第五話 胸騒ぎ
目を覚ました時、最初に感じたのは柔らかな陽光だった。
閉じていた瞼をゆっくり持ち上げると、見慣れた天井がぼんやりと視界へ映り込む。木目の入った白い天板。壁際に置かれた本棚。半開きになった窓からは、朝の風が薄いカーテンを静かに揺らしていた。
寮の部屋だった。
「…………」
しばらく、私は何も考えられなかった。
頭の中が妙に静かだった。
昨日まで耳の奥へ張り付いていた不快なざわめきも、身体の奥で暴れていた熱も、今は嘘みたいに鳴りを潜めている。
代わりに残っていたのは、酷く現実感の薄い感覚だった。
まるで長い夢でも見ていたみたいな。
いや、夢であってほしかった。
けれど、身体を起こした瞬間、その幻想はあっさり砕け散った。
「……っ」
机の上に置かれていた黒い羽根が、朝日に照らされて静かに光っていたからだ。
息が止まる。
夢じゃ、なかった。
旧校舎も。
神霊樹も。
頭の奥へ響いた声も。
全部、本当に起きたことだった。
私は無意識に羽根へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
触れるのが怖かった。
それに触れた瞬間、また何かがおかしくなる気がした。
昨日の出来事を思い返す。
訓練棟。
暴走。
カルラ。
胸の奥が鈍く痛む。
けれど、不思議だった。
昨日までの私は、恐怖と混乱でまともに考えることすらできていなかったはずなのに、今は妙に頭が冴えている。
冷静、というのとも少し違う。
嵐が通り過ぎた後みたいな静けさだった。
その静けさが、逆に不気味だった。
私はベッドから降りると、ゆっくり窓際へ歩み寄った。
朝の世界は美しかった。
遠くに広がる森は朝霧に薄く煙り、その向こうでは山脈が青白く霞んでいる。鳥の鳴き声が聞こえ、寮の下では早朝訓練へ向かう生徒たちの話し声も微かに響いていた。
いつも通りの朝。
世界は何も変わっていない。
なのに、自分だけが取り残されたみたいな感覚があった。
私は窓枠へ軽く寄りかかりながら、そっと右手を見下ろした。
昨日、カルラを吹き飛ばした手。
けれど今、その手からは妙な安定感が伝わってくる。
魔力が静かだった。
今まで感じたことがないほどだ。
まるで暴走を経たことで、逆に何かが落ち着いたみたいに。
「……なんなのよ、本当に」
小さく呟く。
答える者はいない。
ただ、その時だった。
こんこん、と扉が叩かれた。
身体が強張る。
一瞬だけ、息を止める。
「……ウィディナ?」
聞こえてきた声に、私は目を見開いた。
聞き間違えるはずがない。
カルラの声だった。
反射的に扉の方を見る。
心臓が強く脈打った。
昨日、壁へ叩きつけられて、動かなくなっていたはずの。
そのカルラが、扉の向こうにいる。
「……入るわよ」
返事を待たず、扉がゆっくり開いた。
朝の光を背にして立っていたカルラは、いつも通りの制服姿だった。ただし額にはゆるく包帯が巻かれていて、その姿が昨日の出来事を否応なく現実として突きつけてくる。
私は思わず立ち尽くした。
何を言えばいいのか分からなかった。
謝るべきなのは分かっている。
けれど、どんな言葉も薄っぺらく思えた。
そんな私を見て、カルラはしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をついた。
「……とりあえず、生きてるわよ」
その声は、思ったよりいつも通りだった。
怒鳴るでもなく。
怯えるでもなく。
だからこそ、胸が痛かった。
カルラは扉を閉めると、そのまま部屋の中へ入ってきた。
朝の光が彼女の深紅の髪を透かしている。その色を見た瞬間、昨日の光景が脳裏を掠め、胸の奥が鈍く痛んだ。
私は思わず視線を逸らす。
「……ごめん」
気づけば、言葉が零れていた。
掠れた声だった。
もっとちゃんと謝らなきゃいけないはずなのに、喉がうまく動かない。
カルラは少しだけ眉を寄せ、それから部屋の中央まで歩いてくると、私の机へ視線を向けた。
一瞬。その目が、黒い羽根を捉える。
ほんの僅かに、空気が止まった気がした。
「……それ」
「っ」
反射的に羽根を掴む。
自分でも驚くくらい咄嗟だった。
カルラは何も言わない。
ただ、その赤い瞳が静かにこちらを見ている。
誤魔化せる雰囲気じゃなかった。
私は小さく息を吐き、ゆっくり握り直す。
「……昨日、拾った」
「どこで?」
「……旧校舎」
その瞬間、カルラの表情がわずかに動いた。
「旧校舎?」
「……なんか、気づいたら行ってて」
そこまで言って、私は口を閉ざした。
どこから話せばいいのか分からない。
神霊樹。
頭の中へ響いた声。
知らない景色。
自分で思い返していても、夢みたいな話だった。
カルラはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開く。
「……昨日のこと、覚えてる?」
その問いに、胸の奥がひやりと冷えた。
私はゆっくり頷く。
「……覚えてる」
「そう」
カルラはそれ以上続けなかった。
部屋の中へ微妙な沈黙が落ちる。
窓の外から鳥の鳴き声が聞こえた。
あまりにも穏やかな朝だった。
なのに部屋の空気だけが、妙に張り詰めている。
私は耐えきれず、再び口を開く。
「……怖く、ないの」
「何が?」
「私が」
言葉にした瞬間、自分でも少し驚いた。
けれど、それが今一番聞きたかったことだった。
昨日、私はカルラを傷つけた。
しかも、本人の意思ですら制御できない形で。
もし立場が逆なら、私だったらどう思うだろう。
怖がらない自信なんてなかった。
カルラはそんな私をじっと見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「怖かったわよ」
あっさりと返ってきた言葉に、胸が詰まる。
けれどカルラは続けた。
「でも、ウィディナが私をわざと傷つけたとは思ってない」
「……っ」
「ウィディナ、自分で止めようとしてたでしょ」
昨日と同じことを言われる。
先生にも言われた言葉だった。
私は視線を落とす。
「……でも、結果的には、やった」
「それはそうね」
容赦がなかった。
けれど、そのぶっきらぼうな言い方が逆にいつものカルラらしくて、少しだけ肩の力が抜ける。
カルラは窓際へ歩き、外を眺めながら続けた。
「学園、今かなり騒いでるわよ」
「……やっぱり」
「当たり前でしょ。生徒一人が訓練棟半壊させかけたんだから」
半壊。
改めて言葉にされると胃が痛い。
「軍部の人も来てる。朝から先生たちずっとバタバタしてた」
「軍部……」
「それと、四天王も」
その瞬間、私は顔を上げた。
「……え?」
カルラは窓の外を見たまま、小さく肩を竦める。
「噂だけどね。視察名目だとか何とか」
四天王。
魔王軍最高戦力。
普通に生きていれば、直接関わることなんてまずない存在。
胸の奥がざわついた。
訓練棟で見た黒髪の女が脳裏を掠める。
あれは、本当に何だったんだろう。
考え込む私を見て、カルラがふとこちらへ振り返った。
「……ねえ、ウィディナ」
「なに」
「昨日、何があったの」
その問いに、私はすぐ答えられなかった。
言葉にしてしまった瞬間、本当に現実になってしまう気がしたからだ。
けれど、カルラの目は私を捉えて逸らさない。
昔からそうだった。
カルラは、こういう時だけ変に真っ直ぐだ。
私はしばらく黙り込んだあと、しかし全てを話せるわけもなく、小さく息を吐いた。
「私にもわからない。全部現実じゃない、夢みたいで……」
そう、と一言。カルラの視線が、私の手の中の黒い羽根へ落ちる。
「でも、少なくともそれは夢じゃなさそうね」
朝日を受けた黒い羽根は、静かに光を返していた。
カルラは窓際から離れると、今度は私のベッドへ腰を下ろした。相変わらず遠慮がない。昔からそうだ。人の部屋へ入る時も勝手なら、座る場所を選ぶ時も当然みたいな顔をする。
けれど今は、そのいつも通りの態度が少しだけありがたかった。
もし変に気を遣われていたら、たぶん私はもっと苦しくなっていた。
「……先生たちは?」
私が尋ねると、カルラは軽く肩を竦めた。
「あとで呼ばれると思う。今は軍部と教師陣で話してる最中じゃない?」
「うわぁ……絶対面倒なやつじゃん」
「面倒じゃないと思う?」
「思わない」
即答だった。
昨日のあれは、どう考えてもただの魔力暴走では済まされない。
自分でも分かっている。
あの瞬間、私の中で何かがおかしかった。
単純な制御ミスとも違う。
感情に魔力が引っ張られた、という感覚とも違う。
もっと別の何か。
身体の奥に自分ではないものが眠っていて、それが一瞬だけ目を覚ましたような――そんな感覚だった。
思い出しただけで、背筋が寒くなる。
私は無意識に黒い羽根を握りしめていた。
カルラがその様子を見て、小さく目を細める。
「……その羽根、どうするの?」
「どうするって言われても」
「捨てるとか」
「……」
考えはした。
これを捨てれば全部終わるんじゃないかって。
昨日のことも。
あの樹も。
変な声も。
全部夢になるんじゃないかって。
でも。
私は羽根を見下ろす。
不思議だった。
怖いはずなのに、手放したいとは思えない。
むしろ逆だ。
これを失った瞬間、二度と何かへ辿り着けなくなるような感覚があった。
「……捨てない」
自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。
カルラは少しだけ黙ったあと、そ、とだけ返した。
そこへ再び扉が叩かれる。
今度はさっきより強い音だった。
「ウィディナ。起きているな」
カロナ先生の声。
私とカルラは顔を見合わせる。
来た。
「……はい」
返事をすると、扉が開く。
入ってきたカロナ先生は、昨日よりずっと疲れた顔をしていた。髪も少し乱れているし、たぶんまともに寝ていない。
けれど、その藍色の瞳だけは鋭かった。
先生は部屋へ入ると、まず私を見て、それからカルラを見る。
「カルラ、お前はもう医務室へ戻れ。無理をするなと言われていただろう」
「別に大した怪我じゃありません」
「頭から壁へ突っ込んでおいてよく言う」
「治癒術式、常時かかっていますよ」
「そういう問題じゃない」
ぴしゃりと言われ、カルラは不満そうに口を尖らせた。
けれど反論はせず、ゆっくり立ち上がる。
そして部屋を出る直前、一瞬だけこちらを振り返った。
「……また後で来る」
「え?」
「序列戦、出てもらわないと困るから」
それだけ言って、カルラは出ていった。
扉が閉まる。
部屋の中へ沈黙が落ちた。
カロナ先生はしばらく無言だった。
いつもの軽い空気はない。
教師として、何かを見極めようとしている目だった。
私は思わず背筋を伸ばす。
やがて先生は小さく息を吐き、窓際へ視線を流した。
「……軍部は、お前をしばらく隔離すべきだと言っている」
「っ……」
「まあ当然だな。昨日の魔力は異常だ。訓練棟の防護術式を正面から歪ませた。学生の出力じゃない」
否定できなかった。
私は唇を噛む。
すると先生は続ける。
「だが、学園長は反対した」
「……え?」
「“まだ様子を見るべき”だそうだ。お前自身に明確な害意があった訳じゃないからな」
そこで一度、先生は言葉を切った。
そして。
「――加えて、ある人物からも口添えが入った」
空気が変わる。
先生の声色が僅かに低くなる。
私はゆっくり顔を上げた。
「……誰、ですか」
先生は数秒だけ沈黙したあと、静かに言った。
「四天王、《悲翠》のエリヌ・フォン・スルナだ」
その名前が部屋へ落ちた瞬間。
胸の奥が、妙にざわついた。




