第12話 守られるだけでは
倉庫の奥は、昼間でも薄暗かった。
壁際の段ボールは湿気で歪み、天井の蛍光灯は時々思い出したように瞬いている。
外からは遠くで流れるスピーカーの声と、配送ロボットが道路を進む低い駆動音が聞こえてきた。
街はまだ完全には止まっていないのに、その音だけが、私たちを置き去りにして動いているみたいだった。
おにいちゃんは、壊れた棚にもたれて座っていた。
蹴られたお腹を押さえ、左腕には細い切り傷がいくつも残っている。
血はもう止まっていたけれど、乾いた赤が袖に張りついていて、私が見るたびにおにいちゃんは平気そうな顔を作った。
「大丈夫だって。このくらい、大したことないよ」
「大丈夫とかって問題じゃないから、手を出して」
私がそう言うと、おにいちゃんは少しだけ困った顔をした。
その顔が、余計に腹立たしかった。
大丈夫じゃないのに大丈夫だと言う時の顔を、私はもう何度も見ている。
お姉ちゃんの前でも、お母さんの前でも、昔からおにいちゃんはそういう顔をした。
私は倉庫で見つけた救急セットを開け、消毒液とガーゼを取り出した。
気休めかもしれない。
でも、何もしないで座っているよりはましだった。
おにいちゃんの腕を取ると、皮膚が少し冷えていて、指先に触れた瞬間だけ胸の奥が変に詰まった。
「痛かったら言ってね」
「痛くない」
「嘘つかないで」
「少しだけ痛い」
「最初からそう言えばいいじゃん」
言い返す声が思ったより強くなって、自分でも少し驚いた。
おにいちゃんは黙って、私がガーゼを当てる手元を見ていた。
その視線が優しいことも、困っていることも分かる。
でも、その優しさに甘えてしまうと、私はまた立ち止まってしまいそうだった。
倉庫の入口には、古い台車と空のコンテナを重ねてある。
本気で押し入られたら何の役にも立たない。
それでも、何もないよりは少しだけ安心できた。
私は包帯を巻きながら、さっきスーパーで見た男たちの顔を思い出した。
化け物だけが怖いわけではない。
人間だって怖い。
言葉が通じるぶん、人間の方が怖いのかもしれない。
「きつくない?」
「大丈夫」
「また大丈夫って言った」
「ちょうどいいよ」
おにいちゃんが少しだけ笑ったので、私はそれ以上責めなかった。
包帯の端を留めてから、お腹の方を見る。
服の上からでも、蹴られた場所に手を置く動きが不自然なのは分かった。
見せてと言うべきか迷っていると、おにいちゃんは私の視線に気づき、わざとらしく背筋を伸ばした。
「そこは本当に大丈夫。打っただけだ」
「打っただけで、そんな顔になる?」
「顔に出てたか」
「出てる。お姉ちゃんなら怒ってる」
口にしてから、手が止まった。
お姉ちゃん。
その名前を出すだけで、倉庫の空気が少し重くなる。
「そこじゃないって言ってた」
お姉ちゃんが何を見たのか、少しだけ分かってしまう気がした。
分かりたくなかった。
分かってしまったら、私はもう何も言えなくなる気がした。
だから私は、消毒液のフタを閉めるふりをして視線を落とした。
「澪も混乱してるんだと思う」
おにいちゃんはゆっくり言った。
私をなだめようとしているのではなく、自分でも確かめながら言っているような声だった。
「莉緒を守りたい気持ちもあるし、救済しないといけないって気持ちもある。
俺のことを思う気持ちもある。
全部が一緒になって、うまく分けられなくなってるんだと思う」
「じゃあ、私が悪いわけじゃない?」
「悪いわけないだろ」
すぐに返ってきた声に、胸が痛くなった。
そう言って欲しかったはずなのに、言われると余計に苦しくなる。
お姉ちゃんに嫌われたくない。
でも、おにいちゃんから離れたくない。
その二つを並べること自体が、もうお姉ちゃんに酷いことをしているように思えた。
「私、お姉ちゃんからおにいちゃんを奪おうとしてるわけじゃない」
「分かってる」
「でも、お姉ちゃんには、そう見えたのかな」
「今の澪には、そう見えたのかもしれないな」
おにいちゃんは否定しなかった。
その正直さが、少しだけ痛かった。
違うよと強く言ってほしい気持ちもあった。
でも、言われたところで、窓の向こうで私を見たお姉ちゃんの顔は消えない。
困って、傷ついて、怒って、それでも私を妹として見ていた顔。
あの顔を思い出すと、私は自分の立っている場所が分からなくなる。
私は救急セットを閉じ、床に置いた。
その横には、逃げる途中で拾った少し太い木の棒がある。
武器と呼ぶには頼りない。
でも、振り回せば十分に人を傷つけられる。
「教えて」
私が言うと、おにいちゃんは一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。
「何を?」
「身の守り方。何もしないで後ろにいるだけはもう嫌なの」
おにいちゃんはすぐに眉を寄せた。
必要ない。
危ない。
後ろにいればいい。
そう言おうとしている顔だった。
でも、今度は私も引くつもりはなかった。
「莉緒、それは……」
「分かってる。急に強くなれるなんて思ってない。お姉ちゃんを倒したいわけでもない。でも、このままだと、おにいちゃんが毎回前に出るでしょ?」
おにいちゃんの顔が固まった。
私は棒を握り直し、そこで言葉を止めないようにした。
「私のためにおにいちゃんが傷つくのはもう嫌なの。
おにいちゃんだけがお姉ちゃんを傷つけるのも嫌。
だから、私にも教えて」
倉庫の外で、金属が揺れる音がした。
おにいちゃんは反射的に入口を見て、すぐに私へ視線を戻した。
その横顔に疲れが滲んでいる。
それでも、私に見せないようにしている。
その仕草まで、もう嫌だった。
「お姉ちゃんを傷つけたのは、私だよ」
「莉緒だけじゃない。俺もやった」
「だから嫌なの。おにいちゃんだけがどんどん傷ついていくのを横で見てるだけはもう嫌」
声が震えた。
泣きそうになるのを抑えるために、私は棒を握る手に力を入れた。
強くなりたいわけではない。
格好よく戦いたいわけでもない。
ただ、守られるだけだと、代わりにおにいちゃんがお姉ちゃんを壊してしまう。
それを見ているだけの自分が、もう嫌だった。
おにいちゃんは長く黙っていた。
外の音に耳を澄ませ、入口の障害物を見て、それから私の手元を見た。
私が持っている棒は少し震えていた。
怖いのが丸分かりだったと思う。
それでも、私は手を離さなかった。
「俺だって、何かを教えられるほど分かってるわけじゃないんだよ」
「それでもいい」
「殴り合いなんて、まともにやったことないし、棒の振り方だって知らない。俺がやってるのは、ただがむしゃらに振ってるだけなんだ」
「それでも、私よりは分かるでしょ」
おにいちゃんは息を吐いた。
諦めたというより、逃げ道を一つ失った人の息だった。
「仕方ないか……。でも、戦うためじゃなく逃げるためだからな。それだけは守ってくれ」
「うん」
おにいちゃんは床に落ちていた別の棒を拾い、私から少し離れて立った。
立ち上がる時、少しだけお腹を押さえる。
さっき大丈夫だと言ったのが嘘だったことを、また見せられた気がした。
「とは言っても、俺も本当に分からないんだよ。情が湧くから顔は見ない。あとは、やると決めたら躊躇しない。それくらいかな」
その言葉に、私はお姉ちゃんの顔を思い出した。
雨の中で濡れていた顔。
図書館の窓越しに、私の膝を心配してくれた顔。
あれを見ないでいられるのか。
考えた瞬間、手の震えが強くなった。
「顔を見ないで、どうするの」
「体とか伸ばしてくる手だけを見てる。届くと思ったら思いっきり振りきる」
「振り切るって?」
おにいちゃんは少し考え、棒を体の前に置いた。
構えというほど綺麗なものではない。
ただ、すぐに押し返せるようにしているだけだった。
「多分、ボールとかを投げるのと一緒なんだけど」
運動はあまり得意じゃない。ボールだって体育の授業でしか投げたことなんてない気がする。
「最初から最後まで力を入れてたら、たぶん体が固まってうまく振れないから、軽く持ったまま振って、当たる時だけぎゅっと握る。あとは、手だけで振らない。足を一歩出して、お腹と背中に少しだけ力を入れる。俺に分かるのは、それくらいかな」
おにいちゃんは軽く棒を振った。
ぶんっ、と空気が鳴る。
「頭を狙った方がいいのかな?」
聞いた瞬間、おにいちゃんの目が少しだけ暗くなった。
私も、自分で聞いておきながら喉が苦しくなった。
街の人たちは、頭を潰せと言う。
でも私たちは、止まらないことがあるのを知っている。
壊れたまま動き続けることがあるのを知っている。
「莉緒の身長じゃ届かないだろ。無理に狙うよりは、体を押し返す方がいいと思う。本当にそれしかない時だけだ。できれば、そうなる前に逃げてくれ」
私は頷いた。頷くことはできた。
おにいちゃんは奥の仮眠室から布団を持ってくると、丸めて壁に立てかけた。
私は言われた通り、棒を軽く握って振り下ろした。
けれど、手には何の感触もなかった。
「力抜きすぎだったな」
床に落ちた棒を見て、おにいちゃんがお腹を抱えて笑った。
普段なら怒るところだけど、久しぶりに見る笑い顔に、少しだけ胸が温かくなる。
「力みすぎるよりはずっといいよ。次は落とさないくらいに力を抜いて」
「えい!」
ポスンと、間抜けな音がして棒の先が布団に埋まった。
これでいいのか、自分ではよく分からない。
「振り始めだけ少し力を入れて、当たる時にぎゅっと握る。そこを意識してもう一回やってみよう」
何度か繰り返すうちに、少しずつ手応えが変わってきた。
足を一歩出すと、音も少しだけ重くなる。
でも、タイミングがずれると体が流れて、むしろ危ない感じがした。
難しい。
上から、横から、斜めから。
同じように振っているつもりでも、毎回違う。
手のひらは赤くなり、指の付け根が痛くなった。
休憩しようと言われて、私は壁際に座った。
おにいちゃんは私の向かいに腰を下ろし、お腹に手を当てて目を閉じる。
痛いのだろう。
でも、また何も言わなかった。
私は責める代わりに、持っていた水を差し出した。
「はい、飲んで」
「莉緒も飲みな」
「怪我人から先に飲んで」
「命令が増えたな……」
おにいちゃんはそう言って、水を受け取った。
少しだけ口元が緩んでいる。
その顔を見ると、昔のことを思い出した。
お姉ちゃんの家に遊びに来ていたおにいちゃんが、私の宿題を横から見て、ここ違うと教えてくれたこと。
私が分かってると怒ると、分かってるならいいけどと笑ったこと。
その笑い方が、嫌いじゃなかったこと。
私はずっと、本当のおにいちゃんみたいなものだと思っていた。
お姉ちゃんの恋人で、家族みたいに近くて、困った時に助けてくれる人。
そういう名前をつけておけば、何も考えなくてよかった。
でも、図書館でお姉ちゃんに「そこじゃない」と言われた時、心臓を掴まれたみたいに痛かった。
あれは、妹としている場所を間違えたから痛かったのか。
それとも、自分でも見ないふりをしていた気持ちを見られたから痛かったのか、まだ分からない。
「莉緒?」
呼ばれて、私は顔を上げた。
おにいちゃんが心配そうにこちらを見ている。
その顔を見ていると、言いかけたものが喉の奥まで上がってきて、私は慌てて水のボトルに視線を落とした。
「なんでもない」
「本当に?」
「うん、ちょっと疲れただけ」
嘘だった。
でも、おにいちゃんもいつも嘘をつく。
大丈夫じゃないのに大丈夫と言う。
だから、これくらいは許してほしかった。
*
あとがき
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