プロローグ
かつて、この地には希望が満ちていた。
五年前。世界を塗り潰そうとした魔王を、英雄、I・G・ノーラントが強大な魔法で焼き払い、断絶した。
その時、誰もが信じていた。これで、終わるのだと。
しかし、救済には残酷なお釣りがついてきた。
英雄が放ったあまりに純粋な魔力。それは空に帰ることなく、地を這い、水に溶け、作物に染み込んだ。
かつての奇跡は、今や猛毒――「勇者公害」へと変質していた。
汚染された村々では、病が流行り、家畜は怪物へと成り果てる。
人々は、残留魔力を「神の慈悲」と呼び変え、奇跡を欲して盲目的に縋る。
その歪な信仰を糧に、三十七もの宗教団体が乱立し、英雄を盾に私欲を肥やしていた。
灰色の雨が、静かに世界を叩いていた。
立ち並ぶ木々は黒く変色し、粘り気のある雨粒が葉先から滴り落ちる。
男は、一人で立っていた。
外套の下に、甲冑を隠し、背には黒鉛鉄の大剣を負っている。
男の名はアルマイト。
かつての英雄としての名を捨てた偽名。
男は、自分の指先をじっと見つめた。
内側には、かつて世界を救った黄金の輝きが、今もなおマグマのように脈打っている。
指一本動かせば、この薄暗い森を一瞬で白銀の灰に変えられるだろう。
だが、彼はその拳を強く握り込み、爪が食い込むまで自制した。
これ以上、一滴たりとも魔法を漏らすわけにはいかない。
救おうとすればするほど、世界が死んでいく。その地獄のような矛盾が、彼の心臓を締め上げる。
遠く、森から教会の鐘が鳴り響いた。
ノーラントを救世主と崇め、利用する、聖痕教団の礼拝の合図だ。
男の頬を、一筋の雫が伝った。
雨ではない。熱を持った、透明な悔恨の露。
彼は泣いていた。
救えなかった過去と、これから壊すしかない現実のために。
「……行くか」
掠れた声で自分に言い聞かせ、男は一歩、泥濘へと踏み出す。
肉体は重く、鈍い。だが、痛みだけが、彼が自らに課した唯一の罰であり、贖罪だった。
いつか、誰かが自分の存在を終わらせてくれる。
そんな浅ましい救済を夢見ながら、アルマイトは闇の中へと消えていった。




