第一話 日常
――ごつん。
「っ、いた……」
額に走った鈍い痛みと共に、沈みかけていた意識が無理やり浮上する。
ぼやけた視界の先、教卓の前には見慣れた女の姿があった。
長い脚を組み、腰に手を当てながら、石筆を指先でくるくると弄んでいる。こちらを見下ろす藍色の瞳には、叱責よりも面白がる色の方が濃かった。
「おいウィディナ。私の授業で居眠りとは、ずいぶん偉くなったじゃないか」
担任教師のカロナ。
またか、と心の中でため息をつく。
この人は、生徒をからかう時だけやけに生き生きしている。
「いやいや、違いますって。明日に備えて魔力と体力を温存してただけで――」
ひゅっ、と空気を裂く音。
直後、先ほどと全く同じ場所に衝撃が走った。
「あいたっ!?」
「言い訳は聞いてない」
絶対わざとだ。
額を押さえて顔をしかめる私を見て、教室のあちこちから笑い声が漏れる。
窓際では春の風が白いカーテンを揺らし、その向こうには長くそびえる山脈と、青々とした森が広がっていた。昼下がりの陽気も相まって、眠気を誘うには十分すぎる環境だったのだ。断じて私だけが悪い訳ではない。
「ほら。寝起きの頭の体操だ。“魔境の成り立ち”、説明できるだろう?」
来た。
先生はよくこれをやる。
突然生徒を指名し、“自分の言葉で説明しろ”と求めてくるのだ。ただ暗記した内容をなぞるだけでは駄目で、理解していなければ途端に詰まる。
その代わり、上手く説明できれば加点が入るため、生徒からの評判は案外悪くない。
当てられる側としては、たまったものではないけれど。
「はぁい。えーっと、魔境の成り立ちは――」
言いかけたところで、パン、と乾いた音が響いた。
カロナ先生が手を叩いたのだ。
「……やっぱりやめだ。前もウィディナにやらせた気がするな」
「えーっ」
「代わりに――おい、カルラ」
「はい」
左隣から、静かな返事。
椅子を引く音と共に、深紅の髪がふわりと揺れた。
立ち上がった少女は、背筋をすっと伸ばしながら軽く制服の裾を払う。その仕草一つ取っても妙に様になるのが、少し癪だった。
カルラだ。
幼馴染で、腐れ縁で、昔から何かと私に張り合ってくる相手。
カルラはこちらを一瞥すると、ほんのわずかに口元を緩めた。
まるで「残念だったわね」とでも言いたげな顔だ。
「はるか昔、人類と魔族は共存していました」
よく通る声が教室へ静かに広がっていく。
「ですが二千年ほど前、人類は突如として魔族を“不浄”と断じ、中央大陸へ追放しました。現在“魔境”と呼ばれている地です」
「ひどい話だよなぁ」
後方の席からぼそりと声が飛ぶ。
「静かに聞け」
カロナ先生が無造作に石筆を投げた。
見事に額へ命中する。
「っっ……!」
「授業中に茶々を入れるからだ」
くすくすと笑いが広がる中、カルラは淡々と続けた。
「当時の中央大陸は、緑も水も乏しい不毛の大地だったそうです。しかしそこで立ち上がったのが、黒翼種の魔族――初代魔王でした」
その名が出た瞬間、教室の空気がわずかに引き締まる。
初代魔王。
魔族にとって、その存在は単なる王ではない。
この国そのものを築いた始祖であり、英雄であり、象徴だ。
「初代魔王は散り散りだった魔族をまとめ上げ、水脈の浄化、農地開発、都市建設を推し進めました。十数年で国家として成立するほどの基盤を整えたと言われています」
窓の外で木々が揺れる。
今では豊かなこの大地が、かつて荒野だったなど想像もつかない。
「そして紀元前十年。力を蓄えた魔族は、人間領への侵攻を開始します。標的となったのは――」
カルラがわずかに言葉を詰まらせた。
私はにやりと口角を上げる。
「四大国の一つ、カルメナ王国でーす」
「ウィディナ、お前は黙っていろ」
「はぁい」
だが正解だったからか、先生は何も言わなかった。
教室にまた笑いが起こる。
カルラは小さくこちらを睨み、それでもすぐ説明へ戻った。
「カルメナ王国は侵攻七日目にして陥落。しかし初代魔王は、それ以上の侵略を行わず、魔族を率いて魔境へ帰還しました」
「そこは重要だな」
カロナ先生が黒板を軽く叩く。
「人間側の歴史書だと“撃退した”なんて書かれていることもあるが、実際は違う。魔族側から戦を終わらせたんだ」
「国家基盤の整備を優先したから、ですね」
「その通り」
先生は満足げに頷く。
「カルメナから持ち帰った技術や制度を礎に、魔族は急速に発展しました。魔王城、央都、魔王軍、八大将軍、そして四天王……。今の魔境の原型は、その時代に築かれたものです」
カルラの説明は滑らかだった。
こういう時、本当に敵わないと思う。
悔しいけれど、知識量も、言葉のまとめ方も、昔から彼女は一枚上手だった。
「そして黎暦元年。初代魔王が正式に戴冠し、魔族国家は成立しました。以上が、魔境の成り立ちです」
カルラは静かに一礼し、席へ座る。
「うむ。良い説明だった」
カロナ先生は手帳へ何かを書き込みながら頷いた。
おそらく加点だろう。
席に着いたカルラが、すぐさま不満げにこちらへ顔を寄せてくる。
「……横入りしたわね」
「助けてあげたんだけど?」
「思い出していただけよ。ちゃんと言えた」
「はいはい」
適当に受け流していると、再びパン、と手を叩く音が響いた。
教室の空気が自然と静まる。
「さて、本題に戻るぞ」
先ほどまでの軽い調子を少し引っ込め、先生は教卓へ寄りかかった。
「魔族国家成立から二千年。現在もなお、人類との戦争は続いている。――その理由は?」
「勇者の存在です」
前列の生徒が即答する。
「そうだ」
先生は静かに頷いた。
「人間には百年ごとに“勇者”が現れる。神に選ばれた超人様だ。そしてそいつらを筆頭に、人間共は何度叩き返されても魔境へ侵攻してくる」
教室の空気がわずかに重くなる。
勇者。
その単語には、歴史の重みと流血の記憶が染みついていた。
「そして来年は、黎暦二〇〇〇年」
黒板へ大きく数字が刻まれる。
2000。
「節目の年だ。千年前――黎暦一〇〇〇年の戦争では、魔境側も甚大な被害を受けた。来年も同規模の戦が起きる可能性は高いと見られている」
ざわ、と教室が揺れる。
「まあ来たところで、私がばっさばっさと――」
「馬鹿を言うな」
ぴしゃりと遮られた。
思った以上に低い声だった。
教室が静まり返る。
「既に北部地域ではでは小競り合いが始まっている。それに――四天王の一席は未だ空席のままだ。戦争がどういうものか、わからないお前たちじゃないだろう」
一瞬、空気が止まった。
誰も口を開かない。
その席がなぜ空いたのか。
なぜ今なお埋まっていないのか。
この教室にいる全員が知っている。
重苦しい沈黙の中、先生は小さく息を吐いた。
「……まあ、湿っぽい話はここまでだ」
わざとらしく肩を竦め、先生は椅子に腰掛ける。
「さて。話は変わるが、お前らも知っての通り、休日を過ぎればいよいよ序列戦だ」
途端に、教室の空気が一変した。
「あれ、もう来週なんだっけ!?」
「今年こそ上位入ってやる……!」
「嫌だ、絶対当たりたくない相手いるんだけど……」
ざわめきが一気に熱を帯びる。
序列戦。
高等部の生徒全員が参加する、実戦形式の順位決定戦。
単なる模擬戦ではない。
成績、進路、軍への推薦、将来の配属先。
あらゆる評価に関わる、文字通りの実力主義の大会だ。
そして何より――強者ほど目立つ。
「今年は節目の年の直前だ。例年以上に上も注目している。無様な戦いを見せるなよ」
教室の熱気を眺めながら、先生は口元を歪める。
「特にウィディナ。今年も楽しみだな、お前とカルラの試合はもはや恒例行事だぞ? 万年二位のウィディナめ」
「あーっ、今年こそは絶対勝ちますからね!? 見といてくださいよ」
「あら、まだ一位は渡すつもりはないけれど?」
「余裕ぶってられんのも今のうちだからねー!?」
どっと笑いが起きる。
こっちは真剣にやっているのに、ひどいとは思わないのか。
「――まあいい。とにかく、怪我だけはするな。序列戦前に戦えなくなった奴から脱落していくからな」
先生はそう言って教卓から立ち上がる。
「授業はここまで。号令」
前列の男子生徒が立ち上がった。
「起立」
椅子が一斉に鳴る。
「礼」
「ありがとうございました」
窓の外では、柔らかな風が木々を揺らしていた。
けれど教室の中に満ちている空気は、もう春の穏やかさとは別の熱を帯び始めていた。




