獺
追いかけた背中は人間の姿をしていた。
最初は。
走る内に着ていた着物がずるずると落ち、二足で走っていたその妖はいつしか四つん這いで走って喜助から逃げていた。
(何やこの妖…デカい獺か?)
艶のある毛に陽の光を反射させながら逃げていく長い影。
獺であれば、川に逃げられたら流石に追い付けない。ほんの少しの焦りを感じながら、走る喜助。
「!」
逃げていく獺が急に角度を変えた。
追手を巻くためかと思ったが、そうではない。
(アカン、川や!)
川に逃げられたら撒かれる。そう気付き、即座に懐から火炎符を出した。
いつかの蝙蝠の事を思い出して、直接は攻撃しない。簡略化した詠唱を唱え、獺の行く先々に火を起こす。
「あつい!あつい!」
少し間抜けな声がして、獺がようやく足を止めた。
「観念せぇ!お前、何が目的や!?」
焦げた髭を擦る獺に喜助は刀を抜いた。
向けられた刃に獺はつぶらな瞳を見開き、口をパクパクとさせている。
「話せるんやろ!何か言えや!」
喜助の大きな声にぎゅっと目を細める獺。睨んでいるように見える。
「和磨狙って何する気や!!」
「……。」
無言の返事に喜助が苛立つ。
「お前__」
「喜助!!」
名前を呼ばれたと共に、喜助の足元へ鞘に入ったままの刀が地面へ突き立った。
「は?!…え?楓ちゃん?」
驚く喜助の視線の先、全速力で走り抜いた楓が息を切らせて立っていた。
「ちょ、和磨置いてきたんか?何で?頼んだやん!」
ゼエゼエと息を切らす楓に抗議する。
「だって…_」
「?」
「私だって頼んだじゃない!妖を見ても刺激しないでって!私より先に行かないでって!」
怒っているのか、余裕が無いのか、いつもより語気が強い。
「そんなん、もしこれが任務やったら…」
「任務だとしたら、今日それを仕切ってるのは私でしょ?」
「__っ」
「勝手な行動したら、命に関わることだってあるんだから。」
怒っているのか、余裕が無いのか。楓の声はいつもより鋭かった。
こういう険しい表情の楓を、見たことがないわけではない。ただ、それが自分に向けられるのは初めてだった。
「それやったら楓ちゃんも護衛対象放っとるやないか!」
「悪い気配は無かったし、それに…_」
喜助の反論にどう返すべきか逡巡する。先程、白鴉に和磨を頼んだつもりではある。それを言っても喜助は到底納得しないだろうし、白鴉との繋がりも知られてしまう。
目を泳がせた楓の視界に、見覚えのある白い影が入った。白鴉だ。
「…ちょっと!和磨くんが危なくないか見張っててって頼んだじゃない!」
思わず話し掛けるが、白鴉は喜助の前では鳥で通すらしい。金色の瞳でじっと楓を見たまま、口を開く素振りすら見せない。
「何、鳥に話し掛けとん…!あ!おいコラ!!」
二人の気が白鴉に移っている隙に、獺が何かに気付いて地面に刺さった刀に駆け寄った。
「いずみぃ……」
刀を取られるかと警戒した喜助の前で、獺は哀しそうに、何度も刀に顔を擦り付けた。




