第八話 エリヌという人
柔らかな声音だった。
まるで昔から知っている相手へ話しかけるみたいな、妙に自然な口調。
けれど、その瞬間に感じた違和感を、私はうまく言葉にできなかった。
――お話は色々聞いていますよ。
普通の挨拶のはずなのに、何故だろう。
まるでずっと前からこちらを知っていたみたいに聞こえた。
「……はじめまして」
少し遅れてそう返すと、エリヌは満足そうに微笑む。
その仕草一つ一つが妙に洗練されていた。気品がある、と言えば近いのかもしれない。けれど貴族特有の鼻につく感じとは違う。
もっと自然だった。
呼吸するみたいに、人を安心させる空気を纏っている。
だからこそ逆に怖い。
私は無意識に、握っていた黒い羽根へ力を込めていた。
するとエリヌの視線が、ほんの一瞬だけそこへ落ちる。
本当に、一瞬だった。
けれどその翠の瞳が微かに細められたのを、私は見逃さなかった。
「……その羽根」
静かな声。
私は反射的に肩を強張らせる。
だがエリヌはそれ以上すぐには踏み込まず、代わりに小さく首を傾げた。
「綺麗ですね」
「……え?」
「黒曜石みたい。光の当たり方で少し青く見えるのですね」
予想外の言葉だった。
もっとこう、“それをどこで拾ったのか”とか、“触るな”とか、そういう話になると思っていた。
けれどエリヌは、本当にただ感想を口にしただけみたいな顔をしている。
私は戸惑ったまま羽根を見下ろした。
確かに朝日を受けた羽根は、角度によって僅かに青黒く光って見えた。
「……お前な」
そこでカロナ先生が低く口を開く。
「来て早々、妙な探りを入れるな」
「あら」
エリヌは小さく笑った。
「先生、昔より過保護になりました?」
「昔からだ」
「そうでしたね」
軽いやり取りだった。
だが、その空気には妙な慣れがあった。
私は二人を交互に見る。
確かに師弟なのだろう。
会話の端々から、それが伝わってくる。
けれど同時に、単なる仲の良い師弟とも違った。
長い時間を経た者同士特有の、簡単には言葉にできない距離感がある。
信頼もある。
警戒もある。
たぶん、その両方だ。
エリヌは部屋の中央まで歩いてくると、そこでふと足を止めた。
「昨日は大変でしたね」
その言葉に、胸の奥が僅かに強張る。
「訓練棟の件、私も聞いています」
「……」
「怖かったでしょう」
あまりにも自然にそう言われて、逆に返事ができなかった。
怖かった。
もちろんそうだ。
自分の力が制御できなかったことも。
周囲の視線も。
カルラを傷つけたことも。
全部、怖かった。
けれど。
何故だろう。
エリヌにそう言われると、まるで全部見透かされているみたいで落ち着かなかった。
「……それを言いに来たのか?」
カロナ先生の声が少し硬くなる。
エリヌは振り返り、小さく肩を竦めた。
「まさか。私、そこまで暇じゃありませんよ」
「信用ならんな」
「酷いですねぇ」
口調は軽い。
けれど、その翠の瞳だけは少しも隙を見せていなかった。
エリヌは再び私へ向き直る。
「単刀直入に言いますね、ウィディナさん」
その瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。
さっきまでの柔らかい空気が、静かに研ぎ澄まされる。
私は無意識に息を呑む。
「貴女、今の自分の魔力に違和感がありますね?」
「――っ」
心臓が強く脈打った。
私は思わずエリヌを見る。
彼女は穏やかな笑みを浮かべたままだった。
「昨日より静かでしょう?」
「……なんで」
掠れた声が落ちる。
それは誰にも言っていない。
カルラにも。
先生にも。
けれど確かに、今の私の魔力は異様なくらい安定していた。
昨日の暴走が嘘みたいに。
エリヌはそんな私を見つめながら、静かに言った。
「魔力というのは、時々“馴染む”んです」
「馴染む……?」
「はい。急激な変化のあと、逆に落ち着くことがある。特に、大きな器を持つ人ほど」
その言葉に、カロナ先生の眉が僅かに寄る。
「……お前、何を知っている」
「先生は疑い深いですね」
「お前相手なら当然だ」
エリヌは小さく笑う。
けれど否定はしなかった。
その反応を見た瞬間、胸の奥がざわつく。
この人は知っている。
昨日、私に何が起きたのか。
あるいは、これから何が起きるのか。
全部ではないにせよ、少なくとも私たちより遥かに多くを。
そんな確信めいた感覚があった。
エリヌはゆっくりと窓際へ歩き、朝の景色を眺める。
陽光が黒髪へ落ち、その輪郭を淡く縁取っていた。
「学園は今、とても慌ただしいのですよ」
穏やかな声だった。
「軍部は貴女を危険視している。教師陣は判断を迷っている。生徒たちは怯えながらも噂を広げ続けている」
まるで、その場を見てきたみたいな口調だった。
「でも面白いですね」
エリヌが小さく笑う。
「そんな状況でも、貴女は序列戦へ出たいと思っている」
私は目を見開いた。
「……なんで、それも」
「顔を見れば分かります」
さらりと言われる。
けれどその声音には、冗談とも本気ともつかない妙な響きがあった。
エリヌはそこでこちらを振り返る。
「ウィディナさん」
翠の瞳が真っ直ぐこちらを見る。
「強くなりたいですか?」
その問いは、不思議なくらい静かに胸へ落ちた。
強くなりたい。
そんなの、ずっと前から決まっている。
カルラに勝ちたい。
誰かに憧れられる存在になりたい。
自分の力で前へ進みたい。
それは昔から変わらない。
けれど今、その言葉は別の意味も帯び始めていた。
昨日、自分の中で目を覚ました“何か”。
あれを理解しなければ、私はきっとまた誰かを傷つける。
だから、
「……なりたいです」
気づけば、そう答えていた。
エリヌはそれを聞くと、ほんの少しだけ目を細めた。
その笑みは優しかった。
けれど同時に、どこか安堵したようにも見えた。
まるで。
――ようやくここまで来た、とでも思っているみたいに。




