6. 藁は、村を三つ回って十五日かかります
九の月一日。朝の窓には、薄く氷が張っている。
庭へ目をやる。草の縁が白いのではない。葉の先から根元まで、草そのものが白い。荒れた指先で窓の桟を撫でると、乾いた木のささくれが触れ、爪の際に鈍い痛みが走る。掌をひらき、強張った指へ息を吹きかける。白い息の向こうに、八の月十五日の朝が重なった。
あの朝も、こうして窓を開け、まだ青みの薄い空を見上げている。北の空から南へ、黒い点の連なりが細く長く伸びていく。羽ばたきも鳴き声も届かない。ずいぶん高いところを、少しの迷いも見せない速さで渡っていくのである。
渡り鳥が発つのが、例年より早い。
早く発つ年は、冷えが早い。二十年、空の高さと土の冷たさを見比べてきた。
例年なら、その朝のうちに北の三つの村へ人をやっている。脱穀の済んだ藁を分けてもらい、乾いた匂いごと荷車へ積む。車輪の軋む音を朝から晩まで街道に響かせながら王都へ運び、庭と畑の根へ掛け終えるまでに十五日かかる。八の月三十日には、木の根元が白い襟を巻いたようになり、風が通るたび、藁がかすかに鳴る。
今年は、やらなかった。窓の桟から手を離しても、指の内側には木の冷たさが残っている。
◇
昼。城下の坂を降りると、弱い日差しを受けてなお、道沿いの果樹の根元が湿ったように黒ずんでいる。
持ち主の女が木のそばに屈み、指の腹で土を掻いている。掻いても掻いても、下から出てくるのは同じ色である。爪の隙間へ黒い土が詰まっても、その手は止まらない。冷えた土の匂いに、腐りかけた甘さが混じっている。その甘さの正体を、私は知っている。凍って裂けた根が、内側から水を出しているのである。
土を掻く指が止まり、女がこちらを見上げる。目が合う。唇がわずかに開きかけ、それから女は、また土のほうへ屈む。訊かれても答えられることが、いまの私には一つも無い。
「おばさま!」
麻色の髪をぐしゃぐしゃにしたペピが、白い息を散らしながら坂の上から飛んでくる。裸足に近い履物が、凍った土を忙しく叩き、そのたびに乾いた音が跳ねる。
「王宮の葡萄も真っ黒だってさ。庭番のじいさんが座り込んでるの。ねえ、黒くなった根って、戻るの?」
「戻るものと、戻らないものがございます」
「どっちなの?」
「見なければ、分かりません」
「じゃあ、行こ。あたし、案内する」
この子は私の袖を掴んだまま、もう半歩ぶん先へ身を乗り出している。布越しに伝わる指の熱は、凍った風の中でもはっきり分かる。
「案内は要りません。二十年、通った道でございますから」
宿にいれば、見ずに済む。そう分かっているのに、足はペピに引かれるより先に坂を登りはじめる。膝から下が通い慣れた道を覚え、靴底へ返る石の硬さを拾いながら、私の分別だけを後ろへ置いていくのである。
王宮の庭では、砂色の髪の男が、冷たい風の中に立っておられた。
備方長官カジミールさまは、きちんと撫でつけた髪を風に乱されるまま、凍傷の痕の残る左手で葡萄の畝を指しておられる。その指の先へ人が走り、やがて戻ってくる。戻るたび、腕には何も抱えていない。畝の土は霜柱に押し上げられ、踏むたびに足の裏で乾いた音を立てて崩れる。
「員数、日数、値。北の藁は、仮道の向こうで止まっておる」
声は低く平らで、語尾にも揺れがない。事実を三つ並べておられるだけである。その静けさが、私の耳には重く残る。
「荷車は、一台ずつしか通れませんでしょう?」
「通れぬ。三つの村へは人をやった。戻りが遅い」
乾いていない丸太で組んだ、あの三日の仮道である。切り口に水気の残る生木では春までもたないと申し上げたのは、つい先日のことであった。もつもたないの前に、あの道はもう、藁一束の足を取り、王都へ届く日を遠ざけている。
「藁は、村を三つ回って十五日かかりますから」
「――十五日」
長官がこちらを向かれた。淡い青の目が、まっすぐ私を捉えている。背中を抜けた風が、衣の下まで冷やしていく。
「では、間に合わぬということだな」
「はい」
私はそれ以上、申し上げない。頼みに行くこともしない。私にはもう、王宮の名がない。閉じた口の奥で、舌だけがひどく乾いている。
けれど、視線を落とせば、目の前に黒い根がある。
「若木からでございます。古い木は、一冬なら持ちます」
畝を示していた長官の手が止まった。凍傷の痕が残る指先だけが、わずかに土のほうへ曲がる。
「……その分けは、どこから出た?」
「二十年、そのように見てまいりました」
「見よ、と書いて渡せるものか?」
「……書けますのは、そこまででございます」
答えになっていないことは承知している。霜の粒の細かさも、鳥の発つ日も、根の黒み方も、口にすれば一言で済む。だが、その一言では、指先で確かめた冷たさも、鼻に残った土の匂いも渡らない。二十年ぶんの朝を、風の湿りまで含めてそのまま人の手のひらへ移す方法だけが、いまだに見つからない。
◇
夕方までに、城下の藁が一束も残らなかった。軒下にも厩にも、あの乾いた色は見当たらない。
備方の者たちは荷車を引き、辻という辻を回ったのである。屋根の葺き替え用も、家畜の敷き藁も、値をつけて買い上げ、乾いた束を荷台へ積み上げていく。厩の敷き藁まで剥がされ、馬は板の上で足を踏み替え、乾いた蹄の音を立てている。剥がされた土間から立つ汗と糞と乾き草の混ざった熱い匂いは、冷えた風に触れるそばから薄くなっていく。
若木から順に、根元へ藁が寄せられていく。乾いた茎が擦れ、畝のあいだでかさかさと鳴る。古い木は、黒い土に根をさらしたままである。
葡萄の根は助かった。
私は畝の外に立ち、藁に囲われていく根を見ている。手は動かさない。動かす筋合いが、もう無い。それでも肩から先には水を含んだような重さが残り、風が首の後ろを撫でるたび、指は何かを掴もうとして勝手に曲がり、冷たい空気だけを握る。
◇
夜、宿に戻ると、卓の上に小さな壺が置いてあり、灯りを鈍く返している。
蓋を取ると、羊の脂の匂いが、冷えた部屋の空気へゆっくり広がった。獣のにおいに、かすかな塩の気配が混じっている。指ですくえば固く、けれど体の温みを受けるにつれ、皮膚の上で静かに緩んでいく。
「俺の国の船乗りは、縄で手が切れると、これを使う」
戸口に、オルシーニさまが立っておられる。焦茶の髪にはまだ外の冷えが残り、灯りを受けても濡れたように暗い。日に灼けた手首では、綱の痕のあたりだけが赤く浮いている。
「……なぜ、私に?」
「あなたの手が、昼のあいだ、ずっと握りしめられていたからだ」
握った覚えはない。けれど、言われてから指をひらくと、節が小さく軋む。
「見ておいででしたか?」
「見ていた。あなたは何もしていない。何もしないでいることに、あれほど力が要るとは知らなかったな」
私は自分の手を、灯りの下へ出して見る。爪の際が割れ、その筋に沿って細く血がにじんでいる。二十年、蔵と厨と染物屋のあいだを行き来し、冷水にも灰にも触れて、この手はこうなった。誰にも見せずに済ませてきたのは、隠していたからではない。見ようと足を止める人が、いなかったからである。
頬の裏側に熱が集まり、耳の縁までじわりと広がる。指を袖へ引き込みかけ、布に爪が触れたところで止める。それでも、手を後ろへは回さず、灯りの下に置いたままでいる。
「……ありがとうございます」
礼の言葉が、まだ舌に馴染まない。私のために差し出されたものを受け取った覚えが乏しく、声をどこへ置けばよいのか分からないのである。
オルシーニさまは何も答えず、戸口の枠を指で二度、こつこつと叩いて出ていかれた。足音が廊下の暗がりへ遠のいても、その小さな音だけが耳の奥に残っている。
窓を閉めるとき、下の井戸端から桶の触れ合う音が、冷えた夜気を伝って上がってくる。桶どうしの乾いた響きに、窓枠へ置いた指が止まる。
今朝、あの井戸から湯気が立っていた。




