異
里まであと少し。ふと、視界に入った光景に、楓の足が止まった。
「うそ……あの子……」
里の外からでも見える高さの櫓。その上に、杏が立っていた。
それだけなら驚くほどではない。
けれど杏は、高所が極端に苦手だ。足が竦んで動けなくなる場面を、楓は何度も見てきた。
その杏が、今は手摺も掴まずに櫓の上に立っている。
(やっぱり、おかしい)
楓は鼓動を早め、里へ向かう足を一層速めた。
息を切らして里に着くと、すでに櫓の上に杏の姿はない。
辺りを見渡した楓は、櫓から少し離れた場所で砂慈と話している杏を見付けた。
何の話をしているのかはわからない。
だが、割って入るのもどうかと思い、少し距離をとって様子を見ることにした。
杏と向き合う砂慈の表情は見えない。けれど、いつものようににこにこと話しているのだろう。
杏も最初は穏やかな顔で応じているように見えたが、それも長くは続かなかった。
ふいに、杏の表情が固まり、さっと青ざめる。
砂慈もその変化に気付き、何か声を掛けるが、杏は平静を装うように軽く会釈すると、逃げるようにその場を離れてしまった。
「あ、杏……」
偶然を装い、楓は近付いて声を掛ける。
「ごめんね、ちょっと……」
それだけ言って、杏は楓と目も合わせず、駆け去ってしまった。
「気分が優れないようです。悪化しなければ良いのですが」
医者らしく杏の体調を気遣う砂慈。
「何か、話をしたんですか?」
「ちょうど、彼女が櫓に居るのを見ましてね。珍しかったので、どうした風の吹き回しかと」
砂慈も、杏が高いところを苦手としているのを知っている。
純粋な疑問から声を掛けたのだろう。
『降りてから気分が悪くなったのでしょうか?』と、呑気に首を傾げる砂慈といくつか言葉を交わし、楓はその場を辞した。
その足で杏の家を訪ねたが、杏は姿を見せなかった。
応対に出た弟の話では、体調が優れないと言って部屋に籠ってしまったという。
無理に押し入る理由もなく、楓はいったん引き下がることにした。
けれど、その判断を、翌朝になって激しく悔やむことになる。
杏は、家から姿を消していた。
杏の家の周りは、ちょっとした騒ぎになっていた。
何も告げずに出ていった娘を心配し、杏の母が近隣に所在を聞き回っているのだ。
「昨日の様子が気になって訪ねてみたら、この有り様です。何事も無ければ良いのですが……」
偶然会った砂慈も、困ったような顔で言う。
涼水と杏のこと。静かとは言えない変化。
当の杏は居らず、楓は手詰まり感に胸をざわつかせながら、どうしたものかと考えを巡らせていた。
そんな折、杏の母と目が合う。
無視するわけにもいかず、楓は会釈をして近付いた。
「楓ちゃん。杏がどこに行ったか知らない? いつもは必ず、どこに行くか言って出ていくのに……」
「あの――」
「おばちゃん、ごめんごめん!」
言葉に詰まった楓の声を遮るように、柾が割り込んできた。
「特訓に誘ってたんだ。任務に入っても付いていけるように、こっそり修行したいって 言っててさ。こっそり、とは言ったけど、本当に秘密で出ていくとは思わなくって!」
手を合わせて謝る仕草をしたまま、柾が一息にまくし立てる。
杏の母のこわばった表情が、途端に安堵へと変わった。
「じゃあ、居場所も知ってるのね?」
「一緒に行こうって言ってたのに、置いてかれちまったみたいで。すみません」
申し訳なさそうに頭を掻き、柾が苦笑する。
「今から行って合流してきます。俺の言い方が悪くて、杏が無断で出てったって思ったんだと思います。あんまり怒らないでやって下さい」
ぶん、と音がしそうな勢いで、柾が深く頭を下げた。
杏の母も安心したように、『私も少し心配し過ぎたわ』と笑う。
「ちょうどいいや。楓も行こう。どうせ暇なんだろ?」
思わぬ展開に黙っていた楓の肩を軽く叩き、柾が同行を促す。
訳もわからぬまま、楓は杏の母に挨拶をして、柾の後を追った。




