第三話 導き
気がつけば、私は医務棟の廊下にいた。
白い。
壁も、床も、天井も。
窓から差し込む西日の色だけが、そこへわずかな温度を落としている。
訓練棟の喧騒はもう遠い。
けれど耳の奥には、まだあの瞬間の音が残っていた。
轟音。
悲鳴。
そして壁へ叩きつけられた、鈍い音。
「…………」
喉が乾いていた。
膝の上で組んだ両手は、まだ微かに震えている。
どれくらい、ここに座っているんだろう。
時間の感覚が曖昧だった。
カルラは治療室の奥へ運ばれた。
教師たちも慌ただしく出入りしている。
けれど、詳しい容態はまだ聞かされていない。
聞くのが怖かった。
もし。
もし、本当に。
そこまで考えて、思考を無理やり止める。
駄目だ。
考えるな。
けれど止めようとするほど、脳裏には何度もあの光景が蘇った。
吹き飛ぶ身体。
宙を舞う赤い髪。
見開かれた瞳。
胃の奥がひっくり返りそうになる。
「……っ」
俯いた瞬間、足音が近づいてきた。
硬い靴音。
思わず顔を上げる。
廊下の向こうから歩いてきたのは、カロナだった。
いつもの気怠げな空気は薄い。
けれど、完全に消えている訳でもない。
張り詰めた糸を無理やり普段通りに見せているような、そんな顔だった。
先生は私の前まで来ると、小さく息を吐き、壁へ背を預けた。
「……落ち着いたか」
「…………」
答えられなかった。
落ち着くも何も、頭の中はまだぐちゃぐちゃだった。
先生も無理に返事を求めなかった。
しばらく沈黙が落ちる。
医務棟特有の薬品の匂いが、やけに鼻についた。
「カルラは」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「……無事、ですか」
先生は少しだけ目を伏せる。
「無事だ。大した怪我はなかった」
どっと、肩の荷が下りたような気がした。肺の奥に詰まっていた息がようやく抜けた。
全身から力が抜けそうになる。
だが、
「まだ眠っている。今日は会えないだろうな」
「……そうですか」
視線が落ちる。
良かった。
そう思ったはずなのに、胸の奥の重さは少しも消えなかった。
「先生」
「ん?」
「……私、何したんですか」
自分でも、馬鹿みたいな質問だと思った。
けれど、本当に分からなかった。
あれは私だったのか。
私の魔法だったのか。
先生は少し黙ったあと、ゆっくり口を開く。
「お前の魔力が異常増幅した。そうとしか言えない」
「異常増幅……」
「だが、あれは普通じゃない」
藍色の瞳が真っ直ぐこちらを見る。
「少なくとも、私はあんな暴走を見たことがない」
胸が冷える。
「……じゃあ、やっぱり私」
「勘違いするな」
ぴしゃりと言葉が落ちた。
「お前が故意にやったとは思ってない」
「……っ」
「むしろ逆だ。お前、自分で抑え込もうとしていただろう」
言葉に詰まる。
先生は見ていたのだ。
「……でも、カルラを傷つけた」
「結果だけ見ればな」
先生はそこで一度言葉を切る。
「しばらくは単独行動するな。今日は寮へ戻れ」
「……隔離、とかじゃないんですね」
「そうしたい奴もいる」
先生は苦々しく呟く。
「だが、現時点でお前を危険認定するには情報が足りん。……私も、生徒をそういう目では見たくない」
最後の言葉は、少しだけ教師らしかった。
胸の奥がちくりと痛む。
優しくされる資格なんて、今の自分にあるんだろうか。
「そろそろ私は行く。お前も今日は休め」
先生が壁から身体を起こす。
その背中が去っていく。
私は一人、長椅子へ座ったまま俯いた。
静かだった。
静かすぎた。
遠くで夕焼け色の光が揺れている。
ぼんやりと、自分の手を見る。
この手がカルラを傷つけた。
その事実だけが、鉛みたいに胸へ沈んでいく。
◇
気がつけば、立ち上がっていた。
自分でも、どこへ行こうとしているのか分からなかった。
ただ、あの白い廊下にこれ以上居たくなかった。
医務棟の空気は静かすぎる。
誰も大声を出さないし、誰もこちらを責めたりしない。
けれどその沈黙が、かえって胸へ重くのしかかってきた。
腫れ物を扱うみたいな視線。
遠巻きな気配。
聞こえないように潜められた声。
実際にされたわけではない。だがその冷えた感覚はじわじわと皮膚の下へ染み込んでくるようだった。
廊下を歩く。
窓の外では、夕暮れがゆっくり学園を染め始めていた。
西日を受けた尖塔の影が石畳へ長く伸びている。
遠くから聞こえてくる生徒たちの笑い声は、まるで別の世界のものみたいだった。
ほんの数時間前まで、私はあの中にいたはずなのに。
「…………」
喉の奥が妙に苦い。
ふと、足が止まる。
中庭の向こう。
訓練棟の白い外壁が見えた。
あの場所へ視線を向けた瞬間、胸の奥で何かがびくりと震える。
赤。
脳裏へ焼き付いて離れない色。
宙を舞った深紅の髪。
見開かれた瞳。
壁へ叩きつけられる音。
胃の奥がひっくり返りそうになる。
「……っ」
違う。
私はあんなこと、したくなかった。
そう思うのに、記憶の中の自分は確かにあの力を放っていた。
あれは間違いなく私だった。
なのに、自分の身体じゃないみたいだった。
指先へ視線を落とす。
まだ少し震えている。
今にもまた勝手に魔力が溢れ出すんじゃないか。そんな錯覚が消えなかった。
怖い。
その感情を自覚した瞬間、胸の奥が強く軋んだ。
私は、自分の魔法が好きだった。
誰より強くなりたかった。
カルラに勝ちたかった。
四天王みたいに、皆から一目置かれる存在になりたかった。
なのに今は、自分の力が気味悪くて仕方がない。
その事実が、何より苦しかった。
気づけば、校舎裏へ続く渡り廊下へ足を向けていた。
夕風が吹き抜ける。
白いカーテンが揺れ、その隙間から赤く染まり始めた空が覗いている。
人の気配はほとんどない。
皆、まだ訓練棟の騒ぎについて話しているのかもしれなかった。
きっと明日には、学園中へ広まる。
ウィディナが暴走した。
カルラを吹き飛ばした。
危険かもしれない。
そんな言葉と一緒に。
自嘲みたいな笑いが喉の奥で漏れそうになる。
「……最悪」
ぽつりと呟いた声は、夕暮れの廊下へ小さく溶けた。
その時だった。
ふわり。
視界の端を黒いものが横切った。
「……え?」
反射的に顔を上げる。
一枚の、黒い羽根。
けれどただの黒じゃない。
光の加減によって、深い青にも紫にも見える不思議な色。
それが夕風へ乗りながら、ゆっくり廊下の奥へ流れていく。
心臓が脈打つ。
訓練棟で見た羽。
頭の奥へ響いた声。
あの黒髪の女。
嫌な予感がした。
なのに。
足は勝手に、その羽根を追っていた。
廊下を抜ける。
校舎裏へ出る。
そこは普段、生徒があまり近づかない区域だった。
整備の行き届いた学園の中で、そこだけが妙に古びている。
石畳には蔦が這い、使われなくなった街灯は斜めに傾いていた。
その先にあるのは、旧校舎。
もう何十年も使われていない廃棟だ。
窓硝子はところどころ割れ、外壁には植物が絡みついている。
昼間でも薄暗く、肝試しだとか幽霊だとか、そんな噂話の定番になっている場所だった。
けれど今の私には、そんな話を怖がる余裕もなかった。
羽は、旧校舎の奥へ消えていく。
まるで誘うみたいに。
風が吹く。
ざわり、と木々が揺れた。
夕焼けはもう濃くなり始めていた。
赤い光と長い影が混ざり合い、旧校舎はまるで沈みかけた船みたいに静まり返っている。
私は無意識に唾を飲み込んだ。
――引き返した方がいい。
頭ではそう分かっている。
なのに胸の奥では、別の何かが囁いていた。
行かなきゃいけない、と。
まるでずっと前から、ここへ来ることが決まっていたみたいに。
旧校舎の扉は、驚くほどあっさりと開いた。
軋んだ音ひとつ立てず、重い木扉はゆっくり内側へ滑っていく。長い間使われていない建物のはずなのに、まるで今も誰かが出入りしているみたいだった。
薄暗い空気が、ひやりと頬を撫でる。
外はまだ夕暮れの赤が残っていたというのに、旧校舎の中だけ時間の流れが違うように静まり返っていた。窓から差し込む西日は弱く、長く伸びた廊下の途中で力尽きるように床へ沈んでいる。
古い木材の匂い。
湿った石壁。
微かに混じる、草木の青い香り。
胸の奥が妙にざわついた。
怖い。
確かに怖いはずなのに、不思議と足は止まらない。
むしろ、自分の内側のどこかが、この場所を懐かしがっているような感覚さえあった。
「……なんなの、ここ……」
小さく呟いた声は、静かな廊下へ吸い込まれていった。
返事はない。
あるのは、自分の足音だけだ。
こつ、こつ、と石床を踏む音がやけに大きく聞こえる。
羽根はもう見えなくなっていた。
それなのに、どこへ進めばいいのか、なぜか分かる。
まるで何かに導かれているみたいに、私は迷いなく旧校舎の奥へ進んでいた。
途中、崩れかけた教室が見えた。
埃を被った机。
割れた窓。
黒板へ残された古い文字。
どれも長い時間を感じさせるものばかりなのに、そこには奇妙な違和感があった。
汚れているのに、荒れていない。
忘れ去られているはずなのに、捨てられていない。
誰も来ないはずの場所なのに、誰かの気配だけが微かに残っている。
……あれは、一体何だったのだろう。
どうして自分の魔力は暴走したのか。
どうして、カルラを――
「…………」
足が止まる。
考えたくなかった。
カルラの顔を思い出すたび、胸の奥へ重い石を押し込まれるみたいに苦しくなる。
あの時、カルラは私を助けようとしていた。
怖がるでもなく、逃げるでもなく。
真っ先にこちらへ駆け寄ってきた。
なのに私は。
私は、カルラを吹き飛ばした。
喉の奥が焼けるみたいに痛む。
もしカルラが目を覚ましたとして、私はどんな顔をして会えばいいのだろう。
いつもみたいに軽口なんて叩ける訳がない。
もし、カルラが私を怖がっていたら。
その想像だけで、足元が崩れそうになる。
「……っ」
息を吐く。
駄目だ。
今は考えるな。
そう自分へ言い聞かせながら、再び歩き出そうとした、その時だった。
廊下の突き当たりに、扉が見えた。
古びた両開きの木扉。
他の教室とは違う。
妙に大きく、重々しい造りをしている。
まるで、その先だけが旧校舎の中でも別の場所であるかのように。
そして、その隙間から、淡い光が漏れていた。
白銀色の光。
夕焼けとも魔法灯とも違う、静かな輝き。
胸の奥で何かが強く脈打つ。
心臓じゃない。
もっと深い場所。
身体の中心に眠っていた何かが、その光へ呼応するみたいに震えていた。
――来て。
そんな声が聞こえた気がした。
無意識に、私は扉へ手を伸ばしていた。




