独り善がり
どうしようもなく足が竦む。
頭を抱えてうずくまるプリシラを前にして、俺は立っている事すら覚束ない。
「プリシラ……」
また、恐る恐るその名を呼んだ。
途端に、弾かれる様にプリシラが飛びかかってくる。
その目には、一瞬垣間見えた理性はカケラもない。
鋭い獣の爪が、何度も空を切る。
気を抜けば崩れ落ちそうな足腰に鞭打って、必死で避けた。
それでも避けきれずにまた傷を増やしながら、俺はプリシラの爪の届かない所まで後ずさる。
酷く乱れた息をどうにか整えようと空気を求めて喘ぐ。ヒューヒューと情けない息遣いが妙に大きく聞こえる。
(どうにか態勢を立て直して……)
朦朧とする頭でそう考えた矢先だ。
耳障りな金属音が鼓膜を震わせる。それにパラパラと何かがこぼれ落ちる音。
何度も、何度も何度も。その度に全身から冷や汗が噴き出すようだった。
そしてついに、ガシャンと何かが石敷きの床に落ちた。
それに続く鎖を引きずる不穏な音に、俺はその意味を直感的に理解した。
風が吹いた。そんな気がする。
いや、気のせいなんかじゃない。
派手に頰が裂け、血が吹き出して初めて、そこがもう安全じゃないと思い知る。
プリシラの右腕から垂れ下がる鎖は、もう壁に縫い止められていない。
(まただ。また……聞こえる)
鎖の揺れる音が何度も響いて反響する。
そしてガシャリと、重い金属音が響いた。
それがどういう事か、もう考えるまでもない。俺にはもう逃げ場がなくなった。そういう事だ。
ダメだ。次の一撃はもう避けられない。
そう思った。
黒い霧を纏ったプリシラの動きが酷くゆっくりと見える。
両腕を振りかぶり、獣の様な前傾姿勢で向かってくる。
直感が教える。首だ。
首を狙ってる。
仕留める気なんだと、そう理解した。
だけど同時に、俺は見たんだ。
唸り声を上げながら駆けてくるプリシラのその頬を涙が伝っているのを。
俺の中で何かが弾けて、何もかもが鮮明に見える。
強烈な衝撃を受けて、鉄格子に叩きつけられる。
肺の空気が押し出されて、息が吸えない。
それでもーー。
俺の両手は、プリシラの腕をしっかりと掴んでいた。
「……捕まえたぞ、プリシラ!」
吼える。
あらん限りの声で。
掴んだプリシラの腕は、信じられないほどの力で俺の首を絞めようと空を掴む。
一瞬でも力を緩めたら、俺は首を折られて死ぬだろう。
こんなにもプリシラは俺を殺そうとしている。それなのにーー。
「……して、テッ……ド……おね……がい……こ……して……」
泣いている。
狂気に歪んだ口元が、死を懇願している。
まったく、まったく冗談じゃない。
そんなのはもう、クソ喰らえだ。
限界だった、もう我慢ならなかった。
だから叫ぶ。
「……うるせぇよ。お前の言うことなんか! 泣いて頼まれたって、何も聞いてやるもんか! まっぴらだ! もう沢山だ! 俺はお前にっーー」
生きていて欲しかったんだ。
あの時も、今も、プリシラ。お前に生きていて欲しい。
だからーー!
「腕なら替えがあるっ! 切り落とせテッド君っ! やるんだっ!!」
鉄格子の向こうから背に受けた教授の怒鳴り声に頭がハッキリとする。
やるべき事が理解できる。
そうだ、やれる事はまだある。このちっぽけな手に、まだプリシラを救う手立てがある。
それが例え俺の独り善がりだったとしても、もう構うもんか。
身体の中の呪いの力に呼び掛ける。
俺の身体がどうなってもいい。そう思った瞬間に、それは簡単に溢れ出し、俺に力をくれる。
全身を痛みが走る。骨まで呪いが染み込んで、内側から蝕んでいくのがわかる。
でも、支払うことになる代償の事なんか、今はどうだってよかった。
俺の両腕が、いびつに隆起するのがわかる。
掴んでそこに繋ぎ止めるのがやっとだったプリシラの腕を、力任せにねじ上げる。
獣の様な咆哮が耳をつんざいた。
けど構うもんか。
「恨んでくれていい! それでも俺はっ! プリシラっ!」
一瞬の出来事だった。
力任せに腕を振り払う。姿勢を崩したプリシラのその両肩に両の手刀を叩き込む。
肌を貫き、肉を裂き、骨を断つ感触が手に伝わる。
獣の腕が宙を舞い、べチャリと水っぽい音を立てて地に落ちる。
その瞬間、纏わりつく様にプリシラを覆っていた呪いの気配が霧散していくのがわかった。
糸の切れた操り人形のように、プリシラの身体がゆらりとゆれて崩れ落ちる。
彼女の血で染まった両腕で、俺はその華奢な身体を抱きしめた。
「テッド君! プリシラ!」
勢いよく音を立てて開く鉄格子。
気怠げにもたげた視線の先で教授が何か言っている。
教授は纏っていた外套を脱いで、プリシラの肩にかけた。
(やった……のか? 上手くやれたのか?)
俺はプリシラをーー。
わからない。わからないけど。
酷く疲れていて。立ち上がる事はおろか、もう声を出すことも出来ない。
霞む視界の奥で、教授が何か言っている。
いつのまにか、俺を取り囲むマルクの、それに弟妹達の顔。
泣き出しそうな、いや、泣いているのか。
(泣くなよ。だって俺はーー)
プリシラをーー。
助け……たん……だから――。
酷く眠くて、目も開けていられない。
視界が黒く塗りつぶされて、俺はそのまま気を失った。




