1. 二十年、王宮では何も起きませんでした
八の月一日。朝の光が屋根を越える前に、今日ぶんはすべて済ませてある。
南の使節の湯、通詞、夜会の氷、王妃さまの朝のお薬。どれも確かめてあるが、どなたにも申し上げていない。済ませたことは申し上げない。それが、この役目の作法でございますから。
厨の裏口を出るとき、空はまだ藍色をしていた。井戸の水が桶の縁で澄んだ音を立て、パン窯の煙は屋根より低く流れている。その匂いのあいだを抜け、私は自分の部屋へ戻る。誰ともすれ違わない。人の足音が満ちる前の時刻を選んでいるからである。
窓を開けると、草の縁が細く白んでいる。荒れた指先でそっと撫で、去年の同じ朝と較べる。粒の細かさが違う。指の腹へ刺さる冷たさの残り方も、去年とは違っていた。
霜の降りが、例年より二日早い。
では、薪は明日である。兆しを見た翌日に、モルゲン親方のところへ人をやる。指が先にその順をたどる。二十年、私の八の月は、いつもそこから始まってきた。
窓を閉めると、指の先だけが白くなり、感覚が戻るまでには少しかかる。冷たさはいつも、指の先にだけ置いていかれる。
◇
城下は収穫の市で、どの宿も旅人の声で埋まっている。使節団の十一人ぶんは、三月前に押さえてある。
夜会の脇の間に、私は控えていた。
扉の隙間から、大広間の音が届いてくる。弦の音、笑い声、氷の入った杯が触れ合う高い音。氷は朝のうちに山から下ろさせた。杯の数は、廷臣の頭数に十を足してある。十は、必ず割れる分である。
支度が済んだら、その場から消える。それも作法のひとつである。整えた場の真ん中に立つのは、私の仕事ではない。
「エルスベート」
フェルディナント王太子殿下のお声だった。名を呼ばれた途端、前で重ねていた手の指先がわずかに離れる。私は初めて大広間へ出る。
燭の光が、思っていたよりずっと明るい。この灯りは、いつも扉の外から数えるものだった。数えるのと浴びるのとでは、まるで違う。
殿下の隣に、男爵家のご令嬢が立っておられる。お若い方である。扇を握る指の一本一本まで白い。
「僕は、この人と生きる。婚約は解く」
廷臣がざわめいた。衣擦れと靴音が重なり、磨かれた床から足裏へ返ってくる。私は膝を折り、裾を乱さぬよう手を置いて、次のお言葉を待つ。
「君は、何もしていないだろう」
嘲りの声ではない。殿下は廷臣のほうを見ておられる。
二十年、この宮では何も起きなかった。
「はい。何も起こさずに、済ませました」
広間が静かになる。残ったのは燭の芯が小さく弾ける音と、遠くで杯を置く音だけで、誰も何も言わない。
膝を折ったまま、私は自分の手を見ている。荒れた指先である。二十年、蔵と厨と染物屋のあいだを行き来して、この手はこうなった。爪のきわには、洗っても薄く残る染料の色がある。何をしてきたかは、この広間のどなたもご存じない。知らせないのが役目なのだから、当たり前である。
「――何も起こさずに?」
「はい」
どなたの声だったのかは分からない。誰かが笑いかけて、途中でやめた気配がある。短く漏れた息だけが、静かな広間の途中で消える。
玉座から、王妃さまのお声が、衣擦れさえ止んだ静けさを通って降りてくる。
「誇るのは、およしなさい」
「誇ってはおりません」
私は膝を折ったまま、重ねた手を動かさずにそう申し上げる。何かを自分の手柄として口にする機会なら、二十年のあいだにいくらでもあった。それでも言わずに済ませてきた言葉が、今さら喉を上がってくることはない。
玉座の上で、王妃さまが一度だけうなずかれる。銀に近い灰のお髪がわずかに揺れ、燭の光を冷たく弾く。それで、私の役目は解かれる。支度方は、王太子妃の役に付いた職だからである。
膝の裏が、じわりと痛む。長く折りすぎたらしい。普段、膝を折るのは物を運び入れるときと、蔵の鍵を掛けるときだけだった。人の前で折ったのは、たぶん今日が初めてである。痺れは裾の下に隠れているから、立つまでは誰にも見えない。
「本日ぶんまでは、済ませてございます」
「――それだけか?」
「はい。それだけでございます」
私は下がる。背筋だけは伸ばしておいた。歩幅も、床を踏む音も、いつもと同じに揃える。この広間を出るときは、いつも人より先である。今日も先に出る。ただ、閉じた扉の向こうへ戻ってくる用が、もう無い。
◇
大広間の熱がまだ背に残る廊下で、南の使節に呼び止められる。窓の隙間から入る風だけが、指先に冷たい。
「ヴァレリオ・オルシーニだ。この国へは、二十年通っている」
日に灼けた顔に、濃い緑の目。袖口からのぞく手首には、古い綱の痕がある。今年もこの方が来られるので、宿は五の月に押さえてある。顔を見るより先に手配を済ませるのが、いつもの順である。
「毎年、俺が着く前に整っている」
「宿は五の月にお取りいたしました」
「そうではない。湯も、通詞も、寝台の高さも、頼む前に整っている」
寝台の高さ、と言われた途端、吸いかけた息が喉の奥で止まる。南の方は寝台が低いので、この国の宿の高さでは膝を痛める。それを女将に言ったのは、たしか十二年前である。以来、女将は毎年、脚を切った寝台をあの部屋へ入れている。古い木の脚に残った切り跡まで、ふいに目の前へ浮かぶ。
誰にも申し上げていない。それでも、申し上げていないことを、この方は数えている。胸の下で、息が細くつかえる。
「……お役目でございます」
「役目、か」
オルシーニさまは何か言いかけ、濃い緑の目をわずかに伏せて、口を閉じられる。唇の脇だけがかすかに動く。私は頭を下げ、廊下を折れる。
角を曲がってから、なぜか足が速くなる。靴音が石壁へ返るたび、さらに歩幅が広がっていく。追われているわけでもないのに、胸元の布だけが呼吸に合わせて忙しく動く。
◇
城門の冷たい影を抜け、城下へ降りた。石の坂は夜露を含み、靴の裏へ硬い冷たさを返してくる。
坂の途中で、市の灯りが屋根のあいだから見える。焼いた栗の匂い、酒樽の匂い、濡れた藁の匂い。二十年、この匂いは宿の押さえ時を決めるための目印だった。今日は、どれもただの匂いとして鼻に入り、行き先を告げないまま胸の奥へ残る。
木の看板の下に灯をともす〈梨の木亭〉は、二十年、使節団のために押さえてきた宿である。十一人ぶんの部屋と、それから、もう一室。
「万一のための余分でございます」
毎年そう申し上げてきた。祖母もそう言っていたそうである。二十年、その一室が使われたことは一度もない。使わないために用意することへ、疑問を挟んだこともなかった。
「今日は、どちらのお部屋を?」
「……余分のほうを」
「かしこまりました」
女将はそれ以上は訊かない。鍵は、手のひらに置くようにして渡された。その冷たさが皮膚へ沈み、指を閉じても形が残る。
「お食事は、いつもの刻限でよろしいですか?」
「……いえ。今日は、けっこうでございます」
「かしこまりました。お湯だけ、上げておきます」
階段は十二段。数えるつもりはなかったのに、踵が板を踏むたび、口の中で順が進んでいく。体のほうが、止め方を知らない。
窓は北を向いている。私は寝台に腰を下ろし、留め具を抜いて栗色の髪を解く。結い上げていた場所がじんと痛み、ほどけた髪が根元を引くたび、灰色の目の奥までその痛みが届いてくるようである。二十年、この形に髪を結ってきた。ほどく理由が今日できたことを、体のほうがまだ分かっていない。
髪が肩へ落ち、首筋をゆっくり覆っていく。その重みは思っていたよりずっとはっきりしていて、肩を動かすたび、髪の先が見慣れない触れ方で肌を撫でる。
二十年前。南の使節の随員に、子供が一人まじっていた年がある。夜、白湯を一つ余分に置いた。名前は知らない。あの年は、大人の勘定に子供の数が入っていなかった。それだけの話である。
なぜ今それを思い出したのか、自分でも分からない。
「明日の支度は、しておりません」
誰も聞いていない部屋で、私は声に出してみる。閉じた窓と壁に吸われてしまえば、思っていたより短い言葉である。口を閉じたあとも、喉の奥だけがその形を覚えている。
寝台の脇に、明日の分を並べる癖がある。手が勝手に動き、並べるものが無いことに気づいたところで、途中で止まった。止まったまま、指だけが卓の上で数を刻んでいる。薪、氷、湯、蝋。指の腹が木目を押すたび、数はいくらでも出てくる。出てきた数の行き先だけが無く、爪の先に白い跡だけが残る。
湯を待ちきれずに階下へ降りると、走り子の子供と階段の下ですれ違った。麻色の髪をぐしゃぐしゃにし、裸足に近い履物を鳴らす子である。琥珀色の目でまっすぐこちらを見上げ、欠けた前歯を隠しもせずに見せる。
「あんた、王宮の人でしょ。なんでこんなとこにいるの?」
「……もう、王宮の者ではございませんので」
「ふうん。じゃあ、なんの人?」
「……分かりかねます」
「変なの」
唇を開きかけても、答えになる言葉が出てこない。
二十年、私の名は「支度方」だった。役目を返した今日、エルスベート、と口の中だけで形を作ってみても、私に残ったその名はまだ舌の上にうまく乗らない。
私は窓の外を見る。屋根の端も石畳も、月の薄い光の下で白んでいる。霜が、いよいよ濃い。明日の支度を待つように町は静まり返っているのに、窓枠へ置いた私の指だけが、もう何も数えていない。




