第13話 近すぎる二人
倉庫の中は闇に包まれていた。
明かりをつけるわけにはいかず、微かな月明かりだけを頼りに、俺たちは遅い食事をとっていた。
少しずつ貯めていた食料はそれなりの量になっていて、まだ数日ならここに籠っていることもできるだろう。
できればそうしたかった。
けれど、長くは持たないだろうという予感もあった。
外では、さっきから何度も誰かの名前を呼ぶ声がしていた。
一人ではない。
あちこちの通りから、母親が子を呼ぶ声、夫を呼ぶ声、友人を探す声が、途切れながら流れてくる。
それらは怒鳴り声ではなく、むしろ優しい声に近かった。
だからこそ、耳を塞いでも胸の奥に入り込んでくる。
誰かを救おうとしている声が、俺たちにとっては逃げなければならない音になっていた。
莉緒は倉庫の隅に腰を下ろし、棒を横に立てかけた。
倉庫で少し教えただけの動きが身についたわけではない。
それでも、今の莉緒は以前のように膝を抱えて小さくなるのを拒むように、棒を近くに置くことをやめない。
顔色は悪く、手も震えている。
けれど入口の方で物音がすると、俺より少し遅れながらも必ず顔を上げた。
「少し寝ろ」
俺が言うと、莉緒は首を振った。
予想していた返事だった。
俺は作業台から持ってきた布を床に敷いたが、莉緒はそこに横になるどころか、背中を壁へ押しつけるようにして座り直した。
「おにいちゃんこそ、寝た方がいい」
「俺はあとでいい」
「それ、ずっと言ってる」
莉緒の声には責める響きがあった。
でも、その奥にあるのは怒りではなく、心配をどう伝えればいいか分からない苛立ちだった。
俺は反論しようとして、腹の奥に響く痛みに息を詰めた。
スーパーで蹴られた場所はまだ重く、動くたびに鈍い熱が広がる。
それを見逃さなかった莉緒が、眉を寄せて俺の方へ身を乗り出した。
「ほら、また痛そうな顔してる」
「顔に出てたか」
「出てなくても分かる。ごまかすの下手すぎ」
莉緒はそう言って立ち上がり、俺の前にしゃがんだ。
近い。そう思ってから、そんなことを考えた自分に遅れて気づいた。
怪我を見ようとして近づいただけだ。
外にはゾンビがいて、人間だって信用できず、今は互いに離れすぎない方がいい。
そう考えれば、理由はいくらでもあった。
それでも、莉緒の髪が頬に触れそうな距離まで来ると、昨日までとは少し違う緊張が胸に残った。
「見せて」
「さっきも見ただろ」
「お腹はごまかされて見てない。本当に内臓痛めてたらどうするの」
見せたところでどうしようもないし、見せる必要はないと思った。
けれど、莉緒は俺の顔を見たまま動かなかった。
「分からなくても、見る」
そう言われると、それ以上は拒めなかった。
俺はシャツの裾を少し上げた。
莉緒は息を呑み、すぐに唇を噛んだ。
腹の横に、紫色の痣が広がっている。
自分では直接見ていなかったが、莉緒の反応だけでひどい色になっているのが分かった。
「だから見せてって言ったじゃん」
「動けるから平気だ」
「平気じゃないってば」
莉緒は救急セットの残りを引き寄せ、湿布のようなものがないか探し始めた。
そんな都合よく必要なものがあるわけもなく、結局見つかったのは冷却シートと、少し古いタオルだけだった。
莉緒はポットの横にあった未開封の水でタオルを濡らし、冷たいまま俺の腹に当てた。
思わず体が跳ねる。
莉緒は慌てて手を引きかけたが、俺が首を振ると、またそっとタオルを戻した。
「痛い?」
「少しだけ」
「絶対に少しじゃないよね」
莉緒の指が、タオル越しに痣の周りを押さえる。
その手つきはたどたどしい。
でも、乱暴ではなかった。
昔なら、こんなふうに怪我を見てもらうことなんてなかったと思う。
莉緒は澪の妹で、俺にとっても妹のような存在で、助ける側にいるのはいつも俺たちだった。
その莉緒が今、震える手で俺の怪我を見ている。
それがどこか現実離れしていて、俺はしばらく言葉を失った。
「お姉ちゃんが見たら、怒るかな」
莉緒が小さく言った。
視線はタオルに落ちたままだった。
「こんなふうに近くにいたら」
俺はすぐに答えられなかった。
怒る、と言えば莉緒を傷つける。
怒らない、と言えば嘘になるかもしれない。
図書館の窓越しに見た澪の目が、今も頭に残っている。
莉緒を心配していた。
同時に、俺のそばにいる莉緒を、どこか違うものとして見ていた。
「今の澪なら、分からない」
そう答えると、莉緒の手が少し止まった。
「やっぱり、そうだよね」
「でも、莉緒が悪いわけじゃない」
「それも分かってる。分かってるけど、分かってるだけじゃどうにもならないでしょ」
莉緒はタオルを押さえたまま、肩を小さく落とした。
その姿を見ていると、手を伸ばしたくなる。
頭を撫でるとか、肩に触れるとか、昔なら何も考えずにできた、でも今はひとつひとつが意味を持ってしまう。
澪の目がそれを見ている気がした。
ここにいないはずなのに、莉緒との距離を測られているようで、俺は自分の手を膝の上に置いたまま動かせなかった。
「私、悠真の隣にいていいのかな」
莉緒はそう言ったあと、自分で驚いたように口を閉じた。
おにいちゃん、ではなかった。
ほんの小さな呼び方の違いなのに、倉庫の空気がわずかに変わる。
俺は聞き返せなかった。
莉緒も言い直さなかった。
タオルの端から水が少し落ちて、床に小さな丸い染みを作った。
「今は、一人にできない。それに、莉緒がいないと多分耐えられない」
それは、最初から感じている本音だった。
澪に託された。
莉緒が頼ってくれる。
それがあったから、ここまで進んでくることができた。
それがなかったら、澪の家のリビングで、管理小屋で澪を拒むことはできなかっただろうと思う。
莉緒がいたからここまでこれた、それを、愛と呼ぶつもりはなかった。
でも、莉緒が俺に依存しているように。
俺も莉緒に依存していた。
「そっか、私でも少しはおにいちゃんの役に立ててるんだね」
莉緒は小さく頷いた。
その少し誇らしげな顔に、澪を重ねてしまう自分が情けなくなる。
莉緒は冷えたタオルを俺に渡し、自分は床に座り直した。
けれど、さっきより少し近い位置だった。
壁際ではなく、俺の斜め前。
棒を手元に置いたまま、いつでも立てるように膝を立てている。
外の声が、一度近づいた。
俺たちは同時に口を閉じた。
シャッターの向こうを、誰かがゆっくり歩いていく。
足音は1つではない。
二人、あるいは三人。
名前を呼ぶ声が低く重なり、途中で案内端末の音声が混じった。
《未救済者は、安全な場所で待機してください》
《救済誘導班が順次確認を行います》
《恐怖や混乱がある場合は、抵抗せず、落ち着いて案内を受けてください》
ゾンビたちが拡声器か何かを使って、案内しながら歩いているのだろう。
莉緒が棒を握り直した。
俺も鉄パイプを手に取る。
倉庫の電気は消してある。
外から見れば、中に人がいるとは分かりにくいはずだった。
それでも、心臓の音だけがやけに大きい。
莉緒は息を止めるように口元を結び、俺の方を見ないまま小さく頷いた。
下がらないという合図だった。
足音は倉庫の前で少し止まった。
誰かがシャッターに手をかける音がする。
古い金属が軽く鳴った。
莉緒の肩が震える。
それでも、俺の後ろには下がらなかった。
俺は片手で莉緒を制しかけて、途中で止めた。
ここで下げれば、さっきまで莉緒が必死に立とうとしていたものを、俺が踏みにじる気がした。
「り……お」
莉緒の体が固まった。
俺も、握っていた鉄パイプに力を入れ直した。
*
あとがき
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