃げた。

背後でお父さんが私の名前を呼ぶ。

バランスを崩しただけで転んだわけじゃない。

きっとすぐ追ってくる。

それでも、殴らずに抜けられたことに、ほんの少しだけ救われた気がした。


裏通りを抜けると、倉庫へ続く道が見えた。

遠回りしたせいで時間がかかったけど、見覚えのある看板と壊れた自販機がある。

ここまで来れば、もう少しで合流場所だ。

そう思った瞬間、前方から複数の足音が聞こえた。

私は慌てて、横にあったクリーニング店のシャッターの陰へ身を隠す。

倉庫のことを知られるわけにはいかない。

早く倉庫に向かいたい気持ちを押し殺して、辺りから人影がなくなるのを待ち続けた。


ようやく気配がなくなって、倉庫へと向かう。

入口には、前に積んだ台車とコンテナが少し崩れたまま残っていた。

誰かが中を確認した形跡がある。

もう安全な場所ではない。

それでも、約束した場所だった。

私は裏口から中へ入り、暗い倉庫の奥を見回した。


「おにいちゃん」


返事はない。

声を出してしまったことに気づき、すぐ口を押さえる。

倉庫には2つのペットボトルが転がっていた。

コンビニから無断で持ち出した水のボトルだった。


――いつか払いに来る。


そう言ったおにいちゃんの笑顔が脳裏をよぎる。

そのおにいちゃんは今はいない。


そのことだけが、暗い倉庫の中で重く残っていた。




あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。


読後に何か残るものがありましたら、リアクションやコメントで反応をいただけると励みになります。

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