第四話 神秘
指先が扉へ触れた瞬間、ひやりとした感触が掌を包み込んだ。
古びた木扉のはずなのに、不思議と冷たかった。まるで冬の水へ触れたみたいに、温度だけがすうっと皮膚の奥へ染み込んでくる。
その感覚に、なぜか胸がざわめく。
怖い。
やっぱり、引き返した方がいい。
今ならまだ戻れる。
何も見なかったことにして、寮へ帰って、眠って、明日になれば――
そこまで考えて、思考が止まった。
明日?
明日、私は今まで通りでいられるのだろうか。
訓練棟での出来事は、きっともう学園中へ広まっている。
ウィディナが暴走した。
その言葉だけで十分だった。
噂は尾ひれをつけて広がる。
元々、私は目立つ側の生徒だった。序列二位。カルラと毎年決勝を争う問題児。良くも悪くも名前は知られている。
だからこそ、広まるのも早い。
きっと今頃、誰かが言っている。
危険なんじゃないか。
あれは普通じゃなかった。
カルラを吹き飛ばしたらしい。
そんな声が、耳元で囁かれている気がした。
胸の奥が重い。
息苦しい。
知らず知らずのうちに、私は奥歯を噛み締めていた。
――怖い。
他人の視線が。
カルラに会うのが。
自分自身が。
その感情を認めた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
私は昔から、自分の力が好きだった。
魔法を使う瞬間が好きだった。
身体の内側を巡る魔力の感覚が好きだった。
カルラへ追いつきたかった。
追い越したかった。
四天王みたいに強くなりたかった。
そのためなら努力だって苦じゃなかった。
なのに。
なのに今は、その力が恐ろしい。
自分の中に、自分の知らない何かが潜んでいる気がして仕方がなかった。
「…………」
気づけば、扉を押していた。
重い感触。
けれど見た目ほど抵抗はない。
ゆっくりと、扉が開いていく。
その瞬間、光が溢れた。
「――っ」
思わず目を細める。
けれど次第に視界が慣れていくにつれ、私は言葉を失った。
そこは中庭だった。
旧校舎の最奥。
外からは決して見えない、閉ざされた空間。
天井はない。
頭上には夕暮れの空が広がっていた。
けれどそこだけ、世界から切り離されているみたいに静かだった。
風の音すら遠い。
空気が違う。
旧校舎の薄暗さとも、学園の喧騒とも違う、深い静寂が辺りを満たしている。
その中心に、それはあった。
「……なに、これ……」
呆然と声が漏れる。
巨大な樹だった。
白銀。
幹も、枝も、葉さえも淡く光を宿している。
あり得ないほど巨大なその樹は、まるで空そのものを支えているみたいだった。
枝葉の隙間から、粒子みたいな光が静かに零れ落ちている。
幻想的だった。
綺麗、なんて言葉じゃ足りない。
神聖で。
恐ろしくて。
なのに目を逸らせない。
胸の奥が熱い。
心臓とは別の何かが、この樹へ引っ張られている。
懐かしい。
ふいに、そんな感情が浮かんだ。
おかしい。
こんな場所、来たことがないはずなのに。
なのにどうしてか、ずっと昔から知っていた気がした。
幼い頃、夢の中で見たような。
あるいは生まれる前から記憶の底に刻まれていたような、そんな奇妙な感覚。
自然と足が前へ出る。
石畳を踏む音さえ、この空間では妙に小さく感じられた。
樹へ近づくにつれて、光が強くなる。
淡い白銀色。
けれど不思議と眩しくはない。
むしろその光へ包まれるほど胸のざわめきが静まっていく。
訓練棟からずっと続いていた不快感も、頭痛も、罪悪感に押し潰されそうだった胸の重さも、その光の中では少しだけ遠くなる気がした。
まるで慰められているかのように。
「……あなた、なの」
気づけば、呟いていた。
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からない。
ざあ、と枝葉が揺れた。
風は吹いていない。
なのに白銀の葉は波みたいに震え、淡い光が無数の粒となって宙へ溶けていく。
その光景を見た瞬間だった。
どくん、と。
胸の奥で、何かが脈打った。
「――っ」
息が詰まる。
身体の奥。
魔力のさらに深い場所で、何かが共鳴している。
ちりん。
不意に小さく鈴の音が響いた。
静かな音だった。
それだけなのに、空気が震えた気がした。
『――まだ、壊れないで』
声。
耳元じゃない。
頭の奥へ直接落ちてくるような、曖昧な響き。
私ははっと顔を上げる。
けれどそこには、かの大樹がそびえるだけだ。
白銀の葉が、静かに揺れていた。
風はない。
それなのに枝葉はまるで呼吸をしているみたいに、ゆっくり、ゆっくりと波打っている。
私はその光景をただ呆然と見上げていた。
言葉が出ない。
胸の奥が熱い。
心臓とは違う何かが、この樹へ引っ張られている感覚だけが、はっきりと存在していた。
どくん。
また、脈打つ。
その瞬間だった。
視界の奥で、白銀の光がふっと強くなる。
「――っ」
反射的に目を細めるが、不思議と眩しさはなかった。
むしろ逆だ。
光に包まれた瞬間、不思議なくらい身体の力が抜けていく。
訓練棟で暴走してからずっと張り詰めていたものが、ゆっくりほどけていく感覚。
頭痛も。
耳鳴りも。
胸を締め付けていた不安も。
全部、少しずつ遠ざかっていく。
「…………」
ふらり、と足が前へ出る。
石畳へ落ちた白銀の光が、波紋みたいに揺れた。
神霊樹。
そんな名前が、なぜか頭へ浮かんだ。
誰かに教わった訳じゃない。
なのに私は、この樹のことを知っていた。
知っている、気がした。
ずっと昔。
もっと昔。
私が私でない頃から。
そんな有り得ない感覚が、胸の奥へ静かに沈んでいく。
気づけば、私は樹の目の前まで来ていた。
巨大な幹へそっと手を伸ばす。
触れた瞬間、白銀の光が視界いっぱいに溢れた。
「――ぁ……っ」
息が漏れる。
頭の奥へ、何かが流れ込んできた。
景色。
知らないはずの景色だった。
荒れ果てた大地。
赤黒い空。
焼けた風。
その中心で、巨大な影が翼を広げている。
黒。
夜より深い黒。
その翼が広がるたび、大気そのものが震えていた。
なのに、不思議と怖くない。
むしろどこか懐かしさを感じるような感覚に襲われる。
「なん、で……」
声が震える。
景色が変わった。
今度は、白い光だった。
眩しいほどの白。
空を覆う巨大な輪。
降り注ぐ光。
泣き叫ぶ声。
耳鳴りみたいなノイズが頭を貫く。
痛い。
頭が割れそうだった。
理解できないものが無理やり流れ込んでくる。
知らない。
知らないはずなのに。
どうしてか、そのどれもが遠い記憶のように感じられた。
『――まだ、早い』
声。
まただ。
頭の奥へ直接響く、曖昧な声。
目の前にきて、それはだんだんと明確さを増した。
まるで誰かと誰かの声が重なったような、不思議な響きを持っている。
『今は、まだ』
「……誰、なの……」
問いかける。
返事はない。
代わりに、神霊樹の光がゆっくり脈打った。
それに合わせるみたいに、胸の奥の何かも震える。
どくん。
どくん。
身体の奥で、魔力が揺れていた。
けれど訓練棟の時みたいな暴走じゃない。
もっと静かな。
もっと深い感覚。
まるで、本来あるべき場所へ収まっていくみたいだった。
「……っ」
不意に、強い眠気が襲ってくる。
膝から力が抜けそうになる。
視界が滲む。
白銀の光がぼやけて、世界そのものが遠ざかっていく。
ひらり。
一枚の黒い羽根が、目の前へ落ちてきた。
私は震える指で、それを掴む。
この羽根を見るたびに私は恐怖を感じてきたはずだった。
なのに妙に柔らかく、温かい流れが体を包み込んでいく。
その感触を最後に、私の意識は、ゆっくり闇へ沈んでいった。




