3. 黒は、染め上がるまでに二十日かかります
八の月十日。朝、薄い霧が屋根のあいだに残るころ、アイヒベルク侯爵さまの訃報が城下まで降りてきた。
鐘が鳴っている。胸の骨にまで響く、低いほうの鐘である。その響きを数えるすべは、八つの年に祖母から教わっている。
ほどなく喪の令が出る。三日のうちに、宮の者はみな黒を着なければならない。
二の月に、あの方の唇の色が、それまでと変わっていた。階段の途中で足を止め、浅く息を継がれるようにもなっている。弟君も、同じ階段で同じように、肩を上下させておられる。だから黒を染めさせた。目に入った変化に合わせ、必要な支度をしただけである。
王都の染物屋は、黒を染め上げるのに二十日かかる。三日では、どれほど急かしても間に合わない。宮が止まる。しかも、南の使節が見ている、その目の前で。
昼前、ペピが戸をせわしなく叩いた。扉を開けると、頬を赤くし、胸を大きく上下させている。
「来て、って。長官さまが」
「どなたの遣いですか?」
「備方の。蔵、ぜんぶ開けたんだって。黒、出てこないって」
「……分かりました」
私は外套を取り、自分の足で王宮まで歩く。石段に足をかけたとたん、二十年ぶんの癖が戻り、歩みがひとりでに速まった。急ぐ理由はもう無い。歩幅を狭めようとしても、体は先へ出て、胸の奥が狭くなる。浅い息を継ぐたび、自分の体にはまだ支度方の時間が残っていると思い知る。
◇
西の廊下で、ご令嬢がたとすれ違う。淡い色の裾が重なって揺れ、その真ん中に、あの夜の男爵家の方がおられる。ハイケさま、と隣の誰かが呼んだ。
「何もしていなかった方が、よく二十年もいらしたこと」
「およしなさい」
ハイケさまはそれだけ言い、まつ毛の下へ目を伏せられる。私は膝を折り、唇を結んだまま、その脇を行き過ぎる。
背後で、重なった衣擦れが少しずつ遠のく。首の後ろが熱を持ち、外套の襟が肌へ貼りつく。二十年、私は人の目が届かない場所にいた。人の目が集まる場所では、息を胸の上でしか吸えないらしい。
廊下の窓の向こうで、中庭の落葉が風に寄せられている。掃かせるのは十日ごとで、次は十二日である。もう私の仕事ではない。そう分かっていても、視線は重なった葉を分け、数を拾ってしまう。
備方の長官が、階の下で背筋を伸ばし、こちらを待っておられた。
砂色の髪には白いものがまじっている。撫でつけた生え際まで乱れがなく、左手の甲には古い凍傷の痕が残る。淡い青の目は私ではなく、階の暗がりへ静かに向けられていた。私とは歳の離れた方である。声にも目にも余計な熱がなく、その前では、乱れたこちらの息だけが耳につく。
「小官はリンデナウである。蔵は員数どおり、ひとつ残らず検めた。黒は無い」
「はい」
「裏門の門番は、二の月に染物屋の荷が入ったと言う。どこへ入れたかは知らぬそうだ」
「運び入れましたのは、支度方でございますから」
「では、支度方の帳を出せ」
私はすぐには口を開かず、指先を外套の縫い目へ沿わせた。この問いには、二十年ぶん、同じ答えしか持っていない。
「帳は、ございません」
長官の眉が、わずかに持ち上がる。
「無い?」
「書いておりませんので」
「二十年、一枚もか」
「はい。一枚も」
長官はまばたきの間だけ黙り、その場で令を口にされた。
「廷臣は喪章のみとする。王家と侯爵家の黒は、これから染めさせる。染物屋を二十日押さえる」
「三日には、間に合いませんが」
「間に合わぬものは、間に合わぬと言う。式は日延べせぬ」
声は低く、どこにも揺れがない。黒が無いと分かったその場で、この方は三日後の式の形を決め、宮じゅうを次の動きへ進ませてしまわれる。
横から、ペピが口を挟む。麻色の髪は、走ってきた勢いのまま、耳の横ではねている。
「あたし見たもん。二の月に、裏門から荷が入ったの。ぐるぐる巻きの、黒いやつ」
「それでも、どこへ入れたかは分からぬ」
その場の誰も、荷の行き先を知らない。知っているのは、私だけである。唾を飲んでも、喉の乾きは消えない。
「西の階の下の、乾き蔵でございます」
◇
一同が西の階の下へ移る。そこは天井の低い物置で、蔵ではない。天井の太い横木に頭が触れそうな狭さだが、代々の支度方が、風を通して布を乾かすのに使ってきた場所である。
扉を開けると、乾いた土と藍と灰の匂いが、冷えた空気とともに流れ出す。息を吸ったまま、指が自分の袖口を探る。祖母の袖からは、いつも同じ匂いがしたものだ。
暗がりの奥から、黒布が十二反、折り目も崩れずに出てきた。
王家の分が六反。アイヒベルク侯爵家の分が五反。残る一反は、侯爵さまの弟君の分である。重なった黒は、灯りの下で、奥ほど深い色に見える。
弟君は、亡くならなかった。
畳まれたその布を前に、私の指だけが動きを止める。反物に触れると、乾いた織り目が指の腹をざらりと擦る。当たった分も、外れた分も、二の月の私の手には、同じ一日の仕事として残っている。
二十年のあいだに、私は何度も外している。けれど、外した回数を数えたことはない。指を折って残したところで、誰の役にも立たないからである。
長官は積まれた反物を見下ろされた。握られた左手の甲で、古い凍傷の痕が白くなる。やがて、先ほどより低く声を落とされた。
「……誰だ。これを、二の月に頼んだのは」
私は唇を閉じたまま、答えない。済ませたことは、申し上げない。外套の端をつまむ指先だけが、少しずつ冷えていく。
「……あたし、ちゃんと見てたよ。ずっと」
ペピが代わりに答え、その声が低い天井へ当たる。長官の淡い青の目が、そこで初めて、まっすぐ私へ動く。
長官の目が自分に止まると、首の後ろがまた熱を持つ。二十年、この物置の扉を開けたのは、私と祖母だけである。いまは灯りがいくつも持ち込まれ、低い天井の染みも、壁ぎわの埃も浮かび上がっている。明るいところで見る反物は、思っていたより黒くなく、折り目の端に藍がかすかに残っている。
「員数、日数、値。三つとも合わぬ」
「合いませんでしょうね」
「合わぬものを、小官は令にできぬ」
「ごもっともでございます」
令はもう出ている。この十二反で変わるのは、王家と侯爵家が黒を着られること、それだけである。員数にも日数にも値にも収まらない布が、低い灯りの下で静かに重なっている。
喪章だけを着けた廷臣が、黒をまとう王家のうしろに並ぶ。低い鐘と靴音のあいだで、喪の式は滞りなく済んだ。作法は一段崩れ、裾の色は揃わない。それでも列は進み、祈りの声は途切れない。
二の月に染めさせたとき、こういう日の列まで目にしていたわけではない。ただ、黒は二十日かかる。そのことを、手が覚えていただけである。
◇
夕。高い窓の光が薄れた喪の席の隅に、オルシーニさまが、人の流れから少し離れて立っておられた。
黒を着ておられる。襟の重なりも、袖の長さも、この国の作法どおりの黒である。布は肩にも袖にも無理なく沿い、借り物らしい皺がない。
「二十年前から、この国用に一着持ってきている」
「……ご存じでしたか?」
「知らねば、恥をかく。それに」
言葉を切ったオルシーニさまは、腕にかけたもう一着を、静かにこちらへ広げられる。肩から裾まで、ちょうど私の丈である。
「使節団は、喪と祝いの両方を積んでくる。丈の違うものを、幾つも積む」
「……予備の一着、でございますか?」
「そうだ。着る者が出てから、丈は決まる」
「あなたの分だ。着るかどうかは、あなたが決めればいい」
差し出された黒は、まだ染めたての匂いを細く放っている。折り目は固く、船旅を経たはずの布に乱れがない。南で染めて、そのまま船に積んできたものらしい。
「……私はもう、喪に出られる立場ではございません」
「知っている。それでも持ってきた」
「なぜ、私の丈をご存じなのですか?」
「二十年、同じ廊下ですれ違っている」
答えにはなっていない。それでも、布を持つ手は揺れず、私の喉からも言い返す声は出なかった。視線を落とすと、黒い布の上に、自分の指の白さだけが浮いている。
その夜、声をひそめた噂が、また廊下を伝って降りてきた。王妃さまのお手が震えていらしたという。
南への薬の便が、今年はまだ出ていない。




