その時、この時
パジャマから作務衣に着替えて、結は澄子のベッドへ駆け寄った。
「ゆ…結」
弱々しい声で澄子が呼ぶ。
「はい。ここにいます」
結は、思わず澄子の小さな手を握った。
驚くほど冷たい。指先が青白くなっている。
色白でも血行の良さが現れていた澄子の頬も今は血の気を感じられない。
「ついに…この時が…来ました」
息も絶え絶えに澄子が言う。
「澄子さん、喋らないで!ゆっくり呼吸してください」
結は握っていた手を離し、頭が真っ白になりながらもベッドに横たわる小さな体を必死に擦った。少しでも血行が良くなるように。
「結…もう…いいのよ。私が…あ…げ…た…ふ……」
言いかけた澄子に向けて、結は首に下げていた革紐を編んだ巾着袋を見せた。
「澄子さん、ここに澄子さんがくれた袋があります。ちゃんと肌身離さず持っています」
結の言葉を聞いて、澄子は満足そうな顔でまばたきを一つした。
そして
「は…な…、た…の…み…ま……す」
最後の力を振り絞るように声を出した。
「澄子さま、承知しました」
羽那は返事をして、いつの間にかベッド脇に金属製の大きな器を置いた。
それは眩いくらいピカピカに磨かれており、子どもが寝られる程のサイズをした器だった。
それを見た結は思わず後退った。とても見たくない事が起こる気がしたのだ。
「ゆ…う…」
澄子が呼ぶ。
結は急いで澄子の手を握った。
「わ…た…し…の……あ…と…と…り」
「えっ」
「わ…た…し…の……こ」
そう言って澄子の体は脱力した。
「嫌だ!嫌だ!嫌だ!」
結は子どものように号泣し、嗚咽で呼吸が苦しくなった。
「結さん、申し訳ないのですが退いてください」
羽那が声をかけた。とても事務的に聞こえた。
「嫌……だ……」
「時間がありません。結さん、退いて呼吸を整えてください」
羽那はぴしゃりと言い、澄子の手を握りしめていた結の両手を無理矢理剥がすように離すと、素早く澄子の寝間着を脱がせ一糸纏わぬ姿にした。
そして抱き上げ金属製の器に横たわらせた。
「結さん、そこでじっとしていてください。声を出さないでください。いいですね」
羽那は念を押すと、澄子に向かって何か念仏のようなものを唱え始めた。
すると──
澄子の体が溶けるように、皮膚や筋肉や脂肪が…彼女の表面が下に落ちていき、人体模型のような骨格が現れた。
結はそれを見て、吐き気を催し意識を失いそうになった。
「結さん、吐いても構いませんが倒れることは許しません。そこで見続けてください」
と羽那が厳しく言った。
その間も、澄子の体は変化し続ける。
内臓も全て下側に落ちていき、そして、今度は骨が形を変え始めた。どんどん小さくなりギュッと締まるように見えた。やがてそれは胡桃大の玉になりながら、溶けて器に溜まった皮膚や筋肉や内臓や脳の海を確認するように転がり回った。
そして──
納得したように玉は跳ねた。
「結さん、澄子さまの作った巾着袋を広げてこちらへ」
羽那に言われるままに結は、金属製の器に溜まったドロドロの中を跳ね回る白っぽい玉の近くで巾着袋を広げた。
途端、玉は結の方に向かって飛び上がり、まるでバスケットボールがゴールに吸い込まれるように巾着袋の中に入ったのだった。
不思議なのは、内臓などの中に潜ったり飛び跳ねたりしたのに、その白い玉は何の匂いもせず汚れも濡れてもいなかった。
金属製の器に溜まったものも、生臭い匂いはもちろん何の匂いもしなかった。
ただ、この目の前のドロドロは間違いなく澄子だったものだ。
そして、今、結が握りしめている巾着袋の中にある白い玉も澄子だったものなのだ。
「結さん、そのままリビングでお待ちください」
と言った羽那の声は優しかったが、有無を言わせない響きを持っていた。
「わかりました」
消えそうな声で返事をすると、結は寝室を出ていった。




