第九話 対話
部屋の中へ、短い沈黙が落ちた。
窓の外では、朝の風が梢を揺らしている。遠くから聞こえる訓練場の喧騒は変わらず賑やかなのに、この部屋だけ時間の流れが少し違うみたいだった。
エリヌはそんな静寂の中で、私の返答を聞いたあともしばらく何も言わなかった。
ただ静かにこちらを見ている。
その翠の瞳には、探るような色も、試すような色も浮かんでいない。
なのに落ち着かなかった。
見透かされている。
そんな感覚だけが、じわじわと胸の奥へ沈んでいく。
「……そうですか」
やがてエリヌは小さく微笑んだ。
「なら安心しました」
「安心……?」
「ええ」
彼女は穏やかな口調のまま続ける。
「力というものは、持っただけでは意味がありませんから。恐れて閉じ込める人もいれば、振り回されて壊れる人もいる。けれど、自分から前へ進こうとする人は案外少ないのです」
静かな声だった。
説教じみてもいない。
ただ事実を話しているだけみたいな声音。
なのに、その言葉は妙に胸へ残った。
私は無意識に視線を落とす。
右手。
昨日、暴走した魔力を放った手。
今は静かだ。
信じられないくらいに。
けれど、だからこそ怖かった。
本当に落ち着いたのか、それともただ眠っているだけなのか、自分でも分からない。
「……お前」
低い声が割り込む。
「それ以上はやめておけ」
部屋の空気が僅かに張る。
エリヌは振り返り、少しだけ困ったように笑った。
「先生、警戒しすぎですよ」
「お前相手なら足りんくらいだ」
「酷い言われようですねぇ」
軽いやり取り。
けれど先生の目は笑っていなかった。
エリヌも、それを理解しているのだろう。
彼女は小さく肩を竦めると、それ以上踏み込むのをやめた。
代わりに、ふと窓の外へ視線を向ける。
「……今日、訓練場を使う予定はありますか?」
「序列戦の調整中だ。未定だな」
「そうですか」
エリヌは静かに頷いたあと、再びこちらを見る。
「なら、少しだけ安心ですね」
「……何がですか」
思わず聞き返すと、エリヌはくすりと笑う。
「今の貴女を、大勢の前へ立たせるのは少し早い気がしましたから」
その瞬間、胸の奥が僅かにざわついた。
今の私。
その言い方が妙に引っかかる。
まるで、これから何か変わっていく前提みたいだった。
私は思わず眉を寄せる。
だがエリヌはそれ以上説明する気はないらしく、自然な動作で部屋の中を見回した。
その視線が、机の上で開いたままになっていた教本へ止まる。
「風属性なのですね」
「……はい」
「珍しい」
ぽつりと落ちた言葉に、私は少しだけ目を瞬かせた。
確かに風属性は数が少ない。
火、水、土に並んで基本四属性であるのに、その数は他三つに比べかなり希少だ。
だからこそ軍部からの期待値も高いし、序列戦でも自然と注目される。
エリヌは教本を眺めながら、どこか懐かしそうに目を細めた。
「風は難しい属性です」
「難しい?」
「形がないでしょう?」
私は少し考える。
「……まあ」
「火なら燃える。氷なら凍る。雷なら撃ち落とす。けれど風は違う。掴めないし、留まらない。だから制御する人間の性質が、他属性より強く出やすいのです」
その言葉に、私は昨日の感覚を思い出す。
暴走した風。
刃みたいに吹き荒れた魔力。
自分の感情と連動するみたいに膨れ上がった力。
「特に強い風ほど、意志へ引っ張られる」
エリヌの声が静かに響く。
「だから風使いは、自分自身を理解していないと壊れやすい」
私は言葉を失った。
それはまるで。
昨日の私そのものを説明されているみたいだったからだ。
先生が僅かに眉を寄せる。
「……お前、最初からそれを言いに来たのか?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
するとエリヌは、少しだけ楽しそうに笑った。
「勧誘です」
空気が止まる。
私は目を見開き、カロナ先生は露骨に嫌そうな顔をした。
「やはりそれか」
「だって優秀な人材は欲しいじゃないですか」
「学生だぞ」
「でも才能があります」
エリヌはさらりと言った。
「それも、とても」
その言葉に、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
才能。
昔から言われ続けてきた言葉だった。
先生にも。
周囲にも。
けれど昨日の出来事を経たあとでは、その言葉が急に別の意味を持ち始めている気がした。
才能。
あるいは危険性。
その境界が、急速に曖昧になっていく。
エリヌはそんな私を見つめながら、穏やかに続けた。
「もちろん今すぐ答えを出せ、なんて言いませんよ」
その声は本当に優しかった。
「ただ、覚えておいてください」
翠の瞳が静かに細められる。
「もし貴女が、自分の力を知りたいと思った時」
そして、
「もし、今いる場所では辿り着けないと感じた時は――私はいつでも歓迎します」
その瞬間。胸の奥で、何かが脈打った。
昨日の暴走とは違う。
もっと静かな感覚。
けれど確かに、自分の中の“何か”が、その言葉へ反応したのを感じた。
私は思わず息を呑む。
するとエリヌは、それを見ていたみたいに静かに微笑んだ。




