8. 北風は、三日でやみます
九の月十三日。朝、風が凪いでいる。宿の軒先にたまった冷気まで、じっと動かない。
三日前から、旗は南へまっすぐ伸び、布の端を絶えず震わせていた。それが今朝は、力を失ったように竿のそばへ垂れている。宿の屋根の風見だけが、行き先を探すように、きい、と小さく鳴りながら少しずつ回る。頬に当たる空気の重さが変わり、耳の奥を塞いでいたものが、ふっと抜ける。
例年なら、荷はもう港にある。
北風は九の月十日ごろから吹きはじめ、三日でやむ。だから例年は九の月一日に港へ人をやり、荷車を集める。王都から荷を運び出し、船へ積み終えるまでに九日かかるため、九の月十日にはすべて終えている。風の初日に綱を解けるよう、人をそろえ、道を空け、荷を整えておく。それが支度である。
今年は、出さなかった。
◇
薄い朝日も届かない宿の帳場で、フォアラント夫人が算盤の珠をゆっくり落とす。
「アーレンツさま。使節団の十一人ぶん、九の月十日までのお約束でございましたでしょう?」
「はい」
「この三日は、帳場の奥と物置まで開けて、なんとか凌ぎました。けれど、あと十日となりますと」
「……ご無理を、おかけいたしました」
「無理はよろしいのです。ただ、明日からのお部屋は、去年のうちにほかのお客さまとお約束がございまして」
女将の手は、算盤の縁をゆっくり撫でていた。指の節は太く、荷と客を長くさばいてきた手である。その手が、今は珠へ戻れずにいる。二十年、この帳場でこの人と向かい合ってきたが、こうして言葉を探させたのは、今日が初めてである。
押さえは九の月十日まで、と私は宿を取ったときに申し上げた。例年、使節団はその日に発つからである。二十年、その先を押さえたことは一度もない。押さえる必要が、一度も起きなかった。その積み重ねが、今日は女将の手を算盤の縁に留めている。
「次の北風は、いつでございましょう?」
「九の月二十三日と、船の方が」
「……十日、でございますか?」
算盤の珠が、女将の指の下で二つ戻る。からり、と乾いた木の音が、帳場の低い天井へ当たり、行き場なく短く返ってくる。
「北風は、三日でやみます」
「三日で? そんなに短いのでございますか?」
「三日のあいだに綱を解けなければ、次まで待つよりありません」
私は帳場の柱に手を置く。磨かれた木の冷たさが掌からゆっくり腕へ上がり、肘のあたりで重く留まる。二十年、この柱の前で私が口にしてきたのは、頼みごとばかりである。頼む前に段取りを整え、女将を困らせずに済ませてきた。頼みごとの終わりに、こんなふうに詫びたことはない。
昼、宿の戸口に、淡い光をまとった明るい金の髪が現れる。
フェルディナント殿下である。何も持ったことのない、なめらかできれいな手をしておられる。その手が戸の枠を掴み、指先を白くしては、すぐに離す。
「エルスベート。港へ、君から言ってくれ」
「……」
「君の名なら通るだろう。二十年、君が言えば通ってきたのだから」
通っていたのではない。例年なら、九の月一日から荷を積ませておいたのである。私の名が通ったのではなく、日が足りていただけだ。
喉の奥が乾き、舌が口の中に張りつく。息を吸っても声にならず、口を開いたまま、間だけが伸びる。
「いたしかねます」
殿下の目が大きくなる。次の言葉を探すように口が半分ひらき、そのまま止まる。
「なぜだ?」
「王宮の荷を動かせますのは、王宮の名だけでございます」
「僕が言えばいい。僕が言えば、君はまた――」
「殿下」
私は膝を折る。重心を落とした途端、足の裏が床へ強く張りつく。それ以上は申し上げない。説き伏せるのは、私の役目ではない。
「……分からない」
「はい」
「君は、僕が思っていたより、ずっと固い人だ」
殿下はしばらく戸口に立っておられる。外の光が、金の髪の縁だけを薄く照らす。戸の枠を二度掴み、二度離してから、肩をわずかに落とし、出ていかれた。
立ち上がろうとすると、膝が細かく震えている。断る、というのは、こんなに足へ来るものらしい。背中ににじんだ汗が外の風に触れ、急に冷えていく。掌は氷のように冷たいのに、耳だけが熱を持ったままである。
◇
夕方、宿の階段に腰を下ろしていると、戸口から冷えた空気を連れて、ペピが報せを持って駆け込んでくる。
カジミールさまが荷役を三十人、港へお出しになったという。王都に残っていた荷を荷車へ載せ、道を分けて走らせる。三十人が積み込みにかかれば、次の北風には十分に間に合う。ペピの肩は息のたびに上下し、靴底から落ちる土が石床へ細く散る。
そのかわり、十一人の寝る所がない。長官は、使節団を王宮の客間へ入れると決められる。
他国の使節を王宮へ入れれば、格が変わる。自ら訪れた客人ではなく、王宮の預かりものになる。それでも、閉ざされていた客間が開く。
石段の冷たさが外套を抜けて腿へ染み込み、足の指の感覚が少しずつ遠くなる。それでも立つ気になれない。二十年、この宿の階段は登るための段であって、腰を下ろすところではなかった。今は、その硬さに体を預けている。
動かせる部屋が、この宿に一つだけある。
「フォアラント夫人」
「はい、アーレンツさま」
「私の部屋を、お使いくださいませ」
「まあ。それでは、あなたさまが」
「納屋の二階で、じゅうぶんでございます」
女将は算盤を伏せる。木枠が台へ当たり、鈍い音を立てる。それから、こちらをまっすぐに見る。
「……あの部屋を、あなたさまが出られるのでございますか?」
「はい。あの一室には、通詞さまをお入れくださいませ」
「通詞さま、でございますか?」
「王宮の門は、朝の鐘まで開きません。門の内でお休みになりますと、港からの言伝が朝いちばんに通詞さまへ届きませんので」
二十年、通詞を宿へ置いてきたのは、そのためである。門の内で寝れば、言伝は鐘のあとまで届かない。王宮へ入っていただくのは、私の一室へ残すひとりを除いた方々である。残せるのはその一人で、夜明け前の言伝を受け取れるのも、その方だけだ。それが今の私にできることの全部である。
万一のための余分でございます、と申し上げてきた一室であった。万一が来たのだから、渡すのが筋だ。そう決めると、詰めていた息が、ようやく細く抜けていく。
女将は何か言いかけ、唇をわずかに開いたまま止まる。それから口を結び、ゆっくり頷かれた。
◇
その夜、階下からかすかに上がる話し声で、オルシーニさまが王宮の客間をお断りになったと知る。
納屋の梯子の下で、ご本人からその理由を言われた。
「宿を取ったのは、あなただ」
「……そのような、大層なものでは」
「使節団の着く三月前に取った部屋だ。俺が王宮へ移れば、あなたの二十年のうちの一つが、無かったことになる」
「格が、変わってしまいます」
「変わるな。値で言えばいい買い物で、格で言えば安売りだ。俺はそれでいい」
部屋はもう、明日からの客の名で隙間なく埋まっている。問いが喉まで上がり、飲み込む前に、私は訊いてしまう。
「では、どちらでお休みになりますか?」
「厩の上を借りた。屋根はあるし、馬は静かだ」
梯子を登ると、納屋の二階の隙間が、もう塞いである。壁の向こうの冷気は、そこだけぴたりと止まっている。
板と、船の帆布の切れ端である。潮の匂いがかすかに残る布が、北向きの壁の、風の通る筋だけを端まできれいに埋めている。塞いだ者の名は、誰も言わない。日に灼けた手が板を押さえ、帆布を引く絵が浮かぶ。指先が外套の端を強くつまみ、私はその絵を慌てて畳んで仕舞う。
藁の匂いがこもる床に外套を敷き、私は膝を抱える。床板の硬さが足の裏から伝わり、低い天井の影がすぐ頭上にある。外套の端をつまんだ指から、なかなか力が抜けない。二十年、風の通らない場所は、いつも私が誰かのために作るものであった。作られた側に座ってみると、天井の低さも、板の隙間の細さも、いつもとは違う目の高さで見えてくる。
それから十日、港へ向かう荷車の音を遠くに聞きながら、九の月二十三日まで待つ。使節団は次の北風で発った。
オルシーニさまだけが残られる。王妃さまのお薬のために出したあの早船の勘定が、まだどちらの国にも付いていないからである。
城下の門に、冬の粥の釜が据えてある。冷えた石壁のそばで、黒い釜の肌だけが、暮れかけた空の色を受けている。
まだ、火は入っていない。




