第1話「灰の聖母」
世界は、かつての英雄が放った光に焼かれていた。
空は重く、鉛色の雲が低く垂れ込めている。そこから降り注ぐのは、慈雨ではない。
かつての最終決戦の際、英雄ノーラントが放った究極魔法の一部である高濃度魔力が、大気中の水分と混ざり合い、粘り気を持った灰色の雨となって地表を侵していた。
一人の男が、泥濘を歩んでいた。
重厚な外套は雨を吸って黒く沈み、その下に隠された甲冑が、一歩ごとに軋んだ金属音を立てる。
男の名は、アルマイト。
かつての英雄であり、今や偽名を使い、放浪している。
「……またか」
アルマイトは立ち止まり、視線を足元に落とした。
道の傍らに、一人の男が倒れている。村の住人だろう。その皮膚は透き通り、血管が浮き出ていた。
魔力過剰症だ。
「ああ……ノーラント様……光を……もっと光を……」
住人は前の男が英雄本人と知らずに、そう呟きながら、自らの喉を掻き毟っている。
アルマイトの右手が、震えた。
救いたい。その指先から、回復魔法を流し込めば、この男の苦痛は一瞬で消えるだろう。
だが、彼は拳を血が滲むほど強く握りしめた。
「その英雄は、救世主などではない」
声は、雨音に掻き消された。
彼が魔力を振るえば、周囲の土壌をさらに数年死なせることになる。彼の善意は、世界の毒だった。
村の中央広場には、異様な光景が広がっていた。
司祭たちが、台座の上で腕を掲げている。その背後には、ノーラントを模した石像が鎮座していた。
「見よ! これが聖痕! 英雄王が遺した、最後の慈悲である!」
司祭が掲げた瓶の中には、虹色に輝く液体が揺れている。
村人たちは、飢えた獣のような目でそれを見つめていた。家畜は角が肥大化して怪物に変容し、作物は奇形となって脈打っているというのに、彼らの瞳には盲目的な陶酔だけが宿っている。
「捧げよ! 信仰を、財を、魂を! さすれば、ノーラント様の光は血肉となり、平穏をもたらさん!」
群衆が熱狂に包まれたその時、冷徹な金属音が響き渡った。
――ガシャン。
ブーツが、祭壇を容赦なく踏みつける。アルマイトがそこに立っていた。
「……何奴だ! 礼拝を汚す不信心者め!」
司祭の叫びに、アルマイトは顔を上げた。
影の差した双眸が、司祭の手元にある瓶を射抜く。
「……それを飲めば、その女の命は、あと三日も持たない」
アルマイトの視線の先には痩せこけた少女がいた。
「黙れ! 何がわかる!」
アルマイトは鼻で笑うと、背負っていた「黒鉛鉄」の大剣の柄に手をかけた。
魔法を通さず、魔力を遮断する、この汚染された世界で唯一、魔法を否定するために作られた漆黒の塊。
「教えてやる」
刹那、空気が凍り付いた。
司祭が傭兵たちに合図を送る。抜かれる剣、放たれる攻撃魔法。
だが、アルマイトは動じない。
彼は魔法を防ぐことすらしない。ただ泥臭く、最短距離で踏み込む。
「おおおぉぉ!」
大剣が空を裂いた。
華麗な剣技ではない。それは重く、鈍い破壊の衝撃。
傭兵たちの武器が、そして司祭が掲げていた聖遺物が、一撃のもとに粉砕された。
飛び散る飛沫。それがアルマイトの頬を濡らす。それを拭おうともせず、地に伏した司祭を見下ろした。
「英雄はもういない。」
アルマイトは、少女に背を向け、村の出口へと歩き出す。
背後からは、狂信者たちの罵声と、救いを失った者の慟哭が聞こえてくる。
感謝も称賛もない。
「……次だ」




