狸
流風の後について、楓は見たことも無い場所を歩いていた。
楓の知る山は、見渡す限り木や草ばかりだった。
だがここには、至る所に朽ちた地蔵のような、道祖神のような、ぼろぼろの石が転がっており、時折祠も顔を覗かせている。
「こんな所、初めて通る…。」
辺りをきょろきょろと見渡しながら楓が呟いた。
「山は気紛れだからね。」
「それは天気の話でしょ?」
「そうでもないさ。その山に住まう動物も妖も、そして山そのものも、人によって見せる顔を変えるのだよ。」
納得出来るような、出来ないような話だ。
首を傾げる楓の目に、少し先からこちらへ歩いてくる傘を持った人影が入ってきた。
(こんな所で人とすれ違うんだ…)
何の気なしに視線が近付いてくる傘に吸い寄せられる。
この、夏の足音が遠くに聞こえる爽やかな季節に、フサフサした毛皮を着ているらしく、妙に暑そうで奇妙に見えた。
「傘、入らんか?」
傘をくいっと持ち上げ、その人物が喋る。
「!?」
傘の下は狸だった。
傘を差し、二足歩行するそれは、もちろん普通の狸ではない。妖なのだろう。
「おや、流風じゃないか。どうした、こんな時間に。」
流風と知り合いらしいその狸は、親しげに話し掛けてきた。
「なに、単なる散歩さ。」
「女連れでか? この色男め……ん?」
狸が流風越しに楓を見て、ただでさえ丸い目を、更に丸くする。
「桜? たまげたな、桜じゃないか!」
嬉しそうな声で狸が姉の名前を呼び、ひょこひょこと不器用な早歩きで近付いてくる。
「彼女は桜さんではない。その妹さんだよ。」
反応に戸惑い声を詰まらせる楓に代わり、流風が訂正した。
言われた狸は、更に楓に顔を近付ける。
「おぉ? 本当だ。桜ではないな。もうすっかり目が悪くなってな。妹さんかね。名前は?」
「楓、です。」
「そうかそうか、楓さん。すまんな、お姉さんの気配にそっくりだったものだから、つい…。」
狸は人懐っこい笑顔で楓に謝り、ごしごしと目を擦った。
確かに、少し白濁している。人間で言ったらかなりの高齢なのかもしれない。
「お姉さんはどうしたね? 最近とんと見ないが?」
狸の率直な質問に、流風が少し心配そうな面持ちで楓を見る。
何か言おうとした彼を制して、楓が口を開いた。
「姉は…亡くなりました。もう一年経ちます。」
狸はしばらく言葉を失い、そっと傘を傾けて顔を隠した。
「そうか、亡くなったのか…。まだ、まだ若かったろう?可哀想に…」
傘で隠れて顔は見えないが、泣いているらしい。声が涙に濡れている。
そっと流風が近寄り、そんな狸の背を摩った。
どれくらい時間が経っただろう。
静かに涙を流した狸は、やがてゆっくりと面を上げた。
「すまんね、まだ元気にしているとばかり思っていたものだから。」
そう言って狸は天を仰ぐ。
「君達は…我々妖は血も涙もないと思っているかもしれん。だが決して、そんな事はないんだ。」
「長く生きた妖には、ちゃんとした感情が備わるからね。」
慰めるように流風が狸の頭を撫で、白鴉が持ち帰っていた手拭いを渡してやる。
「何年生きても別れは哀しくて堪らん。見送ってばかりでも、慣れはせんのだ。」
手拭いを受け取り、涙を拭った狸は、少し恥ずかしそうに顔を掻きながら楓の方を向いた。
「初対面なのに、みっともない姿を見せてしまったね。」
「いえ…ありがとう、姉の為に。」
見ず知らずの、しかも妖が姉の死を悼んで涙してくれたことが嬉しくて、素直に礼の言葉が出た。
「そうだ。桜…お姉さんの墓前に供えてはくれないか? あまり見合うものではないが。」
狸がごそごそと撫子の束を差し出した。
「あ、でも…」
何か目的があってこの花を持っていたのなら、受け取ってしまっては心苦しい。
「構うこたない。また摘んでくるだけだ。」
楓の考えを汲んだように、狸はそう付け加えた。
「ありがとう、…えっと…タヌキさん。」?
名前を呼ぼうにもわからないので、見たままを口にしてみる。
狸はそんな楓に目を細め、傘を畳んで地面に文字を書いた。
「お姉さんから聞いてはいなかったか。儂は“サンリ”という名だ。昔からこの山に住んでおる。」
地面には、お世辞にも上手とは言えない字で『傘狸』と書かれている。
「この辺りで傘を持った狸なんて君だけだからね。分かりやすい名前だ。」
「笑うな流風。若い頃はな、何でも物珍しくて楽しかったんだ。」
思い入れでもあるのだろうか。傘狸は大事そうに傘を開くと、再びその頭上に差した。
「時間を取らせてしまったな。先を急いでいたのだろう? さ、お行きなさい。」
道の真ん中に居た傘狸が、道の脇へ身を寄せて楓達に道を空ける。
楓はもう一度傘狸に礼を言い、別れを告げた。
「また遊びにおいで。」
そう言って、傘狸はいつまでも手を振ってくれていた。




