5. 乾いていない丸太では、もちません
八の月二十四日。朝になっても空は低く、長雨が切れ目なく降りつづいている。
屋根を打つ雨音で、夜のうちに何度も目が覚めた。暗がりで耳を澄ますたび、軒から落ちる水音が少しずつ太くなっていく。雨の音は、川の音に似てくると危ない。祖母が、雨のたびに繰り返した口癖である。
昼、戸が壁に当たる音とともに、ペピが泥だらけで駆け込んできた。麻色の髪が額に貼りつき、細い肩が息のたびに上下している。
「峠、崩れた! ビルケンフェルトの人、こっち来られないって!」
「怪我をした方は?」
「いないって。荷車が一台、落ちたって」
「牛は?」
「牛は無事。おじさんが引っぱり上げたって」
北のビルケンフェルトは、六十二人が暮らす村である。峠道は、モルゲン親方の荷を北へ運ぶ道でもあった。切れたのは、その六十二人と王都をつなぐ、ただ一本の道である。
今年の雪解けは、流れ出す水が多かった。そういう年は、峠の土が深くまで緩む。だから長雨の前に、丸太を組んで斜面を支える。
例年なら、八の月二日に人手を頼み、そこから十日かけて丸太を組み、八の月十二日までに終える。声をかけた人手が集まり、斜面で組み終えるまでに、十日かかりますから。
今年は、まだ組んでいない。むき出しの斜面が、雨を受けつづけている。
組んであった年は、崩れなかった。
その一行が、頭の中で妙に静かに繰り返される。恨みでも悔いでもない。済ませてあれば、道はまだつながっていた。ただそれだけのことが、屋根を打つ雨に重なり、目を閉じても遠のかない。胸の奥に固いものが残って、息がいつもより浅くなる。
二日に人手を頼んでいれば、十二日には終わっている。八の月一日の夜に役目を解かれた私には、その二日が来ないまま、今日になった。それだけの話である、と胸の内で区切るたび、舌が上あごから離れにくくなる。
「あたし、知ってるよ」
「何を、でしょう?」
「丸太なら、去年の余りが水車小屋の裏にあるよ。あたし見た」
「……参りましょう」
私は外套の襟を立て、向こうが白くかすむ雨の中を峠の下まで歩く。踏むたびに泥が足首を引き、冷たい水が靴の縫い目から染みてきた。二十年、この道を自分の足で歩いたことは一度もない。人手を頼むのはいつも城下の帳場で、峠は、頼まれた誰かが見に行く場所だった。話にだけ聞いていた坂が、今日は息を切らすほど長い。
濡れた土の匂いは、坂を上がるほど濃くなっていく。木の根が剥き出しになった斜面から、濁った細い水が何本も筋を引き、足元では小石が絶えず転がっていた。いまは靴先を濡らすだけのこの水が、やがて土を含み、丸太を押すのである。
◇
水車小屋の裏には、去年の余りが、低い軒の下に切り口をそろえて積まれていた。外側は吹き込む雨で黒く濡れているが、重なり合った内側はまだ乾いている。
去年、余った分をここへ寄せさせたのは私である。使う当てがあったわけではない。ただ、余ったものを濡れない場所へ置くことが、いつの間にか手の癖になっていた。私の手を離れてからも、その癖のほうが、私より長く働いている。
「去年の余りが、水車小屋の裏にございます。丸太が二十本」
私がそう告げると、備方の人は丸太に手を置いて数を検め、そのまま泥を跳ね上げて走っていく。
「二十本では足りませんな」
「足りません。あとは、乾いていないものになります」
「乾いていないと、どうなります?」
「春までは、もちません」
その日から、備方の長官が衛兵百人を動かされる。雨脚が強まっても、峠では丸太を打つ音が絶えず、三日で仮道が通った。
三日目の夕。雨の峠には、百人ぶんの灯が斜面に沿って並び、その影が泥水の上で細かく揺れている。長官はその真ん中に立ち、員数と日数を声に出しながら、休む間もなく指図をしておられる。雨音の向こうまで通るその声を聞くたび、私は外套の下で冷えた指を組み直した。あの人が来なければ、村は冬まで切れたままだったろう。
乾いた丸太は二十本しかない。残りは、四十日乾かすはずの丸太を、そのまま使うことになる。
「乾かすのに四十日かかる。待てぬゆえ、生木で組む」
「……来春、もう一度でございますね」
「そうなる。それも先に申し上げておく」
乾いていない丸太では、来春もう一度組み直さなければならない。長官はそれを隠そうとはなさらず、雨の中にいる者すべてへ、先に告げられる。それを聞いた衛兵たちは顔を上げず、濡れた縄を握り直している。
◇
仮道の端で、長官が私の正面に立たれる。背後では泥を踏む音と掛け声が続いているのに、そこだけ雨音が近い。
雨が、砂色の髪を額に貼りつけ、頬を伝って顎から落ちていた。凍傷の痕のある左手は、丸太の切り口に静かに置かれている。切り口はまだ白く、その指の下から、木の内側に残った水がじわりと滲んでいた。
「あなたが倒れたら、この国は一冬で死ぬ」
「……」
「小官は、誰にでも渡せる形にした」
「……」
「あなたのやり方は、あなたが死ぬまでしか続かない」
正しい。それはずっと前から分かっていて、それでも二十年、私は誰にも申し上げずにきた。雨の冷たさが、外套の肩を抜け、背骨に沿って落ちていく。言い返す言葉を探して口を開くが、舌は動かない。探しても出てこないことに、私はどこかで安心している。そのまま息を吐くと、奥歯に入っていた力だけがゆっくり抜けていく。
「……はい」
「それだけか?」
「はい。それだけでございます」
長官は何か言いかけ、濡れた唇を閉じられる。凍傷の痕のある左手が、丸太の上でわずかに動いた。雨はその横顔を絶え間なく打っている。
◇
宿に戻ると、薄暗い部屋の卓の上に、外套が掛けてある。部屋は冷えていて、そこだけ乾いた羊毛の匂いがする。
襟に指先で触れると、布の奥まで乾いていた。火のそばで、誰かが時間をかけて乾かしておいたのである。
「オルシーニさまが、昼のうちに」
「……何も申し上げておりませんが」
「ええ。あの方は、いつもそうでいらっしゃいますね」
女将は私の顔を見て、そう言い、返事を待たずに帳場へ引っ込む。
私は濡れた外套を脱ぎ、乾いたほうの袖口に指を入れる。乾いた羊毛が肌の熱を返しはじめ、そのぬくもりが手首から肩へゆっくり移っていく。二十年、私は人の要るものを先に用意してきた。けれど、用意されたものに自分の腕を通すのは、これが初めてになる。袖を引き上げるだけなのに、肘が途中で止まった。袖口にたまるわずかな重みが、思っていたよりずっと重い。
温かい、と言葉にするより先に、喉の奥がきゅっと狭くなる。順番が逆である。息を飲み込み、私はしばらく、袖のなかで手を握ったり開いたりしていた。
「……いただきます」
誰にともなく、私はそう申し上げる。声は雨音に紛れるほど小さく、自分の耳にだけ届く。
階下で声がした。女将が誰かと話しているらしく、途切れた言葉が階段を伝ってくる。
「エルスベート」
階段の下に、王太子殿下が立っておられる。金の髪は雨を含んで額に貼りつき、濡れた肩から床へ雫が落ちている。それでも、青い目だけが乾いていた。手袋をしていない手は白く、何も持ったことのない、きれいな手である。私は手すりに置いた指先を、木目へそっと押しつけた。
「戻ってくれ」
「何を、でございましょう?」
殿下は口を開かれる。けれど声は出ず、そのまま唇を閉じて黙られる。脇に下ろしたその手の指が、何かをつかむようにゆっくり曲がる。
雨の音だけが、開いた戸口から階段のあいだへ落ちてくる。殿下の喉がかすかに動き、また止まった。私は手すりから指を離し、この方が言葉を探しておられるのを、二十年ぶんの静かさで待つ。濡れた裾から雫が落ちても、目はそらさなかった。
「……分からない。何が足りないのかが、分からないんだ」




