12. 毛織は、織り上がるまでに二十五日かかります
十の月十五日。朝、軒の影にも雪が消えず、青白く残っている。
十一日に降った雪は、二日で薄く溶け、濡れた黒い土をのぞかせた。けれど今朝の雪は、屋根にも、道に残った車輪の跡にも、白いまま厚く乗っている。納屋の戸を押しても、湿った重みが押し返してきて、外へ開かない。雪が下に溜まり、戸を塞いでいるのである。肩を当てて二度押し、指の入るだけの隙間を作る。そこから朝の光と、息を細くする冷たさが、雪の匂いと一緒にいちどきに流れ込んでくる。
九の月二十日の朝、城下の井戸端で、私は下働きの手を見ている。冷たい水を汲むたび、指の付け根に開いた傷が濡れ、皮膚は赤黒く割れていた。あかぎれである。
あれが出はじめたら、その日のうちに城下の織り手へ人をやる。毛織は織り上がるまでに二十五日かかるので、雪の残りはじめる日には仕立てが上がる。外の仕事が冬のものへ変わるのは、消えない雪が屋根と道に乗った日からである。これまでは、指の割れを見れば、私の口が先に織り手の名を告げていたのである。
今年は、やらなかった。
◇
昼、城下の門。低い空から細かな雪が落ちつづけ、石の坂を白く曇らせている。
粥の列が門の外まで伸び、坂の途中で折れて、その先も白い息とともに続いている。並んでいるのは去年の外套を着た人ばかりで、濡れた袖口は擦り切れ、中の毛が灰色にのぞいていた。王宮の下働きも同じである。門番も、厩番も、水汲みの子も、みな肩をすぼめ、風の来ないほうへ細く体を向けている。誰も足踏みをしない。靴の裏を雪から剥がす力まで惜しいのだと、二十年のあいだに一度も考えたことがなかった。列を満たす静けさが耳の奥に残り、私は足の裏へ力を入れる。
水汲みの子の指から、桶の取っ手が抜け落ちる。指がこわばり、もう曲がらないのである。落ちた桶は石の上で二度跳ね、乾いた音を門の壁へ返す。こぼれた水は石のくぼみを走り、縁から薄い氷の膜を張りながら広がっていく。
「おばさま! あの子、手ぇ動かなくなってる!」
「拾って差し上げなさい。桶は、あなたのほうが早うございます」
「うん!」
ペピが列の横から飛び出していく。小さな靴が雪を蹴り上げ、麻色の髪にも、肩にも、白い粒がいっそう積もっている。
「毛織は、織り上がるまでに二十五日かかりますから」
誰にともなく、私はそう申し上げる。白い息に混じった言葉はすぐ風にほどけたのに、自分の声だけが喉の奥へざらりと残った。
「――いまから頼んでも、間に合わないということですね」
薄紅の外套をまとった令嬢が、いつのまにか隣に立っておられる。ハイケさまである。まつ毛の先には雪が残り、取り巻きの方々はおられない。
「うちは、毛織の家です。……それくらいしか、できませんけれど」
その声は、思っていたよりずっと低い。人前で使うために形を整えた声ではなく、家の中で、扉を閉じたあとに使う声である。言葉の端がかすかに揺れ、すぐ雪の中へ吸われていく。
「男爵家の、蔵に」
「はい。父が織らせています。反物のまま積んであります。仕立てはできませんけれど、巻いて羽織るだけなら、今日でも」
「二十五日かかります、と申し上げただけでございます」
「ええ。ですから、わたしが決めます。門に並んでいる方から」
令嬢は雪の中を早足で坂を登っていかれる。詫びの言葉も、いいわけも無い。雪を踏む足は止まらず、外套の裾からこぼれる白い粉だけが細く跡を残した。薄紅の外套は、坂の途中で一度だけこちらを向き、すぐにまた上へ進んでいく。
◇
水汲みの子は、まだ桶の前に屈んでいる。取っ手へ伸ばした指は半ばで曲がったまま、石の上を掻いていた。
私は外套の紐を解く。長雨の日に、オルシーニさまが火のそばで乾かしておいてくださった一枚である。襟の内側には、薪の煙の匂いがまだかすかに残っている。
「お召しくださいませ」
「え。おばさん、それ」
「私は、坂を登るだけでございますから」
子供の肩へ外套を掛けると、丈が余り、裾が雪に着く。私は濡れた裾を持ち上げ、腰のあたりでほどけないように結んでやる。結び目を作るあいだ、子供は身じろぎもせずに立ち、浅い息だけが襟元の布をわずかに動かしていた。
外套を離した途端、薄い服の縫い目から背中へ風が入り込んでくる。
二十年、私は寒いと思ったことがない。
いつも荷の前に立って歩いていたから、冷えるより先に体が温まっていたのである。何も持たずに立っていると、風は肩の骨のきわまで届き、そこから背の芯をゆっくり下りていく。膝が細かく揺れ、足の裏が石の冷たさを拾う。背中に力を入れても震えは止まらず、その止め方を私は知らない。噛みしめようとしても顎が震え、歯が細かく鳴る。歯の根が合わないというのは、こういうことであるらしい。
昼過ぎ、車輪を重く軋ませながら、王宮から荷車が降りてくる。
カジミールさまが王家の蔵を開けさせたのである。荷台に積まれて出てきたのは、春の仕着せ、三十着である。儀礼の日に小者がまとう、明るい色の薄手のもので、白い雪の中ではひどく頼りなく見える。撫でつけた砂色の髪に雪を乗せ、凍傷の痕のある左手で、長官は仕着せの山を崩れぬよう押さえていた。指先の色は、布よりも白い。
「員数、日数、値。冬のものは無い。春の仕着せを潰す」
「長官さま。それでは春の儀礼が」
「春には春の手を打つ。今日凍える者を、春の勘定で見殺しにはできぬ」
「……はい」
長官はそのうえで、人を二人ずつ組ませる。外に出る役を半日で入れ替え、一人が凍える前に中へ戻すのである。門番も厩番も、一日を二人で割ることになる。入れ替わりを告げる声が門から厩へ渡り、縮こまっていた人の列が静かに動きはじめる。
王宮に、凍えた者は出なかった。
門の列のほうへ薄紅の反物が降りてきたのは、日の傾くころである。夕日の色を含んだ布が、雪の坂をゆっくり下りてくる。巻いて羽織るだけの、仕立てのない毛織である。並んでいた人が一人ずつ肩へ掛け、布の端を固い指で押さえる。掛けたところから長い息がこぼれ、こわばっていた肩が布の重みに少しずつ下がっていく。
◇
夕、坂の途中でハイケさまに追いつく。降りつづく雪が、薄紅の外套の肩を白く覆っている。
「一枚だけ、余分にお願いできますでしょうか?」
「どなたに?」
「南の方は、この国の冬をご存じありません」
「……ああ」
令嬢は目をわずかに見開き、それから、何も訊かずに頷かれる。開きかけた唇は言葉を作らず、白い息だけが短くこぼれる。
言葉が口を離れてから、耳の後ろがじわりと熱くなる。二十年、私が数えてきたのは全員のぶんである。何人ぶん、何日ぶん、どこへ何を――足りるように、偏らないように。それなのに、一人のためだけに一枚を頼む形は、これまでの勘定のどこにも無い。指を握り込むと、あかぎれが遅れて痛み、息を吐くまで手を開けなかった。
夜、納屋へ戻ると、梯子の下に外套が一枚掛けてある。暗がりの中で、厚い布の形だけが壁から浮いて見える。
オルシーニさまのものである。焦茶の髪と同じ色をした、厚い船乗りの外套であった。大きな襟には乾いた潮の白い跡が残り、袖には長く使われた布のしわが走っている。どこでお知りになったのかは分からない。私には、何も訊かれない。訊かずに置いていくのが、この方の作法である。
私は袖を通さずに、外套を膝へ掛けて座る。厚い布から、潮と濡れた木を含んだ海の匂いがする。膝に溜まった温もりが腹へ上がり、冷えた背中を内側からゆっくり緩めていく。布の重みの下で体が温まるにつれ、指の割れがひとつずつ脈を打ちはじめた。痛むたび、私は空の袖口へ目を戻し、そこへ腕を入れないまま座っている。
その夜、川の音が変わっている。水車の軋みはいつもより低く、重い。次の軋みが来るまでの間が、少しずつ長くなっている。




