9. 麦は、市の終いに買うものでございます
九の月二十五日。朝の冷えが城壁の石に残るころ、城下の門に人が集まっている。
釜はいつもの場所に据わり、薪もきれいに割って積んである。それでも、蒸気は上がらない。蓋を取った釜の底には、火の色を映さない水だけが冷たく張っている。
市の終いは、年に三日しかない。
収穫の市がしまう三日のあいだ、売り手たちが残りを手放すにつれて、麦の値がいちばん下がる。例年なら八の月二十日、私はそこで二十袋を買う。城下へ運び、挽き、蔵へ入れるまでに十日かかるから、八の月三十日にはすべて済んでいる。粥を煮る火は、その麦で入る。
今年は、買わなかった。
◇
列の先で、背を丸めた老人が、空の椀を胸に抱えたまま立っている。
子供を抱いた女が、その後ろで、足先の冷えを散らすように足踏みをしている。吐く息は白く、抱かれた子供の頬をかすめてほどける。門の石には昨夜の雨が薄く凍り、朝の光を鈍く返していた。誰も何も言わない。鼻をすする音と、空の椀どうしが触れる乾いた音だけが、門の下で途切れながら細く続く。列は門の外へ伸び、坂の途中で曲がって見えなくなっていた。二十年、この列の長さを私は数えたことがない。数えるまでもなく、朝には釜から湯気が上がり、粥が出ていたからである。抱かれた子供の足先が布からのぞき、寒さに小さく縮んでいる。私はそこから目を戻すまで、息を吐けずにいた。
列の外に、薄紅の外套をまとった令嬢が立っておられる。ハイケさまである。取り巻きの方々の姿はなく、お一人であった。外套の裾が風に揺れるたび、磨かれた靴の先がのぞく。
ふいに、目が合う。
どちらも何も言わない。あの方も二十年ぶんの支度を受け取ってきた側であり、いま、それが止まった側でもある。薄紅の襟元に添えられた指が、布をつまみ、すぐに放す。私はその指先から目を外し、会釈をひとつして、門のほうへ歩き出す。
列の視線を背に受けながら、釜の前に立つ。
二十年、私は現場に立ったことがない。支度が済んだら、人の目に触れる前に消えるのが作法であり、湯気の立つ場所に私の顔があってはならなかった。門へ近づくほど、並んだ人々の視線が頬に集まり、背中の布が重くなる。
その釜の縁に、いま手を掛けている。火の入らない鉄はまだ冷たく、掌の皮が吸いつくように貼りついた。そっと剥がすと、薄いところだけが引っぱられ、遅れて走る痛みに指が曲がる。それでも手を引かず、冷えた縁へ掌を重ねている。
「おばさま、なんでこんなとこにいるの? 王宮の人じゃん、ずっと」
ペピが釜の反対側から、縁に指を掛けて顔を出す。麻色の髪には灰がつき、頬にも煤の筋が走っている。
「麦は、市の終いに買うものでございます」
「……なにそれ。答えになってないよ」
「はい。なっておりません」
「じゃあ、なんで言うの?」
「自分に、申しております」
八の月二十日、あの三日のあいだ、私は宿の窓から市の終いを見ていた。荷車が坂を降りていく車輪の音も、売り手が値を読み上げる声も、二十年ぶん耳が覚えている。声が届くたびに足の裏へ力が入り、椅子の脚が床を擦る。それでも立たず、膝の上で組んだ手が勝手にほどけようとするのを、もう一方の手で押さえ続ける。指の節が白くなるころ、麦袋を積んだ荷車は坂の下へ消えていった。
動けなかったのではない。動かないと決めたのは、私である。
◇
昼過ぎ、王宮から、車輪をきしませて荷車が降りてきた。
カジミールさまが王家の蔵の麦を出させたのである。荷台の麻袋には王家の印が濃く残っている。冬に王宮の食卓へ上がるはずのものである。
やがて釜から湯気が上がり、粥は配られた。
ただし、日に一度きりである。例年なら朝と夕の二度、門が開く。長官は釜の脇に立ち、椀の数と麦の袋の数を低い声で並べて数えられる。袋へ向けた指が止まるたび、眉間の筋が深くなる。
「日に一度である。朝だけだ」
「長官さま。夕の分は、いかがなさいますか?」
「無い。員数も、日数も、値も、二度には足りぬ」
「……はい」
言い切ったあと、長官はこちらを一度だけ見られる。淡い青の目は、煙のせいか、白いところまで赤くなっている。何も言われず、唇を固く結んで、また袋のほうへ目を戻された。釜の火が揺れるたび、伏せた横顔の影も細かく動く。
夕方には、椀を配る手が感覚を失い、指を開いているのかさえ、目で確かめなければ分からなくなる。
湯気で濡れた指が外の風で乾き、釜のそばへ戻ればまた濡れる。それを繰り返すうち、指の腹の皮は白くふやけ、爪の際の割れがゆっくり開いてきた。掌には粥の熱が残るのに、手の甲は風に刺され、同じ一本の腕の上で熱と冷えが別々に居座っている。椀を渡すたび、その境目が肘のあたりで脈を打つ。
声も、朝から呼び続けて、芯のところまで枯れている。息を吸うたび喉の内側が擦れ、耳に届く声は、よその人のもののように細い。
「どちらさまで?」
椀を受け取った老人が、立ちのぼる湯気越しに私の顔を覗き込む。白くかすんだ目が、名を探すようにゆっくり動いている。
二十年、この問いを受けたことがない。私を呼ぶ名は「王宮の支度方」であって、それは役の名であった。口を開くと、長く使わなかった音が喉の奥でつかえる。
「……アーレンツの、エルスベートでございます」
言い終えてから、声がほとんど出ていなかったことに気がつく。老人は聞き取れなかったらしく、椀を抱え直し、空いた手を耳に添えている。待つあいだ、冷えた指が耳の後ろで細かく震えている。
「……アーレンツの、エルスベートでございます」
二度目は、背中を起こして息を深く入れたぶん、少し大きく出た。
「そうかね。アーレンツの、エルスベートさん」
「……はい」
名を返してもらう、ということが、こんなに重いものだとは知らない。老人の声で呼ばれた名が耳の奥に残り、次の息がうまく入らない。喉の奥で、枯れた声がひとつ鳴る。老人は椀を両手で抱え、湯気のほうへ顔を寄せた。白い湯気が頬にかかり、目のまわりの皺を一本ずつ濡らしていく。私は、老人が粥へ口をつけるまで、その顔を見ている。二十年、私が見なかったのは、この顔である。次の椀へ伸ばした指が、途中で止まっている。
◇
日が落ちてから、門の脇にオルシーニさまが立っておられる。背後の坂は夕闇に沈み、外套の肩だけが釜の残り火に照らされている。
掌に収まるほどの小さな壺を差し出された。今度は蜂蜜である。
「声を使う男は、これを舐める」
「……船乗りは、脂と蜜で持つのでございますか?」
「そうだ。あとは塩だな。三つとも、安い」
「安いものばかり、ようご存じで」
「安いものを覚えておくのが、遠くへ行く者の作法だ」
匙も使わず、指ですくって舐めると、濃い甘さが喉の裏側に貼りつき、擦れていた場所だけ痛みが遠のく。息を吐けば、冷えた夜気の中へ蜂蜜の匂いがかすかに戻った。日に灼けた手が足元の壺の蓋を拾い、私の掌へそっと載せる。蓋の内側にも蜜が薄く残っている。私はそれを拭えないまま、指の腹を載せている。その指が、しばらく動かない。
王宮を見上げる。厨の煙は屋根の上まで上がらず、庇のあたりで平たく広がっていた。明かりの並ぶ窓は遠く、蜂蜜の残る指だけが、外気の中でかすかに温かい。




