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執務室にて


 ティーカップを片手に、俺はそれをまんじりと眺めていた。

 湯気の向こうに執務机に向かう教授の姿が揺れる。


「せっかく訪ねてくれたのにすまないな。もう少しで一区切りつくんだよ。暫くくつろいでいてくれ」


 視線は机に向けたまま、羽ペンを走らす教授はそう言った。金で肩書きを買ったという割りに、勤勉なことだ。

 白衣を着ていない教授は、いつもの狂人然とした雰囲気もなく、至極真っ当な人間に見えるから不思議だ。


「随分と忙しいんだな、総督ってのは」


 時間を持て余した俺のささやかな嫌味に、教授はククと肩を震わせる。


「似合わないと言いたいのかね? まぁしかし、手抜きの出来ない性質(たち)でね。前の総督はどうやら相当に無能だったらしい。お陰でやることが山積していると言うわけさ」


 そう言って教授は書類の束をめくった。

 やれ人員の配置が無駄だらけだとか、囚人の管理がなっていないだとか、物資の管理が杜撰(ずさん)だとか。

 前の総督の不出来をあげつらう教授は、心底めんどくさそうにため息を漏らしたが、それでもどこか楽しげだった。


「ーーまぁこんなものか」


 教授の話を聞き流しながらしばらく待った。さして興味をひかない教授の話にも飽きてきた頃、教授がようやく机から顔を上げた。

 教授がおもむろに執務机の端に置かれた鈴を指先でつまむと、リリンと涼やかな音が鳴り響く。

 すぐにノックをする音が聞こえて、従者らしき男が入ってきた。

 看守たちとも違う制服を着た男に、教授は言葉少なく指示を出し、それからさっさと行けとばかりに手のひらをヒラヒラと振ってみせる。

 男が出て行ったのを見届けてから、教授は背伸びを一つして席を立った。


「やれやれ、随分と待たせてしまったな」


 そう言って教授は俺の向かいのソファに腰掛ける。


「身体の方はもう平気かね? 見舞いの一つでもと思ったのだがね、ご覧の有様だ。悪く思わないでくれよ?」


 悪戯っぽく笑う教授に、軽口の一つでも返そうと思ったその時、頬にうっすらと傷跡があるのに気がつく。

 思わず自分の頰を撫でた。触れればまだジクリと痛む切り傷をなぞる。


 (同じ傷ーー?)


 わずかな疑念が脳裏をよぎり、同時にマルクの言葉を思い出す。

 みんなで少しずつ傷を分けたーーと、マルクは言った。色んなことが符合する、そんな感覚。


「その傷は……」


 おずおずと切り出した言葉に、教授はキョトンとした顔を向ける。それから少しばかりバツの悪そうに目を伏せた。


「マルク君から聞かなかったかね? あぁ、その事については詫びねばならないな。リリー君だったか、彼女の()のことを聞いてね。君は嫌がるだろうとは思ったんだがーー君の傷は深く、血も失いすぎていた。他に君を救う手立てがなかったんだよ。出過ぎた真似だっただろうか?」


 珍しくしおらしい教授の態度に、どう返したものかと思案する。

 俺の傷を縫ってくれたのも教授だとマルクは言っていた。

 礼を言わなければいけないのは俺のはずだ。それなのに、勝手なことをしたと詫びる教授になんと言えば良いのか、うまい言葉が見つからない。


「何もあんたまで傷を負うことはなかっただろ」


 言い表しがたい気持ちを持て余して出た言葉は、どうにもトゲのあるものになった。

 それでも教授は気に留めた様子もなく、ふふんと鼻を鳴らす。


「子供達に危険を承知でやれと言いながら自分は傍観していられるとでも? 前にも言っただろう? 私は私の信念に殉ずる覚悟をしているのだと。なに、何のことはない。他の誰に笑われようと、君に口だけの女と侮られたのでは我慢がならない。それだけの事さ」


 口端を釣り上げ目を細めたその顔は、いつになく不敵で、どこまでもいつもの教授だった。

 どうにも肩肘張っているのが馬鹿らしくなって、不思議と笑みが漏れる。


「寝ている間に世話になったらしいな。一応、感謝してるよ。一応な」


 軽口を飛ばせる程度には俺も調子が戻った。そういう事なんだろう。

 小さく肩を震わせる教授に、俺は改めて真剣な眼差しを向けた。


「俺は別に世間話しに来た訳じゃない。わかってるだろう?」


「うむ、わかっているとも。プリシラの件だね?」


 至極真剣な視線を返す教授に、思わず生唾を飲む。

 ここに来れば、教授の傍にプリシラが立っている。そんな光景を期待していなかったといえば嘘になる。

 でも、実際のところプリシラの姿はない。


「無事なんだろうな?」


 無事なのが当たり前のような言い草で俺は聞いた。危ない橋を渡ったんだ。あれで上手くいっていなきゃ割りに合わない。

 そういう思いもある。


「勿論無事だとも。少なくとも生きてはいるよ。だがしかしーー」


 憮然として答えた教授は、どこか意味深に言葉を切った。それから眉尻を下げて、少しばかり困った表情を作ってこう続けた。

 ーー少々手を焼いている、と。

 プリシラは生きている。それは確からしい。けれど歯切れの悪い教授の姿に不安が募った。


「それはどういうーー」


「場所を変えようかテッド君。彼女は私の研究室に居る。実際に会ってもらった方が話が早いだろう」


 俺の言葉を遮って教授は立ち上がった。


「プリシラには助けが必要だ。そして恐らく、君以外には彼女を救えないだろう。ーーついて来たまえ」


 言いたいことだけを言ってさっさと部屋を出て行こうとする教授を、俺は慌てて追いかけた。心の奥底をゾワゾワと這い回る不安を、必死に押し殺しながら。

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