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7. 井戸は、湯気が立ってから八日でございます

 九の月九日。桶を提げ、宿の階を降りていくと、井戸の口が盛り上がった白い氷に塞がっている。


 薄い氷ではない。石で組んだ口から縄を掛ける輪のあたりまで、白く厚く固まっている。宿の下男が棒で叩いているが、打った先から粉になって飛ぶばかりである。襟の内へ入り込んだ粉が首筋で溶け、そこだけ針を当てられたように痛む。


 凍りついたのは、浅い井戸からである。宿のものも辻のものも石組みが浅く、湯気の立ちはじめが早かった。深い井戸は、まだ白い息を吐いている。あちらの口が塞がるのは、これからである。


 例年なら、湯気を見た日に人をやっている。


 九の月一日の朝、あの井戸から湯気が立った。湯気が立ちはじめて八日で、口は凍る。人手を集め、王都じゅうの井戸を巻き終えるまでには七日かかる。九の月八日までにすべて終えていなければならないことは、指を折らずとも分かる。


 今年は、口を閉ざしたまま、誰にも頼まなかった。


       ◇


 城下の辻には、桶を提げた人の列が、凍った井戸から道へ長く伸びている。


 水売りは樽の脇に立ち、順番が来るたびに値を告げている。昨日より上がった、と前に並ぶ女が誰にともなくこぼす。列では誰もが肩をすぼめ、吐く息だけが白く重なっていく。子供が泣き、その細い声が凍った石畳の上を遠くまで走る。待つうちに足の裏から冷えが入り込み、膝の裏がゆっくり固くなる。


「おばさま!」


 ペピが列の脇を縫うように駆けてくる。琥珀の目をいっぱいに見開き、欠けた前歯が見えるほど息を弾ませている。


「備方の人たちが藁を探して城下じゅう回ってるんだけど、どこにも無いんだって。ねえ、なんで無いの?」


「九の月一日に、根を囲うのに全部お使いになりました」


「じゃあ、井戸は?」


「……」


 凍った井戸の口を、この子が指の背でそっと叩く。硬く乾いた音が返り、粉になった氷が縄の上へ白く散る。


「おばさま」


「……何も、申せません」


 答えなくても、この子の目は、凍った井戸の口から私の顔へ戻ってくる。


 私は列の脇にしゃがみ、井戸の縄へ指先を添えた。芯まで冷えた縄に、皮膚が張りつきかける。冷たさは手首の骨を越え、肘の内側まで細く這い上がってくる。この縄を巻いた者も、桶を吊るした者も、いまは誰も、ここから水を汲めない。


 藁でなくとも、凍るのを止められるものはある。二十年のあいだに、藁の足りない年は何度もあった。そのたびに私は言伝を出し、翌朝には、辻の井戸がむしろで包まれている。誰がむしろを運び、誰が縄を締めたかは、誰も知らないままである。


 言えばよい。いつものように言伝を出せば、それだけで済む。


 けれど、言伝を出し、自分は人目から消える。その二十年ぶんの手順が、今日は喉元でつかえ、どうしても先へ進まない。この子に走らせ、私は宿へ帰る。そうして背を向けたなら、もう間に合わない気がする。


 私は口をひらく。息だけが漏れ、いちど唇を閉じた。乾いた舌先で唇を湿らせ、それから、この子の名を呼ぶ。


「ペピ」


「なに?」


「ペピ。一緒に、来てくれますか?」


 この子の目が、また丸くなる。私の顔を確かめるように瞬きをして、それから、欠けた前歯を見せて笑う。


「あたし、走るほうが速いよ?」


「歩いてまいります。私は、走れませんから」


「じゃあ、あたしも歩く。……変なの」


       ◇


 備方の詰所では、カジミールさまが荷車の員数を数えておられた。戸口から冷気が流れ込んでも、お顔は卓から上がらない。


 卓の上には、荷車を示す木札が隙間なく並んでいる。凍傷の痕を残す左手が、その一枚ずつを端から寄せていく。冷えると指の動きが鈍るらしく、木札が触れ合う音のあいだに、一拍ずつ間が空く。


「アーレンツ殿。藁は無い」


「藁でなくとも、むしろで止まります」


「止まる、とは」


「深い井戸は、まだ湯気を立てております。あちらは、間に合います」


 木札を寄せていた長官の指が、卓の上でぴたりと止まる。


「むしろを、巻くのか?」


「はい。宿にも、市の荷にもございます。巻いて縄で締めれば、朝までは持ちます」


 買い上げられたのは、束ねたままの藁である。すでに編まれてむしろになったものは、荷を包む役に就いていて、備方の者は端から数に入れていない。二十年、私が数に入れてきたのは、いつもそちらである。


「深い井戸は、湯気が立ってから何日で塞がる?」


「湯気が立ってから、八日でございます」


 言ってしまった声が私の耳へ返ると、背中の筋が固くなった。もう遅い。王都じゅうの井戸を巻き終えているべき日は、昨日である。


 それでも長官の口から、遅れを咎める言葉は出なかった。


「――むしろの員数を出せ。辻から順だ」


 命じる声が詰所を走り、木札が鳴り、人が戸口へ駆けていく。長官は動きだした者たちの背を見届けてから、私へ目を戻される。


「アーレンツ殿。なぜ、自分で来られた?」


「……申し上げに、まいりました」


「言伝でよかろう」


「はい。二十年、そういたしてまいりました」


 喉の奥に固いものがつかえ、舌がそこから先へ動かない。二十年、私は済んだことを人の口へ預け、自分は蔵へ戻っていた。戻る蔵が無くなって初めて、預け先のない言葉が喉から胸へ重く沈む。人の前に立ち、自分の口でそれを渡すだけで、膝から力が抜けていく。荷車を押すよりも疲れる。


 ペピが私の袖口を指先で引き、私だけに届く小さな声で言う。


「言ったの、おばさまだよ」


「私は、何も」


「言ったってば」


       ◇


 夕方、空が鈍い灰色に沈むころ、カジミールさまは荷車を二十台回された。


 むしろは、その晩のうちに深い井戸へ回された。辻の奥では、井戸の口から、灯りに透ける湯気がまだ細く立っている。縄も桶も、朝と変わらず、軋みながら上下する。むしろは縄で固く締められ、その表だけに霜が薄く降りていた。指先でそっと触れると、布の内側には、かすかな温みが残っている。


 ただし、荷車をむしろへ回せば、他所へは回らない。南の材木商の荷は、今日、王都へ入るはずであった。八の月五日の日暮れに人が出て、十日遅れて、九の月九日である。長官はそう見積もっておられる。


 その荷を蔵へ運び入れるはずの荷車は、いま、川と王都のあいだを往復している。荷は城門の外で四日待つことになった。


 薪の荷がまた遅れる。冬を越すための薪が、また遠くなる。


 夜、宿の卓には、湯の入った器が置かれている。


 湯気が細く立ちのぼり、薄暗い天井の梁に触れるあたりで消えていく。今朝、井戸の口を塞いでいたものと同じ白さが、ここでは器の上でかすかに揺れている。


「熱いうちに」


 戸口でそれだけおっしゃり、オルシーニさまは足音を残して行っておしまいになる。緑の目がこちらに留まったのは、ほんの一瞬である。


 器を両手で包むと、掌の芯へじわじわと熱がしみてくる。けれど耳は、それよりも熱い。ペピに一緒に来てくれと言ったときから、冷たい道を歩いても、まだ引かない。人に何かを頼む声の出し方を、私はこの年になって初めて使った。その声が、まだ耳の奥に残っている。


 階下で、港からの使いの声がしている。言葉までは拾えず、床板を通る響きだけが足の裏に届く。


 北風が、そろそろ吹く。

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