第10話 空っぽの席
部屋のカーテンを開けると、窓の外にはいつもの住宅街が広がっていた。
朝の光は柔らかく、向かいの家の屋根も、道路沿いの植え込みも、私が知っている景色とほとんど変わらない。
けれど耳を澄ませても、車の音はほとんど聞こえなかった。代わりに、鳥の声と、どこか遠くで水を流す音だけが静かに続いている。
《おはようございます、澪さん》
部屋に満ちる声は、今日も穏やかだった。
最初はどこから聞こえるのか気になっていたはずなのに、今ではもう壁や天井と同じように、そこにあるものとして受け入れていた。
端末を探さなくても答えてくれる声は少しだけ不思議で、でも怖くはなかった。
「おはよう。昨日、私ちゃんと二人のこと説得できた?」
《ごめんなさい。あちらのことは伝えることができません》
「ああ、そっか。負担がかかるって言ってたっけ」
《はい。大切な気持ちは消えていません。二人を大切に思っていることも、ちゃんと残っています》
私は寝ぐせのついた髪を指で直しながら、机の上の写真立てを見た。悠真と莉緒と私が、少し狭そうにひとつの画面に収まっている。
明日こそ。
私はそう決意して、写真立ての中の二人を指先でなぞった。
「莉緒、怒るだろうな」
《怒っても、大丈夫です。知らない場所で目を覚ましたら、誰だって驚きます》
「うん。ここどこ?お姉ちゃん何これ?説明してって、絶対言う。それで、怒りながら部屋の中を見て、お母さんはどこ、おにいちゃんはどこって聞くと思う」
《澪さんの声で答えてあげてください。きっと、その方が安心できます》
「そうだね。莉緒は怒ってる時ほど、ちゃんと聞いてるから」
そう言ってから、私は少し笑った。莉緒は怖い時ほど強がる。泣きそうな顔をしているのに、怒っているふりをする。小さい頃からそうだったし、高校生になった今でも、たぶんそこはあまり変わっていない。
悠真はどうだろう。最初はたぶん、黙って部屋を確認する。窓の外を見て、端末を見て、それから私に連絡するかどうか迷う。
私が大丈夫だよと言ってもすぐには信じなくて。
そういうところまで、すぐに思い浮かんだ。
朝食の準備をするために、一階へ降りた。
台所にはもうお母さんがいて、鍋の中を見ながら味噌汁をかき混ぜていた。
この家は、細かいところまで私の家に似ていた。食器棚の取っ手の傷も、冷蔵庫に貼られた古いマグネットも、母が使う菜箸の片方だけ色が少し薄くなっているところまで同じだった。
似すぎていると思うこともある。でも、それを怖がるより先に、懐かしさの方が来てしまう。
「おはよう、澪。よく眠れた?」
「うん。すごく眠れた」
「そう。じゃあ、卵お願い」
母はそう言って、私の前に卵を置いた。
ここへ来てから、母は前より少しだけ穏やかになった気がする。父もそうだ。疲れた顔をしなくなって、仕事の愚痴も減って、夕飯の時に端末を見続けることもなくなった。
「莉緒が来たら、またうるさくなるね」
私が卵を割りながら言うと、母は小さく笑った。
「あの子、最初は絶対に怒るでしょうね」
「怒るよ。でも、すぐお母さんの顔を見て、ちょっと安心して、それからまた怒ると思う」
「忙しい子ね」
「でも、それが莉緒だから」
卵を溶きながら、私は莉緒の顔を思い浮かべた。
怒っているのに、目だけは泣きそうになっている顔。
強がっているのに、私の袖を掴んでくる手。
怖い時ほどちゃんと怒る。それで、怒ってもいい相手のそばから離れない。
「悠真くんも、来られるといいわね」
母の言葉に、私は少しだけ手を止めた。
「うん。悠真は、最初すごく疑うと思う。でも、ちゃんと話せば分かってくれるよ」
「そうね」
母はそれ以上言わなかった。
その距離感がありがたかった。悠真のために何かを用意しようとすると、すぐに特別な意味を持ってしまう。
でも、そうではなかった。私はただ、二人がいつ来てもいいようにしておきたいだけだった。
朝食の席は、父と母と私の三人分が並んでいた。私はそこに、莉緒が来た時に使う小皿をひとつ足した。
今日はもう来ないだろう、でもいつ来てもいいよう準備だけはしておきたかった。
「食べないのか?」
父に言われて、私は自分の箸を持ち直した。
「食べるよ。ちょっと、莉緒が来たらどこに座るかなって考えてただけ」
「いつも通りお前の隣に座るだろ」
父が言うと、母が笑った。私も笑った。その笑い声の中で、まだ使われていない小皿だけが静かだった。
でも、その静けさは寂しさというより、誰かを待っている場所の静けさだった。
まだ座っていないだけ。
まだ来ていないだけ。
そう思うことにした。
*
朝食のあと、私は学校へ向かった。
いつもは悠真と歩いていた道を一人で歩いていると、少しだけ泣きそうになる。
いつも通りの風景なのに、悠真がいないだけでこんなに色あせて見えるなんて信じられなかった。
学校に近づくと少しずつ人が増えていく。
それでも記憶にあるよりずっと少なかった。
教室に着くと、昨日より席が埋まっていた。
それでも、空いている席はまだ多い。
来ている子の声が増えた分だけ、来ていない子の机も目立って見えた。
悠真の席を見る。
窓際の一番前の席、あたたかすぎると言ってよく居眠りをしては怒られていた。
その席には今は誰もいない。
なんとなく、その席に座って授業を受けることにしてみた。
先生は一瞬だけなにか言いたそうな顔をしたけど、言うのをやめて授業を始めた。
今頃、向こうでは悠真がここに座って授業を受けているのだろう。
クラスにはこんなに空席もなくて、もしかしたらホームルームで、救済を受け入れてもらう方法を話し合っているのかもしれない。
みんなに言われたら、きっと悠真も分かってくれるんじゃないかな。
そんなことを考えながら、気づくと眠りに落ちていた。
*
家に帰ると、出迎えてくれたのはAIだけだった。
《おかえりなさい、学校はどうでしたか?》
「今日は半分くらい揃ってたかな。まだまだ先は長そうだね」
《時間はたくさんあります。焦らずじっくり待ちましょう》
「そうだね、でもやっぱり二人には早く来て欲しいかな」
《焦りすぎるのはよくないですよ。落ち着いて相手のことを思う気持ちが大切です》
落ち着いてと言われても、やっぱり悠真には早く来てほしい。
もちろん、莉緒にも。
「それでも、やっぱり寂しいから……、向こうの私は今頃、悠真と一緒なのかなぁ。うらやましいなぁ」
《頑張って説得してるかもしれないですね》
「……そうだね」
向こうの私は説得を聞かない二人にイライラしてるかもしれない。いや多分してる。
それでも、イライラしたとしても、ただ待つだけよりは二人に会えることが羨ましい。
《夜になれば、記憶は残らないですが、二人に会えますよ》
「残らなきゃ意味ないじゃない!」
思わず叫んでしまった。
でも、何も残らないのに会えてなんの意味があるんだろう。
どうしても、そんな考えが過ぎってしまう。
《落ち着きましょう》
AIがそう言うと、天井が淡く光った。
柔らかい光が部屋に広がる。
それを見ていると、胸の奥で膨らんでいた怒りが、少しずつ形をなくしていった。
「でも、覚えてないのは悲しいよ……」
《それも二人がこちらに来るまでですよ。そうしたら今の寂しさもきっと和らぎます》
「うん。頑張らないとね!」
私はそう言って、もう一度写真立てを見た。
莉緒は私と悠真の間に入り込んで、得意げに笑っている。
大丈夫。
今夜こそ、二人は分かってくれる。
分かってくれないなら、分かってくれるまで、何度でも話せばいい。
*
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。
読後に何か残るものがありましたら、リアクションやコメントで反応をいただけると励みになります。




