ナイトメアビフォアクイシンボウ その1 ~幡ヶ谷隠れ家レストラン~
食べたい。起きた時から俺は無性にある店の料理が食いたくなった。食べに行こうと幡ヶ谷へと向かう坂を駆け上がり、例の和菓子屋の横を通り抜け、信号の手前で左折する。電気プラグのような名前のケーキ屋の横の階段を地下まで降りるとそこには俺の愛してやまない憩いの場所の一つが待ち構える。
「いらっしゃいませ」
いつもの髭の店員が俺に声を掛けてくる。俺は軽く会釈して席に着く。注文をするとほどなくして大ぶりの皿にサラダが運ばれてくる。
――これが食いたかったんだよな。
パスタランチには必ずつくこのサラダは本当に美味い。レタスをベースに契約農家から仕入れている季節の様々な野菜がそれを彩る。そして極め付きはドレッシングだ。先日食べた方南町のピザ屋よりも酸味が抑えられていて、全体的に癖を減らして万人受けするものになっている。ちょうどよい塩気と玉ねぎの甘み、上品なオリーブの香りがサラダにまとわりつく。正直これを千円以内のランチで出すのはだいぶ思い切っているに違いない。
――シャクリ。
シャキシャキの紫大根の薄切りにニンジンの千切り、そしてレタスと違う触感が口の中で楽しい。
「――良い店だねえ」
ふと横を見るとなんと俳優の『大杉漣』がいるではないか。マネージャーらしき人物と二人でカウンターに並び笑顔でそう語っている。
そう言えば――。
先日テレビで『娘が幡ヶ谷のレストランで働いている』と語っていた気がする。そうだ、ここじゃないか。
――ファンです。
そう言って声を掛けようか悩んで、やめた。また来ることもあるだろう。それに仕事中かもしれない。迷惑かもしれないから声を掛けるのはやめておこう――。
そして、違和感に気が付いた。
ああ――そうだ。いるはずが、ないじゃないか。そう、大杉漣さんは――この店は――。
『もうないのだから』
――本当に目を覚まして、自分の目から何か零れているものを認識する。そして俺は着替えて家を出て、幡ヶ谷へと歩みを進める。そう、その店があった場所に。
ある日突然10年間営業していたこの店は、消えた。
あまりにも唐突に店が閉まったものだから、常連客がランチの時間帯に店の前で困惑している様子が暫く確認出来た。後日、俺は偶然にも髭の店員に街中で遭遇して、どうして閉まったのかを訊ねることが出来た。
――店長の、体調不良です。
短いが端的な答え。まだ40に達しているかどうかの人物だったはずだ。何かこう、どうしようもなく寂しい気持ちになったのを覚えている。
「――もう、ないんだよな」
地下へと続く階段の先にはもう別の店が入っている。ダンススタジオだ。確かにあそこはダンスできる場所が作れそうなぐらいには広かったな、と思う。階段前に置かれているダンススタジオのチラシを見ると講師はどうやら結構な有名人らしい。自分の子供が出来たら通わせてみるのもいいかもしれない。いつできるかは知らないけど。
通り過ぎてから、失ってから人はその大事さに気付くのだ、と痛感する。
一週間に一度は通っていたそこがもうない。失い残ったのは、味を覚えている俺の舌だけだ。それもいつしか――褪せて消えるのだろうか?
「覚えていたいなあ、ずっと」
ずっと、忘れたくない。あの味も、ばあちゃんのおはぎの味も。
「そういや、今回はどんな奴が泊ってるんだろう?」
せっかく屋敷の近くに来たのだから確認すべきか悩む。今回俺が種族を確認していないのには訳がある。開けたけど――入ってこなかったのだ。
ドリスコルは『指定の時間に開けるだけでいいです。一時間したら閉めて下さい』としか言われていない。その間、俺は誰も扉を通過するのを見ていない。一体、何が来たのだろうか?
俺の足は自然と屋敷へと向かっていた。
興味本位でもう一度俺は屋敷の門を潜る。――気配は、ない。
その後くまなく屋敷の中を探索したのだが、誰も、何もいない。――いいのだろうか、これで?
まあ、金を貰っている以上文句を言う筋合いではない。しかも施設は綺麗なままなのだ。
俺は誰もいないなら――と外の和菓子屋で買った団子を片手に縁側でポカポカと日向ぼっこにいそしむ。いつしか俺は……むにゃ。
「あれ?」
気が付けば俺は再び『幡ヶ谷のレストラン』にそのまま座っている。
「お待たせしました」
「あ、はい」
何だろう? よく思い出せない。どうして俺はここにいるのだろうか?
俺は髭の店員にそういうと運ばれてきたパスタを見る。
――ああ、懐かしいな。
俺の好きなミートソースのパスタがそこにあった。多分包丁でその場で砕いたのであろう肉の塊をフォークで突き、楽しくなる。クルっと一まとめにして口に放り込むと肉の旨味、そしてブラックペッパーとチーズの香りが鼻を衝く。じんわりとその肉汁と胡椒の味を確かめるように俺はかみ砕き、飲み込む。
「――美味い。ああ――、でも」
自然と涙が零れた。もう――食べれないのだという実感が一口ごとに広がっていく。ああそうだ、これは――。
「うまっ! ずりゅ! うまっ!」
「――」
隣に座っている――というか、大杉漣さんがいた位置に、今は別の『もの』が座っている。人が感傷に浸っているというのにそいつはお構いなしに、下品にパスタを啜り上げ、満足そうに頷いている。
「うま! うまい! 馬だけに!」
「本当に、何してんだ馬が?」
そこには本当に馬がいた。というか、正確にいうなら『馬面』の何かが。
馬の顔に人間の身体――本当に馬人間とでもいうか、そういう奴がタキシードを着て座っているのだった。
この店本当に去年7月までありました。無くなって本当に残念で、暫く途方に暮れてました。
大杉漣さんに会ったのも本当で、声を掛ければよかったなあと今は後悔しています。
暫く思い出の店が続きますが、ちょっと趣向を変えたと思ってお付き合いください。




