市場へ買い物に
「ええっ!」
姿を変えた羽那を見て、結の体は驚きと恐怖で完全に固まってしまった。
「結、羽那の前足に乗って」
澄子も車椅子を動かして玄関の外に出てきた。
「澄子さん、私、動けません」
結は泣き声を上げた。
「大丈夫よ。マントを羽織ってフードを被り、羽那のどちらかの前足に乗りなさい」
と澄子は言うが、結の目の前にいるのは明らかに羽の生えた猛獣だった。それも闇のように黒く鯨のように大きい。羽那の面影など微塵も無い。口を開けると尖った歯の間から涎が糸を引いて光っている。
「結、乗りなさい」
澄子の命令に従いたいが、結の体は言うことを聞かなかった。
仕方がないわね、と言いながら澄子が車椅子から立ち上がった。
自分の足で立って歩み寄る澄子にも驚いている結の手を取って、羽那の前足を抱きしめるように掴まらせ
「次に足」
澄子が結の太股辺りをぽんと叩く。
結は反射的に足の甲に乗った。
「世話が焼ける子ね。振り落とされないようにしっかり掴まっていなさい。羽那、お願いね」
と言って澄子が車椅子に座ると
ガアアアアー
雄叫びを上げて羽那が翼を羽ばたかせ飛び上がった。
不思議なのが、周りに何軒も民家があるのに羽那の発した叫びや羽ばたいた風圧を全く感じていないのか、結たちの眼下では、人々が普通に洗濯物を外に干したり道端で世間話をして何事もなく過ごしていた。
「みんな、羽那さんのことに気づいていない。なぜなの?」
羽那が上空を前進することで、結は全身に感じる風圧に耐えながら疑問を口にすると
「今、私たちは地上の人々とは少しだけ違う次元で活動しているのです。ほんの僅かな違いなのですが、人々は私たちの存在や影響をほとんど感じないのです」
ガガガと小さく鳴くのと同時に、羽那の声での返事が彼女の耳に聞こえてきた。
そして目的地に着いたらしく、地面に下りた羽那から
「結さん、下りてください」
と言われて足の甲から下りると、獣は一瞬で黒マントを羽織ったいつもの初老の女性になった。
「羽那さん、あなたは一体何者なのですか」
目の前に立つ見慣れた姿に、ほっとしながら結は尋ねた。
「そうですね…どう説明したらいいのでしょう。陰陽師の話に出てくる式神に似た存在とでも言いましょうか…」
羽那が答えてくれたが
「ごめんなさい。何を言っているのかわかりません」
結には理解が出来なかった。
市場に着いて羽那が結を見る。
「とにかく買い物を済ませましょう」
「そうでした」
羽那と結は外出の目的である買い出しをした。
この時、二人は市場の人々と普通に話をして買い物をした。
「結さん、フードを取りマントを後ろに垂らしているだけなので、今私たちは周りの皆さんと同じ次元にいます。ですから、普通に交流が出来ているんです。この黒いマントに包まるようにしてフードを目深に被ると、私たちの存在は周りから認識されません。少し違う次元に移っているんです」
羽那の説明に
「……そうですか」
結は、そう返事をするしかなかった。
違う次元だの、式神のような者だの、結にとって初めて耳にする話だった。
二人は台車を押しながら大量の食料を購入した。
「これで何日分の食料なんですか?」
買い込んだ物を見ながら結が聞く。特に肉の塊の量が半端なかった。牛・豚・羊・馬・鹿、四つ足の動物の肉をこれでもかと台車に積んだ。どう見ても半年分以上の食料だ。それ以前に、これだけの量を腐らず保存出来るのだろうか。
「この量だと一週間持たないです。でも鮮度が落ちるのも嫌なので…本当はもっと買って帰りたいのですが」
と羽那が答えた。
なるほど、と結は思った。澄子と自分が食べる量を考えると、肉のほとんどは羽那が消費するのだろう。確かに先ほどの姿なら、この肉の量ではすぐに食べ尽くしてしまう気がした。
「それでは戻りましょう。結さんフードをしっかり被ってマントで体を包んでください」
と言った羽那もフードとマントで身を隠し、巨大な空飛ぶ獣に変わった。




