13. 水車の音が変わりましたら、五日でございます
十一の月一日。朝の冷えた空気のなかで、水車が止まっている。
城下の坂を降りきると、いつもなら石壁より先に耳へ届くはずの音が無い。聞こえるのは、水が段を落ちて砕ける音だけである。輪の軋みも、臼の低い唸りも、朝の町から抜け落ちている。石畳を踏む私の靴音ばかりが近く、耳の奥には音の形をした穴が空いたまま、歩いても埋まらない。
十の月二十六日、川の水が落ちて水車の音が変わっている。いつもの響きより低く重く、木の軋みだけが長く尾を引いていた。音が変わってから五日で、水路が凍る。それが今日である。
例年は、音の変わった十の月二十六日に人をやる。四日かけて板を抜き、水を落とし、流れが細いうちに作業を進めて、十の月三十日までに水輪を上げてしまう。
今年は、やらなかった。いつもの手順は頭に残っているのに、動かすべき日はもう過ぎている。
◇
二番橋を渡って川上へ回ると、水車小屋の裏、濡れて黒くなった板壁のそばにペピがいる。
「割れてる。羽根んとこ」
「水輪でございますね」
「うん。氷が噛んでたって。おじさん、泣きそうな顔してる」
「粉は、どれくらい残っておりますか?」
「知らない。でも臼、空っぽだよ」
水路の板の隙間には、白い刃のような氷が深く噛み込んでいる。夜のうちに張り、朝までに厚くなったものだ。水はその縁を細く流れ、濡れた板を黒く光らせている。輪の羽根は根元から裂け、割れ口だけが新しく白い。木の匂いが、冷えた空気のなかへまだ淡く立っている。
例年なら、冬の粥に使う麦は八の月のうちに挽き、粉のまま蔵へ入れてある。今年、釜に入っているのは王家の蔵から出た麦である。買い置きではないから、まだ粒のままで、城下は毎日、この輪で挽きながら配っている。輪が止まった今、明日の釜へ入れる粉は、どこにも積まれていない。
私は割れ口へ手を伸ばしかけ、指が届く前に止める。ささくれを撫でても、裂けた羽根は戻らない。掌は何も掴めないまま宙で強張り、外套の中へ引き返す。指先には、触れてもいない氷の冷たさが移ったように、細い痺れだけが残る。
◇
昼過ぎ、城下の広場には、仕事を待つ人が集められている。
カジミールさまが、十の月二十九日から三日ぶん、城下の人手を雪掻きに集めておられる。今日がその三日目である。十五日の雪が重かったからだと、ペピが聞いてきた。北の砦では、根雪の重い年は冬が深いのだという。
雪は、来なかった。
空は薄く晴れ、雲の切れ間から弱い光が差している。屋根の端で解けた雫が石を叩くたび、広場の静けさに小さな音が残る。集められた人足は、柄の長い木の道具を抱えたまま、雪のない広場で足踏みをしている。荒れた手を息で温める者もいる。白い息だけがいくつも重なり、何もない空へほどけていく。
「三日、遊ばせたわけだ」
「無駄遣いですな。備方の予算というのは、ずいぶん軽い」
廷臣の声が、人の輪の外から、よく通る調子で広場を渡ってくる。誰の口が動いたのかは、人垣に隠れて見えない。長官はそちらへ顔を向けず、雪掻きの人足のほうを見ておられる。外套の肩から背中へかけて、布の線だけが固い。
「水車の音が変わりましたら、五日でございます」
私は、喉に引っかかる冷気を呑み、輪の外からそう申し上げる。抑えたつもりの声が、人足のあいだを抜けて石壁まで届く。
「五日、と申されたか?」
「はい。二十六日に音が変わりまして、今日が五日目でございます」
「では、今朝の氷は読めていたということだな」
私は答えない。返事は喉まで上がり、そこで止まる。答えたところで、水輪はもう割れている。
「挽くのは、石臼でもできます。城下に粉屋が三軒ございます」
長官の左手が、凍傷の痕を引きつらせながら、一度、固く握られる。白い筋の浮いた指は、すぐ外套の陰に隠れる。
「粉屋三軒に、この者らを回す。員数、日数、値。挽き手を四十人」
その日の午後から、石臼が回りはじめる。人の腕で回すため遅く、荒れた掌には木の柄が重い。石が擦れ合う低い音に、麦の砕ける乾いた音が混じる。遅いが、止まらない。
粥は止まらなかった。
雪掻きに出した三日は、そのまま消える。石臼の前に並ぶ背中は、朝、雪掻きの道具を抱えて足踏みしていた背中と同じである。濡れた裾も、氷の残る道を踏んできた足の裏も、そのまま粉屋へ運ばれてくる。腕が止まれば、臼の音も止まる。それでも列は黙って前へ詰まる。
◇
夜、粉屋の戸口からこぼれる灯りの下に、長官が立っておられる。背後では、臼の影が壁をゆっくり往復している。
長官は、湯気の立つ荒れた手を、外套の袖でゆっくりぬぐっておられる。爪の際には粉が入り込み、淡い青の目のまわりも白い。
「小官は、二十歳の冬に薪を三倍積んだ。その冬は暖かった」
「……」
「余った薪が蔵を塞ぐ。翌年の麦が入らぬ。小官は北の砦を出された。備えというものは、当たれば何も起きぬ。外れれば、積んだ者だけが数えられる」
「当たらぬ備えの罰は、備えた者にしか来ぬ」
その一言を、長官は誰にともなく置かれる。低い声は戸口の冷気に沈み、すぐ臼の音に重なる。答えを求めておられるのではない。粉のついた指が袖口へ入り、見えなくなる。
それでも、唇の裏に押し込めてきた言葉が、舌の先まで上がってくる。私の口が、考えるより先に動く。
「……私も、外しました」
長官がこちらを向かれる。淡い青の目だけが、戸口の影のなかで静かに留まる。
「十二反染めさせて、一反は要りませんでした」
「……あの黒か」
「はい。侯爵さまの弟君は、亡くなりませんでした。一反はいまも、乾き蔵にございます」
指が震えている。膝の上で押さえても、細かな揺れは手首から先に残り、爪が外套の布を浅く掻く。二十年、済ませたことは申し上げずにきた。外したことも同じように口にせず、乾き蔵の暗がりへ置いたままである。同じであることに、私は今日まで気づいていなかった。喉の奥には、まだ次の息がつかえている。
長官は何も言われない。粉屋の中の臼が、石の擦れる低い音を規則正しく返している。二人のあいだには、その音だけが途切れず満ちている。
戸の隙間から漏れてくる空気には、湯気と粉と人の汗の匂いが混じっている。外の冷たさにぶつかると、白く崩れ、灯りの縁でゆっくり薄くなる。挽き手の交代を呼ぶ声が、その白さのなかから短く上がり、臼の音へ重なる。私はしばらく、湯気が消えるところを目で追う。氷の薄く残る石に乗せた足の裏は冷えているのに、戸口から離れられない。
やがて長官は、袖で顔をひとつこすり、白い粉の跡を頬へ薄くのばして、中へ戻っていかれる。
納屋へ帰ると、干し草の冷えた匂いのなか、オルシーニさまが梯子の下に腰を掛けておられる。
「今年のぶんは、書いていない」
控えの表紙を、日に灼けた指がゆっくり撫でている。擦れた角まで来ると、指の腹が止まり、また元へ戻る。
「二十年、俺が書いてきたのは、着く前に整っていたことばかりだ。今年は書くことがない」
「……申し訳も」
「詫びるところではない。俺が書いていたものの正体を、今年になって知った」
風が川のほうから坂を上がり、納屋の隙間へ細く入り込む。乾いた冷気が耳の縁を撫でるのに、その風には水の音が乗っていない。戸口の向こう、坂の下の川縁は、夜目にも白く見える。氷は岸から静かに張りはじめ、残った流れの黒さを少しずつ狭めている。私は返す言葉を持たないまま、白い川縁を見ている。




