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第14話 集団

「り……お」


莉緒の体が固まった。

俺も握っていた鉄パイプに力を入れ直した。


シャッターが少しだけ開き、隙間から夜の冷たい空気が入り込んでくる。

そこにいたのは、予想していた通り澪だった。

幸い、入口からは積まれた棚やコンテナが邪魔でこちらが見えていないのか、すぐには気づかれなかった。

それでも、ここにいることを確信しているように、澪はゆっくりと呼びかけ続けていた。

口調は以前より崩れている。

けれど、莉緒を呼ぶ優しさだけはまだ残っていた。


「ゆ……ま……」


莉緒が俺を見る。

泣きそうな顔ではなかった。

むしろ、泣くまいとしている顔だった。

俺は口元に指を当てる。

返事をするな。

そう伝えると、莉緒は悔しそうに目を細め、それでも声を出さなかった。

以前なら、ここで崩れていたかもしれない。

今も崩れそうなのに、ぎりぎりのところで踏みとどまっている。


澪の声は一度遠ざかっていった。

誰かと一緒に探しているのかもしれない。

外を歩く声の多さから、もう個人で追っているだけではないことは分かる。

誰かが誰かを説得する場を作るために、もしくは力づくで救済するために。

その中に、澪も入っている。


「莉緒、奥へ」


俺が囁くと、莉緒は首を振った。


「やだ、横にいる」

「見つかったら逃げるんだぞ、戦わないでくれ」

「その時は怪我人が先に逃げて。後ろで見てるだけにはなりたくないの」


何度も繰り返したやり取りだった。莉緒の決意は固いのだろう。

でも、その声は震えていた。

それでも、言い切った。

俺はそれ以上言えなかった。

外の足音が、今度は倉庫の横へ回る。

割れた小窓の向こうに影が流れた。

俺は入口へ体を寄せ、莉緒を斜め後ろに置く。

莉緒は完全には下がらず、俺の横から外の様子を見ようとしていた。


「ちか……い」


突然、窓の外から声がした。

莉緒の息が止まる。

俺も振り向いた。

割れた小窓の外に、澪が立っていた。

顔の片側には黒い補修痕が残り、以前よりも首筋に走る筋が濃くなっている。

髪は乱れているのに、こちらから見る限り、その目だけは澪のままだった。

俺を見て、莉緒を見て、二人の距離を見ている。


「澪……」


声を出した瞬間、澪の顔が少しだけ明るくなった。

その表情に胸が痛む。

名前を呼んだだけで、澪はまだこんな顔をする。

それなのに、俺は鉄パイプを持って、莉緒の前に立っている。


「ゆ……ま、りお……いく……ね」


澪は窓枠に指をかけた。

黒い筋が手首から甲へ浮かび、爪の周りだけが不自然に硬く見える。

窓を開けようとしているのか、ただ触れているだけなのか分からない。

莉緒が一歩前へ出ようとした。

俺は反射的に肩を押さえたが、莉緒は完全には止まらなかった。


「お姉ちゃん!来ないで!」


その声に、澪の表情が揺れた。傷ついたように見えた。

莉緒も、それを見て唇を噛む。

言いたくて言った言葉ではないのだと、すぐに分かった。

それでも莉緒は言った。

来ないで、と。

自分から。


「りお……ど……して」


「お姉ちゃんが嫌いになったわけじゃない!でも、近づかれたら怖い!私、まだ行きたくない!」


「こわ……く……ない」


澪の声は崩れていた。

それでも、言葉の意味は分かる。

怖くない。

楽園へ行こう。

救済は痛くない。

その続きを、俺たちは何度も聞いてきた。

でも、今の莉緒は泣きながら近づくのではなく、棒を持ったまま足を踏ん張っている。


「怖いよ……」


莉緒は言った。

声は小さかったが、はっきりしていた。


「お姉ちゃんのことは怖くないって言いたい。でも、ごめん、怖いんだよ」


澪の指が窓枠を強く掴んだ。

古い木枠が軋む。

その顔に怒りが浮かんだのか、悲しみが浮かんだのか、すぐには分からなかった。

ただ、澪の視線が莉緒から俺へ移り、俺の手が莉緒の肩に触れていることに止まった。

俺は慌てて手を離しかけたが、莉緒がよろけそうで、完全には離せなかった。


「ゆ……ま……どう……して」

「違う!莉緒を支えてるだけだ!」

「ちか……い。りお……そこ……じゃ……」


莉緒の肩が震えた。

図書館の時と同じ言葉だった。

けれど、今回はもっと深く刺さったように見えた。

莉緒は俺の手を見て、それから澪を見た。

自分がどこにいればいいのか、また分からなくなった顔だった。


「お姉ちゃん、私は……」


莉緒は言いかけて、声を詰まらせた。

言い訳をすればするほど、自分で何かを認めてしまう気がしたのかもしれない。

俺も何も言えなかった。

守るためだ。

危ないからだ。

それは全部本当なのに、澪の目の前で言うと薄く聞こえる。


「莉緒!そこにいるのか!」

「悠真!」


遠くから別の声が響いた。

俺の父親と、澪の父親の声だった。その声を聞いた瞬間、腹の奥が冷えた。

澪は傷ついて、あんなにボロボロになっているのに、あんたたちはどうしてそんなに普通の声で名前を呼べるんだ。

自分が澪を傷つけたことを棚に上げて、怒りだけが喉の奥まで上がってきた。


「ゆうま……わた……しの……。りお……いもうと……。そこ……ちが……う」

「違うよ!」


莉緒が声を上げた。

その声の大きさに、澪も俺も一瞬動きを止めた。

莉緒は棒を握ったまま、窓の方へ半歩進んだ。

俺は止めようとしたが、莉緒は横目でこちらを見て、小さく首を振った。

前に出る。でも、近づきすぎない。

倉庫で決めたことを、自分に言い聞かせているようだった。


「私は、お姉ちゃんから悠真を取ろうとしてるわけじゃない。でも、私だって怖いの。お姉ちゃんのところに行きたいのに、行ったら戻れない気がして怖いの。だから今は、ここにいるしかないの」


澪は黙って聞いていた。

その口元が小さく震える。

言葉を探しているのか、怒りを抑えているのか分からない。

黒い補修痕の奥で、何かが細く動いた。

人間の筋肉ではないものが、澪の表情を支えているように見えて、俺は奥歯を噛んだ。


「りお……ゆう……まじゃ……ない。おに……ちゃん……でしょ?」

「私だってもう分からない!」


莉緒の声が割れた。

背後では父親たちの声も近づいてきている。

足音や会話の数からして、二人だけではなさそうだった。

俺は莉緒の腕を掴み、低く言った。


「莉緒、囲まれる前に逃げよう」


莉緒は澪を見たまま動かなかった。

澪も、窓の外で手を伸ばしている。

指先が割れたガラスに触れ、ぱき、と小さな音がした。

澪は痛がる様子もなく、そのまま窓枠を押した。

古い鍵が軋み、今にも外れそうになる。


「莉緒!」


俺が強く呼ぶと、莉緒はようやくこちらを見た。

その目は涙で濡れていたが、焦点は失っていなかった。

莉緒は一度だけ澪へ向き直り、唇を震わせながら言った。


「お姉ちゃん。次こそはちゃんと話そうね。でも、やっぱり今は行けない」

「つぎ……?」


澪が聞き返す。

その声の中に、ほんの少しだけ幼い響きが混じった。

約束を信じたい子どものような、縋るような声だった。


「うん、だから、今は追ってこないで」

「むり……」


澪の返事は短かった。

優しい声だった。

それなのに、拒絶よりずっと怖かった。


「すく……わない……と」


その言葉を聞いた瞬間、俺は莉緒の腕を引いた。

今度は莉緒も抵抗しなかった。

倉庫の奥にある勝手口へ向かう。

事前に鍵を確認しておいてよかった。

俺が開けるより早く、莉緒が手を伸ばして古い鍵を回した。


勝手口を開けた先にも、逃げ道はなかった。

倉庫の裏手は駐車場になっていて開けていた。

その先の出口を抜ければ住宅街へ抜けられるはずだった。

けれど出口の前は、多くの人影で塞がれていた。


誰も走ってこない。

誰も叫ばない。

ただ、こちらを見ている。

その静けさが、駅前の悲鳴よりもずっと気味が悪かった。


「一体どこにこれだけ……」


俺が呟くと、莉緒が棒を握り直した。

集まっているのは、ゾンビたちだった。

家族を呼んでいた者。

近所を歩いていた者。

救済誘導の音声に従っていた者。

その全部が、いつの間にかこの倉庫の周りへ集まっていた。


周りに指示を出している人物には見覚えがあった。


「自治会長か。あのじいさん、苦手なんだよな……」


昔から何かにつけて叱られてきた記憶があった。

気に入らないことがあるとすぐに、最近の若いもんはと長々とした説教を始める。

子どもたちからは嫌われ者の老人だった。

今も背筋だけは妙にまっすぐで、崩れた声で何かを指示している。

けれど、その口から出ている言葉は、もう俺にはほとんど聞き取れなかった。


「莉緒、棒の振り方覚えてるか?」

「う……うん」

「俺が何とか道を開くから、そこから逃げてくれ。大丈夫、莉緒が逃げたら俺もすぐに逃げるから」


もちろん嘘だった。

この状態から二人で逃げるのは難しい。

莉緒にもそれは分かっているはずなのに、素直に頷いた。


「分かった。絶対だよ。約束だからね」

「ああ、絶対だ」


包囲が少しずつ狭まってくる。

自治会長だった何かが、こちらに向けて何かを喋っている。

その声は崩れていて、意味をほとんど持っていない。

救済を拒む子どもに、昔のように説教しているのかもしれない。


俺は意を決して、一人で前に出てきていた自治会長へ向かって走り出した。

鉄パイプを振り、自治会長を殴り倒す。

その横にいた男にも殴りかかった。


「やめろ!傷つけたくないんだ!救済を受け入れてくれ!お前たちの傷は治らないんだぞ!」


そんな声が聞こえてきた。

戦うつもりではなく、数の圧力で言うことを聞かせたかったらしい。

確かに、数は圧倒的だった。

本気で潰すつもりなら、俺たちはとっくに押し倒されている。

それなのに、誰も殴りかかってこない。

腕を伸ばし、服を掴み、進路を塞ぐだけだった。


こいつらは、俺たちを傷つけたいわけじゃない。

救済したいだけだ。

そう気づいた瞬間、鉄パイプを握る手に嫌な汗が滲んだ。

俺は、ほとんど殴り返してこない相手を、ただ殴っているのかもしれない。


それでも止まれなかった。

掴まれたら終わる。

その手が一度でも莉緒に届けば、もう戻れない。


「悠真!いい加減にしなさい!」


そこにいたのは、父親だった。

黒い痣以外に大きな怪我もない顔で、いつも叱る時のような口調で話しかけてくる。

その顔を見て一瞬、体が動かなくなる。


「悠真を離して!」


莉緒が父親を殴り飛ばした。

棒の先が肩に当たり、父親の体が横へ傾く。

その動きが決して綺麗ではなかったことが、逆に莉緒らしかった。

怖くて、震えて、それでも振ったのだと分かった。


「莉緒、行け!」

「でも!」

「いいから早く!」


群がってくるゾンビたちを牽制しながら、莉緒を先に逃がす。

莉緒は一度だけこちらを振り返った。

何かを言いかけた顔だった。

でも、俺がもう一度頷くと、歯を食いしばって走り出した。


「最初は、ここまでできたら上出来だと思ってたんだけどな。約束したし、もう少し頑張らないとだな……」


莉緒の後ろ姿が見えなくなったことを確認してから、俺は莉緒とは別の方向へ走り出した。

約束を守るつもりはあった。

それでも、莉緒を守るためには危険な橋を渡る必要があった。




あとがき


ここまで読んでいただきありがとうございます。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。


読後に何か残るものがありましたら、リアクションやコメントで反応をいただけると励みになります。

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