10. これが、要ります
九の月二十八日。朝の王宮では、煙が屋根に触れそうなほど低く垂れている。
厨の煙突から出た煙は、空へまっすぐ立ち上らず、屋根の勾配に沿って重く垂れている。風に押されたのではない。風は北から来ているのに、煙はその流れに逆らう様子さえなく、煤を含んだ灰色のまま瓦の近くへ沈んでいく。
二十年、この王宮から煙の匂いがしたことはない。
九の月八日の朝にも、厨の煙はいつもより上がりが鈍かった。夏じゅうの煤が溜まり、空気の通り道が狭くなるとそうなる。例年なら、その朝のうちに煙道さらいの人手を頼み、二十日かけて王宮じゅうの煙突をさらう。大広間に火を入れはじめるのは今日で、その日までに終えるよう、あらかじめ組んである。
今年は、頼まなかった。
◇
昼過ぎ、大広間に火が入る。
異変は城下からでも見て取れた。東の翼では、窓という窓が内側から薄白く曇っていく。煙は煙突へ上がらず、行き場をなくして部屋の中へ下りたのである。
私は宿の窓を閉め、外套を掴むと、戸口から坂へ駆け出した。
登りながら、これは支度ではない、と自分に言い聞かせる。息が浅くなり、脇腹の奥が足を運ぶたびに痛む。二十年、私はこの坂を荷の前に立って登ってきたのに、今日は何も持たずに駆けている。指を握り込んでも、掌には爪が当たるばかりである。空の手はどこへ置いても定まらず、腕だけが体の脇で頼りなく揺れる。
東の翼の廊下では、目を開けていることさえできない。
煤の匂いが、口の中にまで厚く溜まる。壁の羽目板の継ぎ目から、細い煙が糸のように漏れ出している。衛兵が水を掛けるそばから白い蒸気が噴き、天井の煙へ混じっていく。濡れた煤は床を黒く流れ、靴の裏にまとわりつく。喉の奥が焼け、咳がひとつこぼれるたびに、背中まで硬く痛む。
王妃さまは、侍女に両脇を支えられ、西へ移っておられる。
銀に近い灰のお髪は煤をかぶり、いつもの艶を失っている。緩んだ指輪が、支えられた手の中で滑り、細くなった指の付け根まで下がっていく。
すれ違いざま、王妃さまが足をお止めになった。
「エルスベート」
「……はい」
交わしたのは、それだけである。それだけなのに、廊下の冷たい空気が少し薄まり、ようやく息が胸の奥まで入る。名を呼ばれることに、私はまだ慣れない。肩が一瞬すくんだあと、背筋だけが勝手に伸び、足の裏が床をしっかり踏み直す。
カジミールさまは煙の濃い場所に立ち、人を割り振っておられた。淡い青の目は涙で濡れ、その縁が煙で赤く腫れている。
「東を塞げ。西の厨は生かす。厨を止めれば、今夜の湯も食事も出ぬ」
「長官さま」
「アーレンツ殿か。下がっておられよ。ここは煙が回る」
「東の煙道と、西の厨の煙道は、一本でございます」
長官の伸ばしかけた指が、宙で止まる。
「……いま、一本と申されたか?」
「はい。東の翼を建て増したときに、西の古い煙道へ繋いでございます。さらいの頭が、代々そう申しております」
「東を塞げば、煙は西へ回るのか?」
「回ります」
長官の左手は、凍傷の痕が白く浮くほど一度きつく握られ、それから、こわばった指をゆっくりひらく。
「……そのようなことは、誰からも聞いておらぬ」
「はい。申し上げておりませんでした」
長官の目が、濃い煤煙の向こうから私の姿を探している。左手の指は、数を刻むように三つ折れ、すぐに伸びきる。
「なぜだ?」
「済ませたことは、申し上げません。それが、この役目の作法でございますから」
長官は煤の浮いた左手で額から頬をぬぐい、黒い筋を残す。顎の筋がしばらく硬く浮き、それから低い声を出される。
「……その作法が、今日、王宮を焼くところであった」
「はい」
二十年、両方の煙を朝ごとに見てきた者にしか、それは分からない。東が細く西が太い日と、その逆の日と、消えるまでの速さと、それを二十年ぶん数えてきただけの話である。数えたものを言葉にすれば、たった一行で済む。その一行を、私は今日まで喉の内に置いたまま、誰にも渡してこなかった。
長官が一つ息を吐く。肩が目に見えて下がる。それから、廊下の端まで届く声を張られる。
「西の厨も火を落とせ! 煙道さらいに五十人を入れる。今夜だ」
◇
火は広がらなかった。
羽目板は半分ほどが焦げ、東の翼の廊下には水と煤の筋が黒く残る。それだけで食い止められたのである。
そのかわり、東の翼を冬のあいだ閉じることになった。煙道をさらい終えるまでに二十日かかるうえ、水を吸った壁を乾かさねばならない。王妃さまも侍女の方々も、焦げた匂いの残る廊下をあとにして、西へ移られる。
夕方、低い日の光が差す城壁の内側に、人が集まっていた。
カジミールさまが、この秋に出された令を木の札に彫らせ、城壁に沿って並べて掛けておられる。薪の員数を検める日。井戸に藁を巻く日。港へ人をやる日。麦を買う日。煙道をさらう日。日付と員数は、どれもまっすぐに並ぶ。新しい木肌に刻まれた字の溝には夕方の影が入り、冬の風に晒されても消えないよう、深く彫ってある。
フェルディナント殿下が人垣の前まで歩み、その札の前で立ち止まられた。
「これだけ書いたのに、なぜまだ起きるのだ?」
カジミールさまは札に並ぶ文字から目を離さず、しばらく口を閉ざしておられる。
「殿下」
「答えてくれ。備方は、これで足りるのか?」
「小官が写せたのは、日数だけである」
殿下の、これまで何も持ったことのないきれいな手が、札の縁へ伸びる。指先は彫り跡のささくれに触れ、すぐに離れた。
「日数だけ、とは?」
「日を書くことはできる。日を決める目は、書けぬ」
殿下の唇がわずかに開く。息だけが漏れ、言いかけたものは声にならないまま、口が閉じられる。
私は人の輪の外に立ち、並ぶ肩越しに札の字を追っていた。日付は、どれも合っている。合っているのに、来年も同じ日に兆しが来るとは限らない。霜と、湯気と、北風と、市の終いと、煙。どれもめいめいの具合で早まり、遅れる。深く彫られた札の日付は、動かないまま、それらを追いかけられない。
◇
夜、納屋の二階へ登ると、髪も袖も、息まで煤くさかった。
使節団が発ってからも、宿の私の部屋は空いたままである。女将は、いつでもお戻りくださいと言う。それでも私は、この納屋にいる。戸を閉めれば風が入らず、壁に背中を預けられる。その場所を人から貰うのは、二十年で初めてだったからである。
オルシーニさまも厩の上から動かれず、梁の低い場所で休んでおられる。空いた部屋へは、どちらも戻らなかった。
髪も外套も、掌の皺の一本ずつに至るまで黒い。声は昨日より枯れ、息を吸うたび喉の奥が刺すように痛む。指の割れには煤が深く入り、洗っても黒い筋だけが皮膚に残っている。
梯子の下から、板の隙間を通って、揺れる灯りが上がってくる。
オルシーニさまが燭を掲げ、梯子を登ってこられた。焦茶の髪にも煤の粉が薄く積もり、火が揺れるたび鈍く光る。
「東の翼は、あなたが止めたと聞いた」
「止めましたのは、長官さまでございます」
「言ったのは、あなただ」
「……」
「アーレンツ殿」
オルシーニさまは燭を床に置き、軋む板の上で私の前に膝を折られる。目の高さが、まっすぐにそろう。小さな火が、二人の影を煤けた天井の梁まで長く伸ばし、呼吸に合わせて揺らしている。
「あなたは、何が要る?」
風が、塞がれた壁の外を低く鳴りながら通っていく。
二十年、私はこの問いを人に向けてきた。何が要りますか。いつまでに要りますか。あといくつ要りますか。一日に何十回も口にして、返る答えを聞き、間に合うように荷を積んできた。
けれど、その問いを私に向けた人はいない。
喉が狭まり、空気だけが先に抜ける。声になるまで、ずいぶんとかかった。自分のために同じ形を作ろうとしても、舌が上顎の裏で止まり、まだ動き方を覚えていない。
「……湯が、要ります」
言ってから、私は膝の上で指を重ね、耳の奥に返ってくる自分の声を聞いている。
小さい声であった。掠れ、途中で細く切れている。それでも耳の奥には、たしかに私の口から出た音が残り、閉じた唇がかすかに震えている。
オルシーニさまは何も言わずに立ち上がり、足音を忍ばせて梯子を降りていかれる。
やがて、白い湯気を立てる器を両手に持ち、戻ってこられた。
私は両手で器を受け取る。熱が、冷えきった掌へゆっくり移ってくる。指の割れは湯気に触れて少しやわらぎ、尖っていた痛みが、息を吐くごとに丸くなっていく。
窓の隙間を塞ぐ板の向こうで、風の音がいつの間にか変わっている。北から来る風には、乾いた冷たさと、雪の匂いが混じっていた。
冬が来る。
二番橋は、この冬の番である。




