第六話 不可解
《悲翠》。
その二文字が耳へ届いた瞬間、胸の奥に沈殿していた不安とも緊張ともつかない感情が、静かな水面へ石を投げ込まれたみたいにゆっくり波立っていくのを感じた。
四天王。
魔王軍最高戦力。
魔族の中でも、文字通り“別格”として扱われる存在だ。
「……なんで、四天王が私なんかに」
自分でも驚くほど小さな声だった。
カロナ先生はすぐには答えなかった。
窓際へ歩き、外を眺める。その横顔には、教師としての厳しさとは別の、どこか複雑な色が浮かんでいた。
「エリヌはな」
ぽつりと先生が口を開く。
「……昔、私の教え子だった」
「え?」
思わず聞き返していた。
先生は肩越しにこちらを見ると、小さく苦笑する。
「そんな顔をするな。私だって昔から教師だった訳じゃない」
「いや、でも……え?」
頭が追いつかない。
四天王が、先生の教え子?
確かにカロナ先生は強い。学園教師の中でもかなり上位の実力者だとは聞いているし、元軍人だという噂もある。
先生は私の反応を見て、少しだけ懐かしそうに目を細めた。
「昔から変わった奴だったよ。優秀で、飲み込みが異様に早くて……何より、人の懐へ入るのが上手かった」
そこで一度言葉を切る。
その間に落ちた沈黙が妙に長く感じられた。
「だが同時に、何を考えているのか分からん奴でもあった」
静かな声だった。
教師として生徒を語る声にも聞こえたし、昔を知る人間だからこそ出る警戒にも聞こえた。
「エリヌは昔から、“必要なこと”を優先する。感情よりも、周囲の空気よりも、自分の中の目的をな」
私は黙って話を聞いていた。
先生がここまで真面目な顔で誰かを語るのを、初めて見た気がした。
「だから気をつけろ」
「……何を、ですか」
「近づきすぎるな」
短い言葉だった。
けれどその声音には、妙な重さがあった。
私は無意識に黒い羽根を握りしめる。
先生の視線がそこへ落ちた。
一瞬だけ、本当にほんの一瞬だけ、先生の瞳が鋭く細められる。
「……その羽根、どこで拾った」
今度の声は、教師のものではなかった。
もっと低く、慎重な響きだった。
私は少し迷ったあと、小さく答える。
「旧校舎、です」
「旧校舎のどこだ」
「……中庭みたいな場所でした。白い樹があって……」
そこまで言った瞬間。
先生の表情が変わった。
はっきり分かるくらいに。
「白い、樹……?」
低く繰り返された声。
私はゆっくり頷く。
「すごく大きくて、光ってて……変な場所でした。誰もいないはずなのに、空気だけ妙に静かで」
説明しているうちに、あの空間の感覚がじわじわと思い出されてくる。
あれは、本当に学園の中だったんだろうか。
今思い返しても現実感が薄い。
先生はしばらく何も言わなかった。
ただ窓際へ立ったまま、考え込むみたいに視線を落としている。
やがて、
「……おかしいな」
ぽつりと呟く。
「そんなもの、旧校舎にはない」
部屋の空気が静かに冷えた気がした。
私は息を呑む。
先生はゆっくりこちらへ振り返ると、いつになく真剣な目で私を見据えた。
「ウィディナ。お前、昨日そこへ行く直前の記憶はどこまである」
その問いに、私は思わず言葉を失った。
……どこまで、だろう。
授業が終わって。
カルラと話して。
教室を出て。
その後。
「……っ」
頭の奥に鈍い痛みが走る。
思い出そうとした瞬間、まるでそこだけ霧がかかったみたいに記憶が曖昧になる。
何かが抜け落ちている。
そんな感覚だけが、不気味なほどはっきりしていた。
記憶の奥へ手を伸ばそうとした瞬間、頭の芯を針で掻き回されるみたいな痛みが走り、私は思わず眉を寄せながらこめかみを押さえた。
ぼやけている。
いや、違う。
削られている、そんな感覚だった。
普通に忘れた記憶とは明らかに違う。思い出そうとすると、そこだけ不自然に靄がかかる。輪郭だけは見えるのに、決定的な部分へ触れようとした瞬間、何かがそれを拒絶するみたいに意識を逸らしてくる。
気味が悪かった。
「……思い出せません」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くくらい弱々しかった。
カロナ先生はそれを聞くと、すぐには何も言わず、静かに目を伏せた。
部屋の中へ沈黙が落ちる。
窓の外では風が木々を揺らしていた。遠くから聞こえる訓練場の掛け声や、生徒たちの話し声だけが、やけに現実感を伴って耳へ届く。
なのにこの部屋だけ、別の空間へ切り離されたみたいだった。
「……先生」
「ん?」
「旧校舎のあそこ、何なんですか」
問いかけると、先生は少しだけ困ったように眉を寄せた。
普段のカロナ先生なら、多少誤魔化してでも笑い飛ばすところだろう。けれど今は違った。何をどこまで話すべきか、本気で迷っている顔だった。
やがて先生は、小さく息を吐く。
「私も詳しくは知らん」
「え」
「正確には、“知らされていない”と言った方が近いな」
先生はそう言いながら、窓際から離れて机の方へ歩み寄る。その途中、ちらりと黒い羽根へ視線を落としたあと、まるで触れてはいけないものを見るみたいに僅かに目を細めた。
「この学園は、元々かなり古い施設だ。今の校舎が建てられる前から存在していた区画も多い。旧校舎なんてまさにその典型だな」
先生は近くの椅子へ腰を下ろすと、腕を組みながら続けた。
「ただ、学園側にも“立入禁止区域”はいくつか存在する。理由は様々だ。危険な魔導具が封印されていたり、古い術式が残っていたり、あるいは単純に崩落の危険があったりな」
「じゃあ、あそこも?」
「……いや」
先生はそこで一度言葉を止める。
「少なくとも、私が知る限りでは違う」
静かな声だった。
「そもそも旧校舎については、教師でも詳しく知っている人間が少ない。学園長クラスなら別かもしれんがな。私も昔、“近づくな”とだけ言われた」
「理由は?」
「教えられていない」
その返答に、背筋へ冷たいものが走る。
先生ほどの人ですら知らない。
なのに私は、そこへ迷い込んだ。
いや、本当に“迷い込んだ”のだろうか。
胸の奥がざわつく。
あの時の感覚が蘇る。
何かに呼ばれているような感覚。
導かれるみたいに歩いていた感覚。
そしてあの白い樹。
私は無意識に羽根を強く握っていた。
すると先生がふとこちらを見た。
「……ウィディナ」
「はい」
「これから言うことをよく聞け」
その声音が、僅かに低くなる。
私は自然と背筋を伸ばした。
「お前はしばらく、一人で動くな」
「……」
「旧校舎にも近づくな。理由はどうあれ、今のお前は明らかに何かへ巻き込まれている」
何かへ巻き込まれている。
その言葉は、不思議なくらいすんなり胸へ落ちた。
昨日から起きていることは、どう考えても異常だ。
偶然で片づけられる範囲を超えている。
そして先生も、それを理解している。
「それと」
先生は少しだけ間を置いた。
「エリヌには気をつけろ」
再び、その名前。
私は小さく瞬きをする。
「……そんなに危ない人なんですか」
「危ない、という表現が正しいかは分からん」
先生は難しい顔をしたまま、静かに視線を落とした。
「エリヌは昔から見ているものが違った。周囲よりずっと先を見て動く奴だったよ。だから優秀だったし、四天王にもなったのだろう」
その口調には、どこか誇らしさすら混じっていた。
教え子だった。
その言葉がふと思い出される。
たぶん先生は、今でも完全には彼女を嫌っていない。
警戒はしている。
でも同時に、どこか信頼も残っている。
そんな複雑な感情が滲んでいた。
「だが、あいつは必要だと思えば平気で人を巻き込む」
先生の瞳が真っ直ぐこちらを見る。
「悪気なくな」
その一言だけで、何故か妙に背筋が寒くなった。
悪意があるなら、まだ分かりやすい。
だが、必要だからやる。
それはもっと厄介だ。
私は言葉を失ったまま黙り込む。
すると先生は、そんな空気を振り払うみたいにわざとらしく肩を竦めた。
「……まあ、今は考えても仕方ない。とりあえずお前は今日一日休め。序列戦についても学園側で再検討中だ」
「っ、待ってください」
反射的に声が出た。
先生が眉を上げる。
「私、出ます」
「ウィディナ」
「出たいです」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
昨日の暴走。
周囲の視線。
隔離の話。
全部怖い。
でも、ここで逃げたら、本当に全部終わる気がした。
カルラの隣にも立てなくなる。
みんなの視線からも逃げ続けることになる。
何より、自分自身が、自分を怪物だと思ってしまいそうだった。
先生はしばらく私を見ていた。
その視線は、教師として生徒を見極める目だった。
やがて、小さく息を吐く。
「……その頑固さは相変わらずだな」
呆れたような声だった。
けれど、その目は少しだけ柔らかかった。




