恐怖の真髄
ツンと鼻をつく煤の匂い。
今しがた降りてきた天井に空いた穴、そこから鈍い光が差しているはずなのにやけに暗い。
妙だと思ったが何のことはない。壁も床も天井も煤まみれで、塗りたくったように真っ黒だった。
床には恐らくは肉屋のものらしい焼け焦げた死体がいくつか転がっている。
あれから数日経ったはずなのに、まだ残っている生き物の焼けた臭いに思わず顔をしかめる。
「一歩間違えば俺もこうなってたのか」
つま先で突つくだけでパラパラと砕ける、炭化した死体を蹴飛ばして呟く。
まったくぞっとしない話だ。
それにしたって、何をどうしたらこうなるんだ?
そんな疑問を見透かすように教授は口を開く。
「講釈が必要かね?」
やけに上機嫌な教授の目が俺を見ている。
やれやれだ。
アレはその講釈とやらを聞かなきゃ話が進まないやつだ。
「要らないと言ってもどうせ勝手にご高説たれるつもりだろう。良いぜ、話せよ。こりゃいったいどういうカラクリだ?」
わかってきたじゃないか。と教授はくつくつと笑いーー。
「ーーではご静聴願おう」
そう切り出して、この惨状の説明を始めた。
「君も知っての通り、物が燃えるには新鮮な空気が必要だ。ランプの火を密閉して覆えば火は消えるだろう? だが、その火の勢いがもっと強ければどうなるか? 考えて見たことはあるかね? 火は一見消えたように振る舞う。だがそれは新鮮な空気を得るまでなりを潜めているだけだ。その実は極限まで飢えた獣のように、じっと獲物が来るのを待ち構えているのだよ」
機が満ちるのを待つ必要がある。あの時教授はそう言った。なるほど、そういう事か。
わかったようなわからないような。
学のない俺にはやっぱりよくわからない。
「あの時、すんでの所で異形が下の扉を開けたのだよ。新鮮な空気を得た部屋の中の炎はこぞって空気を求めて通路へと噴き出した。結果として異形どもはその殆どが炎に巻かれて焼け死んだ。と、いう訳だ。少しは安心したかね?」
悦にいったように語る教授の言葉の、その半分も理解はできなかった。
けどなにか引っかかった。
それは、教授がほとんどと言った事だ。教授は全滅したとは言わなかった。
「待てよ、ほとんどと言ったか? 生き残りを出したのか? ここまでやったのに?」
「やはり君は聡いな。そこがこの計画の肝だった。そう、死んだのは殆どだ。だがそれで良いのだよ。むしろ全滅させてしまっては、私の目論見は失敗していたと言える。なぁテッド君。真に人を停滞せしめる物とはなんだと思うね?」
ダメだ。急に話が見えなくなった。
だけど不思議なほどに、教授の言葉には何か惹きつけるものがあった。
くだらないと一蹴できない何かが。
俺が目をそらすことも出来ないでいるのはそのせいだ。
「それはねーー恐怖だよ」
俺の視線のその先で、教授は凄惨な笑みを浮かべた。
「覚えているかね? 彼らがカンテラの火を消そうとした事を。君はこうも言った。彼らは知恵がある、つまり学習するとのだと。わかるかい? 彼らは炎への恐怖を克服しつつあったという事だ。それがどれほどの時間をかけて得た知恵なのかはわからない。だがいずれ、遠くないうちに彼らが火を扱うようになる日が来る。我々人類がそうであったようにね」
なんだ、なんの話だ。
今だにハッキリとしない頭では、教授の言わんとしていることがわからない。
それでも、戸惑う俺のことなど御構い無しに教授の講釈は続く。
「ーー恐怖を新たにしなければならなかった。テッド君。真に怖ろしいものとは何かわかるかね? それは未知だ。知らないという事、己の理解が及ばないという事。それに勝る恐怖など存在しない」
ーーだから私は何もかもを知りたいのだ。
そう小さく呟くように付け加えた教授は目を伏せる。
けどすぐに顔を上げ、話が逸れてしまったな。と笑った。
一瞬の刹那に垣間見た物憂げな表情は消え、いつも通りの教授の顔がそこにある。
「私は、彼らを炎でもって、かつ彼らの知り得ない方法で殺した。恐怖とは伝播するものだ。彼らが互いに意思を疎通し、学習した事を共有する能力があるというのならば、生き残ったものは存分に恐怖を広めるだろう。もうこの場所に彼らは近づかない。未知なる恐怖ゆえに。それは絶対だーー。どうかね? これが君の知りたかった事であれば幸いだ」
長々と続いた講釈を、教授はそう締めくくった。
結局のところ、教授の話は小難しくてあまり理解できなかった。
ただ当の本人は酷く満足げだ。つくずく、能書きを垂れるのが好きらしい。
「俺が気を失う前に感じた衝撃は、その爆発だったって事か。その爆発で俺は地下から打ち上げられて助かったって事か?」
「ふむ、その推論は半分が正解だ」
「半分ってのはどういうことだよ」
胡乱な視線を向けた先で教授はにわかに表情を曇らせたように見えた。
――やはり覚えてはいないか。
そう小さく前置きして教授は俺に向き直った。
「――君を助けたのはプリシラだよ」
首だけ回して俺を見る教授の顔は珍しく笑っていなかった。
ーーえ?
そんな記憶はない。
いや、本当にそうか? あの時、誰かに手を掴まれなかったか?
戸惑う俺をよそに、教授は大げさな身振りで振り返る。
「面白いものを見せてもらったと、そう言っただろう? あの時、プリシラは君を助けに身を投げ出したんだよ。私が制止したにも関わらずね」
どういう事だ?
それじゃぁまるで、プリシラが教授の命令に背いたみたいな言い方だ。
余計に混乱してしまった俺の肩を教授が叩く。
「日の高いうちとはいえここに長居するのは良くないな。そろそろ行こうかテッド君。君に見て欲しい物はこれで済んだ。次は会わせたい者の方だ」
そう言ってさっさと梯子を上っていってしまう教授を、俺は半ば呆気に取られたまま見送った。




