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11. 棒は、立て終えるまでに十日かかります

 十の月十一日。朝、空を覆う灰色の雲から、雪が音もなく降りはじめる。


 納屋の二階では、板の隙間を細い木片で塞いである。それでも細かな雪の粒が一筋だけ忍び込み、乾いた藁の上へ、糸ほどの白い線をゆっくり引いていく。掌で受けると、溶けるより先に指の谷を滑り、藁の間へこぼれた。追おうとして指を曲げても、動きがわずかに遅れる。指の腹はもう感じが鈍く、冷たいというより、そこだけ薄い革を貼ったようである。


 十の月一日の朝、北の山の頂が白くなっている。裾には黒い岩肌と枯れ草の色が残り、白い帯だけが日ごとに下りてくる。山の雪は、城下へ降りてくるまでに十日かかる。二十年、そうして近づく白さを見てきたのである。


 例年なら、その朝のうちに棒を割らせている。王都から北の村まで、道の縁へ百二十本。割って、荷車に積み、北へ運び、順に挿し終えるまでに十日かかりますから、と申し上げるのが私の役目である。その言葉は一度きりでよい。あとは荷方の親方が数を検め、人足が朝の暗いうちに、白い息を吐きながら出ていく。私はそれを見に行かない。戸口の外へ足を出さず、動き出した荷車の音が遠ざかるのを聞く。見に行かないところまでが、支度である。


 今年は、割らせていない。


       ◇


 昼、細く白みはじめた坂を降りると、城壁の下に人が立っている。濡れた外套の肩が並び、誰もが石壁の札へ顔を向けている。


 札は、秋のあいだ増えなかった。薪、井戸、港、麦、煙道。石壁に並ぶ文字は、通るたび変わらぬ形で目に入る。それがいま、隣にもう一枚増えている。冬の令である。雪に晒しても消えないよう、字は木の奥まで深く彫ってある。削ったばかりの彫り口はまだ白く、その細い溝へ雪の粒が入り込み、風にあおられても落ちずに溜まっている。


 今年は、日が書いてあった。


 人の肩ごしに、城門の外へ開けた北の野が見える。枯れ草の色は雪に薄く覆われ、道だけが鈍い灰色で遠くへ伸びている。


 道の縁に棒が立っている。降りはじめた雪の上を、黒く濡れた点がいくつも続き、遠くへ行くほど細くなって、降る雪のなかへ紛れていく。どこまで並んでいるのかは、ここからでは見えない。曲がり角の先にも続いているらしく、白い野の奥から人の声だけがかすかに届いていた。


「今年は、備方が先に来たな」


「道の分かる冬は久しぶりだ」


 城壁の下の男たちは、手をかざしたままそちらを眺め、白い息の向こうでゆっくりうなずいている。廷臣も同じことを言っている。備方は間に合ったのである。その言葉が耳へ入るたび、外套の内側で指がいつもの順を刻みかけ、折り曲げたところで止まる。


「あたし、見たよ。長官さま、去年まで棒を立ててたおじさんたち、一人ずつ呼んでたの」


 ペピが雪の中を横から滑り込んでくる。麻色の髪には白いものが乗り、火照った頬のそばでは雫になり、頭の上だけは溶けずに残る。走ってきたばかりの息に合わせて細い肩が上下し、言葉のあいだから白い息が途切れ途切れに抜けていく。薄い靴の爪先には、坂の泥と雪がこびりついていた。


「何を、お訊きになりましたか?」


「いつ立てるのと、何本いるの。おじさんたち、ちゃんと答えてたよ。百二十本だって」


「……そうでございますね」


「ねえ。今年は間に合ったんだよね?」


「はい。間に合っております」


 そう答えた途端、舌の置き場がなくなり、口の中がしんと静かになる。雪の匂いは、二十年ずっと私の足を急がせてきた匂いである。この匂いが鼻の奥へ届けば、棒、次に薪の荷、次に井戸と、外套の中で指が勝手に順を刻みはじめた。今日はその同じ匂いのなかに立っているのに、数えるものが一つも無い。伸ばしかけた指が半端な形で止まり、爪が掌へ食い込む。首の後ろを風が通り抜けるようにすうすうして、外套の襟を立てても直らない。


       ◇


 夕、空と野の境が青く沈みはじめたころ、雪を蹴って、ペピが二度目に走ってくる。


「荷車、落ちた! 峠のとこ! 薪の!」


「怪我をした方は?」


「人は平気。でも牛が、一頭」


 私は返事をするより先に外套を掴み、冷えた袖へ腕を通して、坂を北へ降りる。靴底が雪を踏むたびに滑り、膝の裏が張る。それでも足を緩められない。


 二番橋を渡るころには、雪はもう足首まで来ている。欄干に積もった白さが川の黒い流れを細く切り取り、水音だけが橋板の下から響く。橋の向こうから仮道が始まる。長雨のあと、まだ水を含む生木で組んだ道である。乾かすのに四十日かかると長官は言われ、来春もう一度組み直すと申された。それまでは、この道が本道の代わりに立っている。踏むたび、丸太が低く鳴る。


 仮道の入口では、人足が膝まで雪に沈みながら、荷車へ縄を掛けている。溝からは荷車の輪だけが、白い斜面に黒く突き出ていた。輪の下のほうから、まだ湯気のようなものが細く上がり、降る雪をそばで消している。濡れた木と泥の匂いに、鉄に似た匂いが混じる。何の湯気かは、訊かなくても分かった。


 棒は、たしかに立っている。


 まっすぐに、等しい間で、雪の中へ黒い点線を引いて。


 その点線は、目の前の仮道ではないほうへ伸びている。荷車の輪の跡も棒に沿って続き、斜面の手前で深く雪をえぐっていた。


「アーレンツ殿か」


 カジミールさまが縄の脇に立っておられる。撫でつけた砂色の髪は雪でところどころ白くなり、こめかみから落ちた雫が頬に細い跡を残している。凍傷の痕のある左手は、棒の一本を強く掴んだままである。乾いた指の節だけが、木の色の上で白く浮いている。


「日は合っておりました」


「合っておった。人足の申したとおりである」


「山が白くなってから、雪までに十日ございます」


「そのとおりだ。では、なぜ落ちる?」


「棒は、去年の穴に挿してございます。仮道には、穴がございません」


 長官の手が、棒を掴んだ形のまま止まる。風が袖口へ雪を吹きつけても、指は動かない。


「……穴、と申されたか?」


「はい。棒は毎年、去年の穴へ挿すものでございます。穴は縁に開いたままでございますから、人足は挿すだけで済みます」


「仮道には、去年が無い」


「ございません」


 長官は雪の向こうの点線を、端から端まで目で追われる。追い終えても顔は動かず、目だけが最後の棒に残っている。濡れた前髪から雫が落ち、外套の肩で小さく散る。やがて左手が棒を離れ、凍傷の痕の残る指がゆっくり開く。それから、雪に埋もれかけた道へ向けて、低い声を出された。


「員数、日数、値。日は合っておった。穴の場所は、誰も数えておらぬ」


       ◇


 備方は棒を二度立てる。凍った土に穴を開け直すのだから、昼の倍の人手が要る。仮道の縁へ新しい穴が並ぶのは、翌日の日暮れである。掘り返された土が雪の上へ黒く盛られ、その列が去年の穴の列と少しずれて続いている。泥水を滴らせながら、荷は引き上げられた。崩れた薪は、雪の上でまた積み直される。牛を一頭失う。空になった引き綱だけが、荷車の脇で風に揺れている。


 納屋の梯子を登ると、暗がりの奥に灯りが一つ点いている。踏み板の軋む音が、低い屋根の下で短く返る。


 オルシーニさまが、燭を床に置いて座っておられる。焦茶の髪の先は雪解けの雫で濡れ、肩へ落ちた雫が外套の布をさらに濃くしている。日に灼けた手首には綱の痕が残り、火の色を受けたところだけ赤く浮いて見える。炎が揺れるたび、その赤さも細く濃くなったり薄くなったりする。


「牛が一頭だと聞いた」


「……はい」


「あなたの国の冬は、高い買い物をするな」


 私は燭から少し離れ、膝を抱えて座る。濡れた裾から藁へ水が移り、足の裏はいつまでも靴の形に冷えている。喉の奥には、まだ外の冷たさが細い塊になって残り、息を呑むたびにつかえる。目を閉じると、輪にこびりついた泥、雪の上へ細く上がっていた湯気、それに濡れた獣の匂いが、暗がりの中へ順に戻ってくる。瞼を開けても燭の火がにじみ、私は何もない藁の上へ視線を落とす。どれも、どこにも記すところが無い。


「……いつ、お帰りになりますか?」


 訊いた声が思いのほか近く響き、私は唇を閉じる。舌の先に、言葉の形だけがまだ残っている。人の予定を訊いたことが、二十年で一度も無い。私が訊いてきたのは、いつ要るのかということだけである。用のない先の日を知ろうとしたことも、その日まで誰かがここにいるのか確かめたこともなかった。燭の向こうを見られず、組んだ腕へ顎を少し沈める。


「俺は、帰る日を決められない」


「……」


「王妃さまの薬に出した船の勘定が、まだどちらの国にも付いていない。付くまでは、俺はこの国の帳の上にいる」


「お待たせしております」


「待たされてはいない。残ると決めたのは俺だ」


 燭の火が、板の隙間から入る風で一度傾く。オルシーニさまの横顔を覆う影が大きく揺れ、炎が戻ると、伏せた目の輪郭までまた見える。私は返す言葉を探すが、喉の奥で息がかすかに鳴るだけである。


 梯子を降りていく足音を聞きながら、私は膝の上で指を組む。踏み板の軋みは下へ移り、やがて納屋の戸が閉まる鈍い音に変わる。静かになっても耳を澄ましたまま、私は組んだ指をほどけずにいる。指の節は、割れたところで細く引きつる。力を抜くと、遅れて痛みが戻ってくる。あかぎれである。城下の下働きの手も、秋の終わりからずっとこうなっている。朝ごとに冷たい水へ入り、薪を運び、縄を引くうち、皮が固くなって裂けていく。私は燭へ指をかざす。赤い割れ目に火の色が溜まり、じわりと痛みが深くなる。

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