4. 船は、十日かかります
八の月十八日。私は宿の窓辺に座り、冷えた窓の向こうを見ないまま、指を順に折って日数を数えている。
例年なら、八日に人をやっている。
王妃さまのお薬は、南のミラルドからしか届かない。残りが十日ぶんを切れば、南へ人をやる。船が、十日かかりますから。八日に出せば、十八日に届く。二十年、その勘定を一度も外したことはない。
指を折るたび、曲げた指先から冷えが掌へ広がっていく。数えても届かないところに数があるというのは、ずいぶん妙な心地がする。窓を細かく叩く雨音が、勘定の隙間へ、途切れず入り込んでくる。
十六日に、侍医が、薬は十八日の朝には尽きると告げたそうである。備方の長官は、その日のうちに最速の早船を仕立てられた。それでも、着くのは二十六日。八日遅れる。
「八日遅れる。それだけは、先に申し上げておく」
長官は声を濁さず、遅れる日数を、そのまま奏上されたという。
同じ日のうちに、長官は王都じゅうの薬種商へ人を出された。去年までの便の売れ残りなら、同じ南の薬が、店ごとに少しずつ残っている。古いため、効きは落ちる。それでも、かき集めれば二十六日までは繋げられる。
ただ、薬種商は城下じゅうに散っている。一軒ずつ戸を叩き、品を検めて集め終わるころには、十八日の昼になるという。
その引き換えに、長官は王都の薬種を買い占める。ほかの病人の手には、もう渡らない。
私はその話を聞き、膝の上で指を重ねたまま、何も申し上げなかった。長官の判断に、違うとは申せない。王妃さまが倒れれば宮が止まる。宮が止まれば、冬を越せない人がもっと出る。どちらへ手を伸ばしても、掌の内側が痛む。
痛むほうを選び取るのは、私の得意な仕事ではない。私はいつも、どちらの手も放さずに済む道を、先に押さえておく側である。
◇
十八日の朝、薬が尽き、王妃さまは倒れられた。
王宮からの使いが、雨を肩に残したまま宿へ来る。私は馬車を待たず、濡れた坂を歩いて上がる。
寝所は、厚い帳が引かれ、朝だというのに暗い。王妃さまの、銀に近い灰のお髪が、白い枕の上へ細くほどけている。掛布の上に出た痩せたお指に、指輪はもう留まりきらず、わずかに傾いている。
去年の秋には、その指輪はまだ指に合っていた。春に、輪と肌のあいだに隙間ができたのを見て、私は侍医に残量を数えさせている。そのことも、どなたにも申し上げていない。
「支度方を呼べと申した」
「……役目は解かれてございます」
「呼べと申した」
「はい」
私は床のそばに膝をつく。衣越しにも、石の冷たさが膝の骨へすぐに届く。
「いま私にできますのは、支度ではございません」
「では、何ができる?」
「……そばに、おります」
できることは、それだけである。二十年、私は必要なことを先に済ませてきた。先に済ませられないものの前へ、手ぶらで座るのは、これが初めてになる。膝の下の冷えが布を通り、ゆっくり背骨に沿って上がってくる。
薬は十日かかる。十日は、どれほど勘定をし直しても縮まらない。私は膝を揃え直し、手を重ねて膝の上へ置く。二十年、この座り方を知らずに済んできたのである。
枕の上で、白い息が唇からかすかにほどけ、喉の奥で短く鳴る。ジョゼフィーネ王妃さまが、頬を枕に沈めたまま、目だけをこちらへ向けられた。
「……エルスベート。わたくしは一度も、そなたを名で呼ばなんだ」
薄暗がりのなか、灰青の目だけが、まっすぐ私を見ている。
私は返事をしようと息を吸う。けれど、その息は喉の手前で止まり、声にならない。自分の名の音だけが、寝所から遠く離れたところで鳴ったように、耳の奥へ残る。喉には、二十年ぶんの返事が、形にならないままつかえている。
二十年、私はこの方の薬の日数を数えてきた。数える指先を、この方の目に入れたことはない。見えないところで済ませるのが役目であった。役目どおりにしてきたはずなのに、いま初めて、膝の上で組んだ指がわずかにほどける。その指を、元どおりに組み直せない。
◇
昼、長官が集めた薬種が寝所へ届く。古い薬で、効きは弱い。それでも王妃は持ちこたえた、と侍医は奏上している。二十六日の船まで、これで繋がる。白く乾いていたお顔にうすい色が戻り、胸元を上下させるお息も、少しずつ深くなっていく。
日暮れ、ミラルドの船が着いたという報せが、廊下を急ぐ足音とともに入る。
私は港まで下りる。雨に煙る波止場を、灯を提げた人足が、足元の水を蹴りながら行き来している。荷を降ろす掛け声が、暗い海から寄せる波音の上へ、途切れ途切れに乗ってくる。
オルシーニさまが桟橋の先に立っておられた。潮と雨を吸った外套は肩から重く垂れ、濡れた裾だけが風を受けて鳴っている。
「なぜ?」
「八日に出した」
「……今年の便は、出ておりません」
「知っている」
オルシーニさまは、懐から小さな控えを出される。表紙は手の跡で深い色になり、角が丸く擦れている。
「毎年、八の月八日に南へ薬の使いが出る。二十年、一度も外れていない」
桟橋の板が、下から押す波に持ち上がり、足の下でわずかに軋む。
「今年は出なかった。だから俺が出した」
「……八日、早うございます」
「早いほうがいい。古い薬で八日は、長い」
桟橋の灯が風にあおられ、一度大きく傾く。濡れた板の上で、向かい合う影も長く揺れる。
「……それは、あなたさまのお仕事ではございません」
「仕事ではない。覚えだ」
「覚え?」
オルシーニさまは、控えの背を指先で軽く叩かれる。湿った革が、低い音を返す。
「整っていたものを、書いてきた。それだけだ」
控えの頁を、日に灼けた指がゆっくりめくっていく。紙の擦れる音が、桟橋を叩く波のあいだで、かすかに続く。私はその手元から目を離せない。私が誰にも知られず整えてきた二十年ぶんの朝が、あの薄い束の中に、私ではない人の字で残っている。
私は書き残さなかった。跡を残さないことが、私の作法である。それを書き留めた人は、この国の外に一人だけいる。
「二十年前だ。俺は十四で、随員としてこの国へ来ている」
「……」
「夜、誰かが白湯を置いていた。誰だか知らない」
「……」
「それから俺は、こういうものを書き留めている」
私は、その頁から目をそらし、雨の流れる桟橋へ視線を落とす。外套の内で、開きかけた指を静かに握り直す。
二十年、私は誰の目にも留まらない仕方で仕事をしてきた。それを見られていたと知ることは、褒められるのとはまるで違う。息を吸う場所が胸の内からなくなり、足の裏から力が抜けていく。桟橋の板の冷たさだけが、濡れた靴を通して妙にはっきりと伝わってくる。
「あなたに礼を言われる筋合いはない、という顔をしている」
「……そのような顔を、しておりましたか?」
「二十年、同じ顔だ」
◇
港からの帰り道、雨はいっそう強くなる。肩を打つ粒が、外套越しにも重く伝わってくる。
秋の長雨である。軒から落ちる水が石畳を打ち、その音は、坂を下るほどだんだん太くなっていく。
私は、雪解けのころに見た川の水嵩を思い出している。今年は水が多かった。多い年は、峠の土が緩む。




