初めての経験
デイン地区は、ごく普通の宅地や繁華街や農村部を含む地域である。
ただ、ここに棲んでいるもの以外は立ち入ることが出来ない。
ここは、彼ら特有の結界が張られているためだ。
そして、この中で衣食住全てが賄えており、それはまるで小さな国家のようであった。
結を乗せた羽那が結界のすぐ外で着地すると、結が道に下り立ち羽那も普段の姿に戻った。
「結さま、私はここで待機しております。澄子さま、結さま、お気をつけていってらっしゃいませ。無事のお帰りをお待ちしています」
と言って、羽那は黒いフードとマントでしっかり体を覆った。これで、周りから彼女の姿が見えなくなった。
結もフードとマントで体を隠し、地区を出入りするための道路の前に立つと
「澄子さん、ゲートに…入ります」
と、小さく呟く。
シャリーン
──結、私があなたをガイドします。しばらくは私の指示に従って動いてください。あなたの両手首の腕輪は、ここの魔物を倒す武器になります。使い方は、それが必要になった時に教えます。
「澄子さん、やっぱり私、足が竦んでしまって踏み出せないです」
急に結が尻込みする。
シャリーン
──結、私がついています。気持ちを楽にして。相手からは、あなたが見えません。気配も感じることが出来ないのです。ですから安心して歩き回りなさい。それと、声は出さないこと。私に問う時は頭の中で、いいですね。
「はい…わかりました。では、入ります」
結は、マントの中で澄子が収めてある袋をぎゅっと握りしめて歩き出した。
澄子が一緒だからか、彼女が過去に住んでいたからか、理由は定かではないが結はあっさりと結界の中に入り込んだ。
デイン地区の街並みはどこにでもありそうな普通の景色だ。住居地域があり、商業地域があり、工業地域があり、沼があり、田畑がある。
結は、地区の入り口付近を歩いた。
物心がついた頃からの見慣れた景色だ。
一人の住民とすれ違った。
どこから見ても普通のおばさんに見えた。魔物などとは思えない。
シャリーン
──結、まずあれを倒しましょう。いいですか、決して油断しないで。後をつけましょう。
澄子に言われて、結は後を追った。
女は一軒の家のドアを開けて中に入った。
結もドアが閉まる前に中へ入っていった。
「待った?」
女が聞く。
「少しな。何をしてたんだよ」
男が言った。この家の所有者だろうか。
二人とも、どう見ても普通の人間に見えた。
「これを、くすねてきたの」
女が、持っていた袋の中身を男に見せた。
「ほう。いいじゃないか」
「泥棒に入った人間よ。馬鹿よね。ここに来て生きて帰れると思ってたのかしら」
袋から出しテーブルに乗せたのは人間の生首だった。
それは中年の男のように見えた。
結は思わず吐きそうになる。
シャリーン
──結、堪えなさい。
澄子の鳴らした音も囁く声も、テーブルの上に乗っているものに釘付けの男女には聞こえないようだ。
そして二人は、見る見るうちに頭のてっぺんからベロンと表面がめくれていった。それはまるでバナナの皮を剥くように上から下にめくれ、姿を現したのはイボだらけのナマコのように見えた。二人は向かい合いテーブルの生首にかぶりついた。髪も皮膚も骨も脳も全てをバリバリクチャクチャと、咀嚼して呑み込む。
結はもう我慢が出来なかった。ゲエェと吐いた。
その音に二体のナマコもどきが動きを止めて、ゆっくりとこちらを向いた。
結の姿はマントのおかげで見えなかったが、吐瀉物は床に散らばっている。
「おい、誰だ!」
体の下半分は人の形をしているが、上半身はイボだらけのナマコのような状態の異形なものたちが、結に近づいた。
シャリーン
──結、相手が手の届くところまで近づいたら、マントから両手を出して手のひらを押し当てなさい。人型になっていない上半身のに触れるのです。
ええっと、結は怯んだが、やるしかないと肝を据えて目の前まできた不気味なものの上半身に、それぞれ手のひらを押し当てた。
するとすぐに、
シャリーン
シャリーン
この場にそぐわない清らかで涼やかな音が鳴り響いた。
刹那、結の目の前の異形な二体は段々と小さく透明になり、宙でボウッと黒い炎となって一瞬で消えた。
シャリーン
──結、あなたが吐いたものに手をかざして。
「はい」
シャリーン
シャリーン
すると、床に散らばっていた結の吐瀉物が、一瞬白い炎に包まれすぐに消えた。そこには何の染みもない床が見えるだけだった。
テーブルに目をやると、食べかけの人の頭部が残っていて、結がまた吐きそうになったので
シャリーン
──結、すぐに外に出ますよ。
澄子に言われて、結は家の外に出た。
シャリーン
──結、今日は帰りましょう。
ふらふらした足取りで、結はデイン地区の外に戻ると羽那の姿を見つけて抱きつき意識を失った。
シャリーン
──結、よく頑張りました。羽那、我が家に帰りましょう。
「承知しました」
マントを羽織ったまま羽那は妖獣に姿を変えると、倒れた結をそっと咥えて、大空に飛び立った。




