嫌な夢
夜、結は夢を見た。
周りを見回すと、そこは自分が幼い頃に育った家だった。
淡くくすんだ紫色の壁紙に黒くペイントされた床。全体に薄暗い部屋だ。
息苦しさを感じて室内に一つだけある小さな窓を結は開けた。
目の前に広がるのはこの家によく似た窓の少ない家ばかりだ。
誰かが自分を呼んだ。結という名ではない。別の名前で呼ばれた。不思議なことに、その名が自分のことだとわかったのだった。確かに結という名は澄子がつけてくれた名前で、その前に呼ばれていた自分の名前は──。
「結さま、結さま。大丈夫ですか?」
羽那の声で現実に戻って来れた。
「ううう、はあ…」
結は深く息を吐いた。
「結さま」
「は…い」
結がゆっくり瞼を開けた。羽那が心配している。
「大分うなされていました。嫌な夢でも見たのですか」
「はい」
結はゆっくり起き上がり、自分ひとりが眠るには広すぎる寝室を見渡した。少し前までは、この部屋の中程に天蓋付きの大きな電動ベッドが置かれていた。この家の主、澄子のベッドだった。現在は、そのベッドと天蓋はなくなり空間が広がっている。カーテンを開けた大きな窓から朝の光が射し込みとても明るい。さっき見た夢の中の暗い部屋と対照的だ。
この家で暮らせることに安らぎを感じる結だった。
「熟睡出来なかったようでしたら、もう少し休まれますか?」
羽那が尋ねたが、結は首を横に振った。
目をつぶったら、またあの暗い部屋に戻ってしまいそうで怖かったのだ。
ベッドに座ったまま、結は胸元に下げている革紐を編んで作られた巾着袋を両手で握った。この中に澄子がいる。
気持ちが落ち着く。
シャリーン
──結、夢の中のあなたを救うことは私には出来ません。とても歯痒いわ。私には歯がないのにね。
「澄子さん、最後の言葉は私を笑わせようとしたジョークですか?ご心配をおかけしてごめんなさい」
シャリーン
──結、謝ることはありません。ただ、あなたの悪夢はあなた自身でしか消し去ることが出来ないのです。今日は、デイン地区に行くのをやめましょう。羽那と庭の手入れでもしたらどうかしら。
「いいえ。少しでも結界の範囲を縮めたいです」
シャリーン
──わかりました。ただし、結の調子が少しでも悪いと感じたら、すぐに帰ります。いいですね。
「はい」
結は巾着袋を見つめて返事をした。
「結さま、着替えてダイニングに。しっかり朝食を召し上がってくださいね」
羽那が、洗ってきちんとたたんだ作務衣を結に渡した。
「はい。ありがとうございます」
結は礼を言いながら受け取った。
「それでは、朝食をテーブルに用意してまいります」
羽那が寝室を出ていき、結は皺一つない作務衣に袖を通した。
そして、両手首に巻かれた革紐の腕輪を
「今日もよろしくね」
と、それぞれ反対の手で擦った。
ダイニングのテーブルに着くと、まずは巾着袋から澄子を取り出して、朝日の当たっている薄青色をしたシルクサテンの小さな座布団に鎮座させた。朝の陽射しにレモン色に輝く澄子をうっとりと眺め、結は羽那の淹れてくれた甘い紅茶をふうふうしながら味わった。
朝の陽に輝いているのは澄子だけではなく、サラダが盛られたガラスボールも、ベーコンとスクランブルエッグが乗った皿も、ヨーグルトをかけたシリアルが入ったチャイナの器も、キラキラピカピカ発光しているみたいに美しかった。
結は美味しい朝食を味わいながら、今この時が止まればどんなに幸せだろうと思った。
幸せな時間はあっという間に終わり
「澄子さん、巾着袋に入れます」
結が、生成り色の温かみを感じる玉を手に取った。
シャリーン
──結、やはり今日は魔物退治をやめましょう。
「いいえ。私は両親の仇を討ちたいのです。少しでも早く私の両親を殺した者をこの手で葬りたいのです。そうすれば、悪夢にうなされることも無くなるのではないかと思っています」
シャリーン
──そうですか。羽那、出発の準備を。
「承知しました。結さま、まいりましょう」
黒マントを羽織った羽那は同じマントを結に渡して、二人は玄関ドアを開けて外へ出て行った。




