2. 薪は、八の月五日までです
八の月五日。朝。
窓の外の草は霜をまとって真っ白で、白みはじめた空の下、細く光っている。それを見ているあいだも、私の頭は勝手に数を数えている。
例年なら、今日が期限である。
八の月一日に兆しを見て、翌日には人を走らせ、五日の朝までに親方へ返事を入れる。そうして冬の薪は王都へ向けて動き出す。五日の朝を過ぎれば、荷は北の鉱山へ回される。
毛布の下で、私は膝を抱えていた。数えても、もう頼む先は残っていない。それでも数えることをやめない頭が、これほど人を落ち着かなくさせるものだとは、これまで知らずにきた。両手を袖の奥へ入れても、指先だけは冷えたまま、少しも温まらない。
二十年、この頭は毎朝いくつもの数を吐き出してきたのである。薪の束、氷の目方、湯の桶、蝋の本数。数が出れば、そのぶんだけ人へ渡してきた。渡す先が消えても、数のほうは何も知らない顔で出てくる。
窓の下の通りを、荷を積んだ牛が一頭、白い息を吐きながらゆっくり過ぎていく。蹄の音が石畳に低く響き、その音が朝の冷気へ溶けるまで、私は動かずにいた。
「おばさま!」
戸をせわしなく叩いたのは、ゆうべの走り子の子供である。
「あたし、ペピ。ねえ、王宮の人がまだ来ないから、荷車、昼には北へ出るってさ。おばさま、それ知ってた?」
「知っております」
「知ってるのに、なんで座ってんの?」
「頼める立場ではございませんから」
「立場って、なに?」
麻色の髪の先から、雨でもないのに細い雫が垂れている。ここまで休まず走ってきたらしい。息はまだ整わず、薄い肩が小刻みに上下している。それでも、この子は腰を下ろそうとしない。走り子というものは、座らないらしい。
「王宮の名で、人に物を頼める、ということでございます」
私は膝の上で指を組み、冷えた指先を手の内へ隠した。
「ペピ。親方の名を、備方の長官さまにお伝えなさい」
「なんて?」
「八の月五日の朝を過ぎると、北の鉱山へ参ります」
「なんで自分で行かないの?」
「王宮の名では、もう頼めませんので」
ペピが片足で床板を鳴らす。乾いた音が、狭い部屋の隅まで響く。
「じゃあ、おばさまの名前で頼めばいいじゃん」
琥珀色の目は、瞬きもせずこちらを見つめている。子供の目というのは、大人が言葉にせず覆っておいたところへ、まっすぐ届いてくる。
私の名で頼めば、親方は取り置くだろう。四十年の付き合いとは、そういうものである。けれど、その代金を払うのは私になる。二十年、私は一度も自分の名で払ったことがない。
「……いたしません」
「なんで?」
「決めましたので」
口にした言葉が自分の耳へ戻ってきて、私は膝の上の手をそっと握り直す。決めた、という言葉を自分のことに使ったのは、たぶん二十年ぶりである。
胸の奥が、妙に静かになる。息を吸っても、引っかかるものも、ほどけるものもない。ただ、ここから先の朝は、私が数えなくてよい。そのことが体の内側へ落ちてくるにつれ、膝にも肩にも力が戻らなくなる。
「ふうん」
そう言うなり、ペピは戸口から飛び出していく。走り子の足は、王都でいちばん速い。遠ざかる小さな背を見送りながら、あの子なら、あの坂は一息で駆け上がるだろうと思う。
◇
昼。表通りへ出ると、モルゲン親方の荷車が十四台、濡れた車輪をきしませながら、列をなして北へ向かいはじめている。
備方の長官、カジミール・フォン・リンデナウさまは、ペピの話を聞くなり、その場で人を出されたという。字を書けと言われたペピは、「読めないもん」と返したそうである。そのぶんの遅れさえ出ていない。長官の人は、昼前には親方のところへ着いている。
けれど、断ったのは親方のほうだったという。
昼過ぎ、ペピが息を弾ませ、表通りまで戻ってきた。長官の人が親方から持ち帰った言葉を、声の低さまでそのまま真似してみせる。
「アーレンツのお嬢さまのお声でなければ、取り置きはいたしません」
「……そう仰いましたか?」
「うん。おじさん、それしか言わなかったって」
「もういちど、言ってみてくださいますか?」
「アーレンツのお嬢さまのお声でなければ、取り置きはいたしません」
祖母の代から、親方はそういう人である。書きつけよりも、頼んだ者の声を重く扱う。
ペピはそこで顎を上げ、長官のお言葉も真似してみせる。
「役所は、人ではなく役に頼む。人に付いた約束は、その人が居なくなれば消える」
だから、誰も私を呼びに来ない。私ひとりの声に役所を預けず、呼ばないまま代わりの手を打つ。それが、あの方の筋である。
荷車が角を曲がって消え、車輪のきしむ音だけが建物の向こうに残る。私は濡れた石畳の上に立ったまま、袖の外へ出た指先から冷えていく。止められたはずのものが、私の前を止まらずに通り過ぎる。声を出さなかった喉の奥は、砂を噛んだように乾いている。
牛のぬくい匂いと、樹皮の青い匂いと、雨を含んだ石の匂いが混ざり、鼻の奥へこびりついた。冬の薪の匂いというのは、こういう匂いである。二十年、私はこの匂いを秋のうちに嗅ぎ、来る冬の形を確かめてきたのである。
◇
日暮れ。
備方の長官が、即日、南の材木商へ使いを出されたと耳に入る。冬の薪は足りる。ただし、値は三倍で、荷は十日遅れる。
同じ日のうちに、長官は掲示を出された。毎年八の月一日に薪の員数を検める、と。
正しい。私は正しいと思う。起きたあとに打てる手として、あれ以上に速いものはない。値の三倍は、速さを買うための代金である。そう数に置き換えて、私はようやく浅い息を吐く。
宿の帳場を通ると、夕灯りの下に立っていた女将のフォアラント夫人が、顔を上げて私の名を呼んだ。
「お部屋に薪が届いておりますよ、アーレンツさま」
「私に、でございますか?」
「ええ。南のお客さまが、荷揚げの者に運ばせて」
「……何も申し上げておりませんが」
女将は帳場の羽根ペンを置く。紙を引っかいていた音がやんでから、私のほうをゆっくり見る。
「そうでしょうねえ。あの方は、そういう頼み方をなさいませんもの」
「どういう頼み方を、なさいますか?」
「なさらないんですよ。ただ、置いていかれるんです」
二十年、この宿で私を呼ぶ言葉は「王宮の支度方」だけだった。名で呼ばれると、口を開いても、いつもの返事が出てこない。
◇
夜。部屋へ戻ると、隅に割った薪が積んである。
樹皮の乾いた匂いが、部屋じゅうに満ちている。私はその前に立ち、しばらく動けない。手を伸ばしかけて、途中で止める。誰かに用意されたものへ触れる作法を、私は習っていない。
積み方が、きれいである。太いものを下に、細いものを上に、切り口をこちらへ向け、薪の隙間まで揃えてある。乾き具合が分かるように積む、扱い慣れた人の手である。この積み方をする者は、王都には多くない。
「あなたの部屋の窓は北向きだ。この国の秋は、俺の国の冬より寒い」
戸口にオルシーニさまが立っておられる。焦茶の短い髪の縁を、廊下の灯が淡く照らしていた。
「……オルシーニさま」
「礼はいらん。二十年ぶんの借りに、まだ足りない」
「借りなど」
「ある。俺の帳では、ある」
薪の切り口は、廊下から差す灯りのなかで淡く白み、静かに並んで見える。
「私の帳には、ございません」
「あなたは帳をつけないだろう」
喉が動く。声になるものが出てこない。私は二十年、人の要るものを先に数え、その数を満たすために手を動かしてきた。けれど、自分のために積まれた薪の前で、何と申し上げればよいのかを、私は知らない。肩の力の抜き方も分からないまま、ただ深く、樹皮の匂いを吸い込んでいる。
この方が戸口を離れ、足音が廊下の向こうへ消えてからも、私はしばらくそこに立っていた。手のひらだけが、火にあたる前から、ゆっくり温かくなっていく。
その夜、宮から噂が降りてきた。アイヒベルク侯爵さまが、階段で息を切らしておられたという。
私は二の月の階段を思い出す。あのとき、あの方の唇の色が変わっていたのを、私は見ていた。




